2013-10-20

【句集を読む】亀田虎童子『合鍵』を読む 太田うさぎ

【句集を読む】
亀田虎童子『合鍵』を読む

太田うさぎ

『雷魚』第95号(2013年8月)より転載

今読んでいる本に暁と黄昏の違いを述べるくだりがある。著者は長い船旅の間に水平線上に繰り広げられる日の出と日の入りのスペクタクルを幾度となく目撃するうち、夕日の神秘の虜となる。彼は言う、蒼ざめた空から生まれた朝日はやがて薔薇色の輝きをもって軽やかに空へ上がっていくだけだが、夕日はその光線で雲を眩しく輝く立体建築に造り上げ、空と海を刻々と限りない繊細な色調に彩りながら、観客のアンコールに応えるオーケストラのように一日の光の変容を自らのうちに反復してみせるのだ、と。その幻想的な時間と空間の移り変わりがときに生き生きとまたは深遠に、黄昏のなかに立つ者を今日という一日への内省へと促す。レヴィ=ストロースはそのように夕陽と人間の関係を一章に亘り描く。

亀田虎童子氏の最新句集『合鍵』には絢爛たる残照にはまだ早い、言ってみれば秋の午後のように穏やかな日が差している。前句集『色鳥』の明るいテンポはより落ち着いた調べとなり、平易な表現は更なる自然体を纏って全体を柔らかく包む。然しその日の差し方を「渋み」や「恬淡」と形容するのはちょっと違う。随所に顔を出すのは茶目っ気とでも言うべき機知の輝きであり、皓皓としてしたたかな気概である。八十有余年を生きてきた一人の男としての来し方に対する懐古や現在の生活そして心境が或るいは軽妙な言い回し或いは辛辣な筆致で衒いなく描かれている。

  四五枚の葉に触れながら椿落つ

既に地に落ちている椿は毎年目にするが、残念なことに椿が落ちるところを未だに目にしたことがない。一片一片散ってゆく桜と異なり、咢もろとも落ちる椿が地に着くまでの時間は実際にはあっという間だろうが、この椿の落ち方はまるでスローモーション撮影のようだ。一枚の葉に触れるごとに椿は少し弾み、また落下する。その繰り返しが四五回とあれば椿の木の高さが言わずとも自ずと見える。きっちりした写生句である。一方で「葉に触れながら」の措辞は椿が一つ木に生った葉に別れを告げるかの趣きがある。光に照り映える椿の葉の艶と相俟って明るく静かな読後感を齎す。

  黒穂抜く隣の田にものめりこみ

  蚊帳吊草蚊帳知らぬ子の世となれり

  飢ゑもいくさも寒さも昭和なつかしき

麦の黒穂は収穫に影響を及ぼす伝染を防ぐためにすぐさま取り除かねばならない。「のめりこみ」の動作は差し迫った緊張を伝えるが、同時に何が無しにユーモラスでもある。一所懸命になるうちついつい人の領域にまで踏み込んでしまう。私が幼い頃にさせられた門の前の掃き掃除もこのようだった。「もはや戦後ではない」という言葉が流行するほど「まだ戦後」だった時代だ。その頃近所には原っぱも多く蚊帳吊草も当たり前に生えていた。上手に裂けるか友達と競った。

蚊帳吊草は今でも時折目にするが、蚊帳を使う家庭は殆どないだろう。植物は残ってもその名の由来はいつかまったく失われるかもしれない。私たちはそうやって引き換えに生活の利便を手に入れて来た。けれどもぬくぬくと快適な暮しを享受しながら肚の底が今よりも若くて貧しかった時代を懐かしむのである。いわゆる青春を昭和に過ごした私にもその感覚は分かるつもりだが、亀田氏の「なつかしき」はおそらくもっと深い。「いくさも」の香辛料がシニカルに響く。

シニカルな目線は病を得ながらも長寿の日々を重ねている自身に向けられもする。突き放したように己を見つめる作風は『色鳥』にはまだ見られなかったように思う。前作ではふわっと上がり気味だった自画像の口角が、この句集では厳しく真一文字に結ばれることがあるのだ。そしてそのシニシズムを反転させれば先だった家族、師、友人たちへの追慕となる。

  生きてゐることも辛抱氷菓噛む

  道草を叱る人なき菫かな

  春うれひ消えては現るる波の裏

歯に沁みて脳天へ突き抜ける氷菓の冷たさを辛抱するのは取りも直さず生きている証なのだと苦いユーモアで語る。かつて道草を嗜めたのは母であろうか、おしゃまな妹たちか。「ア」音の重なりが句に優しげな表情を与えその分切なさが増す。

「春うれひ」は一年半前に逝去した盟友八田木枯さんを悼んだ句。前書に「鳥帰る波のうしろも濡れてゐて」を引き故人へ呼びかける。「消えては現るる」は写実であると同時に心の機微でもある。

体調から遠出はなかなか叶わないとのことだが、日常に題材を得たものに佳吟が見られる。微笑を誘う「頭から食はねば目刺可哀相」「もう一つ踏んでたじろぐけむり茸」などの呼吸はやはりこの作者ならではのものであろう。「折れさうな肢のいそしむ水馬」「からつぽのとんぼの尻尾上天気」など、幼いころから親しんだ生き物へ向ける眼差しは、先に述べた内省的なそれとは打って変わって直球の愛情に満ちている。

  何買ふとなき財布もち秋祭

  着馴れたるものを着てゆく初詣

こうした句に私はひどく惹かれる。それぞれ季語が寄木細工よろしくピタリと嵌っているのだ。まろやかな余韻に浸りながら大人の句だなあ、と感心する。また、

  人は時に後ろを忘れ螢狩

  遠い旅ひとつ残して桃冷す

のような艶と円熟は亀田氏の今後の作風となるのか興味深いところである。「後ろ」の象徴するものは様々だろうが、背後に負うものから解き放たれて蛍の闇を彷徨う姿と冷たく甘い桃が導く果しえなかった旅への憧憬は、幽玄さと透明感という読者へ投げかけるイメージの違いはあれど、「ひとりごころ」においてどこか共通しているように思う。

最後に二句揚げる。

  色鳥や四五本の樹に日の当り

  枯木立囁きほどの日の差せり

前作の句集のタイトルとなった「色鳥やおほかた逝きし釣り仲間」とは趣を異にする大人しい写生句だが、仄かな希望を感じさせる。

冒頭に掲げた南大西洋沖に沈む夕日の華々しさに亀田氏の俳句が塗れることはおそらくこれからもないだろう。俳句とは木立のあわいにたゆたう囁きほどの冬の光を見逃さない文芸だということを氏は充分承知しているのだ。



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