2013-10-27

俳句の逆説 齋藤朝比古句集『累日』を読む 小野裕三

俳句の逆説
齋藤朝比古句集『累日』を読む

小野裕三



この作者の実力からすれば、遅すぎたと言っても過言ではない、待望の第一句集。朝比古氏について実は僕自身、何度も文章を書いてきて(『豆の木11号』所収の「向こう岸の男」、『俳コレ』所収の「ユートピアの骨法」)、そのことの繰り返しにはなるのだが、逆に言えば長年にわたって僕の中でまったく揺るがない確信とも言えることがある。それは、朝比古氏の俳句にこそ、俳句全般の未来を照らすようなもの、俳句の持つ可能性の最先端の部分、そういったものが強く感じられるということだ。数多くのすぐれた才能を輩出してきた俳句研究賞が、朝比古氏の受賞をもってその歴史を閉じたというのはある意味で象徴的でもあり、あたかも俳句研究賞は俳句の未来を朝比古氏に託すかのような形で終焉した。

そんな朝比古氏について、師である石寒太氏が本書でこんなことを告白している。朝比古氏が初めて句会に現われた時、その句を見た瞬間に「あっ、この人は、俳句には向いていないな」と感じ、そして「きっと一年くらい以内に辞めていくだろう」と思ったのだという。そしてその予感は、ある面では当たっていた。寒太氏いわく、「その後、数年間の彼は、相変わらず同じことの繰り返し」で、「ほとんど句会では無点句ばかりの歳月が過ぎた」。まさに最初の予感のとおり、俳句に向いていないという状況が何年も続いたのだ。しかし、その後の展開がなんとも面白い。「普通の人なら、いつの間にかこのあたりで消えていくのが常なのである。が、よほど俳句が気に入ったのか、仲間が楽しかったのか、その両方なのか、いつも休まずに来て、いつの間にか句会の中心になっていった」。

このくだりを読んで彼の人柄を知る僕としてはなんだかにんまりしてしまった。朝比古氏とは確かにそういう人物である。俳人としての彼の特徴として、とにかく俳句を愉しむという姿勢に徹していること、そしてそのことにも繋がるのだが、貪欲とも言えるほど多くの句会に参加すること、がある。もうだいぶ以前の話だが、「豆の木」の吟行旅行でご一緒した時に、実は他の句会を二つ休んでその吟行に参加しているとのことを彼から聞いて、その“句会三昧”ぶりに驚いたことがある。

そんな朝比古氏は、「連衆」という言葉もよく口にする。句会という座を一緒に愉しむ仲間たち。彼が語る「連衆」という言葉には、特別な思いが籠っているようにも聞こえる。彼が「連衆」と語る時、そこには不思議と何か活き活きとした血が通っている。朝比古氏は、俳句が座の文芸であるという歴史的な事実を、もっとも明快な形で生きている現代俳人のように思える。

それとさきほど引用した寒太氏の評でもうひとつ、なるほどとあらためて思った部分がある。それは最初数年間の彼の作品が「同じことの繰り返し」だった、というところ。実は彼には、同じ言葉の繰り返しを意図的に織り込んだ佳句が多い。

  サングラス砂を払ひて砂に置く

  ふらここの影がふらここより迅し

  毛糸編む毛糸説得するごとく

同じものはあくまで同じものであってそれ以上でもそれ以下でもなく、従って普通の人はそこに格別な差異を見出そうとはしない。ところが彼はその同じものの中に確かな差異を見出す。そしてそれこそがまさしく、俳句作品にとっての発見となる。一句の中で見られる彼のそのような性向は、実は彼の俳句作品全体を通じても言える特質で、繰り返しのような単調な平凡さの中に、はっとするような差異や発見を掴みとる。ひょっとすると、最初の数年間における「同じことの繰り返し」の中で、彼はそのような感性を研ぎ澄ませていったのかも知れない。

しかし思えば、俳句が足を置く基盤とはまさにそのような場所でもある。多くの人にとっての日常生活とは、単調な出来事の繰り返しでほとんどが埋め尽くされる。劇的なドラマが次々と待ち受けるような興奮に充ちた毎日を過ごす人もいないわけではないだろうが、決して多数派ではない。多くの人は、平凡に生き、平凡に笑い、平凡に泣き、平凡に楽しみ、平凡に悲しみ、そして生涯を終える。よくもわるくも、これは世の中における真理だ。

そして俳句とは、この普遍的な真理に眼を向ける文芸でもある。「同じことの繰り返し」に確かな差異を発見する朝比古氏の視点は、「同じことの繰り返し」に終始するかのような日常生活の中に、そしてまさにその中に、鮮やかな生命の躍動を発見する。

  ふるさとのいつもの場所の蠅叩

  部屋ひとつ余す暮しや夏の月

  自転車にちりんと抜かれ日短

  縁側へ居間へ仏間へ西瓜かな

平凡な日常の繰り返しの中にこそ、もっとも鮮やかなものがあるという逆説。その逆説こそが俳句の核心であり、そして俳句の持つ大きな可能性のヒントであるとするなら、朝比古氏の俳句こそはもっともよくそれを体現するものと言える。

  イエスゐるやうにラグビーボール置く

  切るやうに手を入れてゆく泉かな

それにしても、これらの句に見られる輝きはどうだろう。奇を衒うでもなく、特殊な言葉や特殊な光景を詠むでもなく、それでもその句からは見たこともない活き活きとした光が放たれる。前衛だ伝統だといった議論が一気に遠く色褪せてしまうくらい、その光はオリジナルな新しさで充たされている。だからこそ、もう一度繰り返して言いたい。平凡な日常の中から俳句の言葉によって解き放たれたこの輝きこそが、まごうことなく俳句の未来を、その可能性を照らしていくはずだ、と。

ともあれ、彼と多くの句座を共にさせてもらった「連衆」の一人として、そして俳句の愉しみやその輝きを教えてもらった者の一人として、朝比古氏のこの第一句集の上梓を心からお祝いしたい。


齋藤朝比古句集『累日』(2013年9月25日/角川書店)

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