2013-08-25

俳句の自然 子規への遡行21 橋本直

俳句の自然 子規への遡行21


橋本 直
初出『若竹』2012年10月号
 (一部改変がある)
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『分類俳句全集』(以下、『分類―』と略す)に話をもどす。今回は、前々回例に挙げた、「今朝の春」を再び例にとり、子規自身はどのように実作をしているのか確認し、分類作業と実作の関連について考えてみたいと思う。

子規が「今朝の春」を詠みこんだ句は、以下に挙げる二四句が見出せる。しかし、そのうち半分以上の一四句は抹消句とされており、どういうわけか明治二七年の後はこの題で詠まれなくなる。つまり、子規は作家としてこの年で「今朝の春」という季語を捨てているのである(ちなみに、「今日の春」はどうやら一句もない)。

新年の季語は型どおりにしか詠みにくいと判断したゆえのことかと思われ、それも興味深い点なのだが、ひとまずは各句と『分類―』との連関の遠近について検討してみたい。分類を自己の作句の糧にしたとされる子規にあってみれば、そこで既に分類された句群になんらかの新味を加えているはずではないか、と予想することは許されるだろう。実際はどうであったろうか。

①鶯も谷の戸出るやけさの春  「山吹の一枝」明治23年   
②×けさの春御城も庵も一かすみ  「寒山落木」同25年
③×月落て星まばらなりけさの春  同
④×我庵は御城を二里やけさの春  同
⑤×我等まで神の御末ぞけさの春  同(拾遺)
⑥一休は死んでめでたしけさの春  同(全集第四巻五百木瓢亭筆「雁かね集」の「蕪村風十二ヶ月」にも所収)
⑦×家持て門松立てゝけさの春  同
⑧×風吹て門松うたふけさの春  同
⑨かばかりのものとしらじをけさの春  同
⑩今朝の春有明月を見つけたり  同
⑪けさの春琵琶湖緑に不二白し  同26年
⑫×城門に槍の林やけさの春  同
⑬×天守閣屹然としてけさの春  同
⑭唾壺に龍はかくれてけさの春  同
⑮×どこ見ても霞だらけにけさの春  同
⑯×世の中にすめばこそあれけさの春  同
⑰鶯の隣にすんで今朝の春  同27年
⑱君か代や四千萬人けさの春  同
(拾遺・他に全集一八巻にも所収。虚子当て年賀葉書に自筆)
⑲×白河の關むらさきにけさの春  同
⑳禪僧の寂然として今朝の春  同
㉑白し青し相生の筑波けさの春  同
㉒×なき親の繪姿笑ふ今朝の春  同
㉓×吾妹子のうしろ姿やけさの春  同
㉔×のどかさは新聞もなしけさの春  同
※注記:句頭の×は抹消句

以前紹介したように、『分類―』「今朝の春」の下位分類には、「風・霞」、「月・雨・雪」、「日・天空」、「動物等」、「松」、「木(除松)」、「草(雑花)」、「地理と器物・衣冠」、「地理と神人(肢体)」、「山水(除肢体等)」、「地理(除肢体等・除山水)」、「器物と衣冠(肢体)」、「器物(除肢体等)」、「衣冠」、「神人と土木・飲食・肢体」、「神仏類・人倫(除肢体等)」、「神人」、「土木」、「飲食・身体・心」、「年と人事・時令(除心命等)」、「建築・時令」、「文詞・動人事(除時候等)」、「除時令等」、「除時日人事等・除言詞・除喜悦福徳」の二四種(表記は原文より簡略化した)があった。

そこで、子規の分類に従って子規の句の分類を試みてみると、①は問題なく「動物等」に分けられるだろう。「新春をむかえ、鶯も谷を出て里におりてくることだろう」という程の趣向による句作であり、新暦の新年というより旧暦の感覚の作と思われる。「動物等」の項には、「鶯や耳これを得てけさの春」(宗春)、「鶯に誰か教へてけさの春」(吟江)があり、季語の本意として、春告げ鳥としての鳴くことへの露骨な期待はないものの、このころ初心者である子規の句も、これらとそう大差はない。

②は機械的に子規の方法に当てはめれば「風・霞」に分類されるが、これも一見風景描写のようだけれども、城と庵の対比とから、暗に上から下まで天下そろって新春を言祝ぐ気分で通ずることを詠んでもいようから、新味は薄いと感じる。

③は月と星を共に詠み込んである。「今日の春」であれば「天文」があるのが「今朝の春」にはないので、「月・雨・雪」、「日・天空」をあわせたことになる。子規として作句段階でどこまで意図していたか不明確だが、近世にはなかった組み合わせとして詠んでいる可能性がある。

④は「地理(除肢体等・除山水)」になるだろう。『分類―』には「六十里余の故郷よけさの春けしき」(和風)、「寺町や二条を上ルけさの春」(重勝)等がある。 子規はこの前年、寄宿舎を出て本郷区駒込追分町に越して独りで正月を迎えており、皇居との距離から言っても付合するので、状況をそのまま詠んだものと思われる。つまりそれ以前との差異を言うわけで、内輪向きの志向をでない。

⑤、⑥は「神人」に分類されるだろう。このうち⑤は以前触れたとおり近世に類句が存在し抹消された。⑥は解釈がわかりにくいが、一休宗純が人に良い言葉を乞われ、死の自然であるべき順序を示した「親死に、子死に、孫死に」という言葉をのこしたという伝説があるので、それを踏まえて死に方を讃えたものかと思う。子規にはいくつか一休の句がある。

なお、「雁かね集」は瓢亭が遊人からの来信中の句のみ抜書したもの。瓢亭には蕪村風とされているが、智識を前提に作句したもので、後に子規達が賞揚する風とは異なり、新味は薄いだろう。 

(つづく)

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