2013-10-27

〈史的=始原的認識〉と抒情 高橋修宏第3句集『虚器』を読んで 関悦史

〈史的=始原的認識〉と抒情
高橋修宏第3句集『虚器』を読んで

関 悦史



(北日本新聞 2013年9月23日掲載)

東京の中心に皇居という空虚な空間が広がっていることに着目したのは『表徴の帝国』のロラン・バルトだったが、高橋修宏は国家、俳句形式、引いては生命をも空虚な器と見なしている。ただし高橋が惹かれるのは、空虚ゆえの明るさ、希薄さではない。そこに影のようにまつわりつく人の営為と思念のなまなましい堆積であり、そこから積分されて立ちあがるものとしての歴史である。

高橋はこの第三句集『虚器』の後記でこう述べる。二一世紀に入ってから次々と起きた大きな出来事によって「〈原始〉的とも〈古代〉的とも呼ぶことも可能な」「見えづらかった何ものかが一気に露出してきたことを感ずる」と。前句集『蜜楼』から五年しか経っておらず、「すめらぎ」「戦争」といった歴史的な重みと翳りをまとったキーワードを用いて、心中に分光(むしろ分闇というべきだろうか)されるものを検出するという方法自体は変化していないが、今回の『虚器』はこの方法が陥りがちな生硬さが姿を消し、格段になめらかに深化を遂げている。しかしこれは呑気に喜んでばかりいられることとは思えない。高橋の師、鈴木六林男は徴兵されて弾片を体内に埋めたまま生涯を過ごし、社会性に富む佳吟を生んだ。そこまでの身体性はないにせよ、歴史を貫く巨大な翳りが高橋の内部にも及んできたということだからである。高橋はそれを心理的な不安としては書かず、寓意的に、つまり構造的に捉える。にもかかわらず句がなまなましさを帯びるとしたら、芭蕉のいう、虚にいて実を行なうという、分離と統合の重層性を、時代の不穏さのなかで会得してしまったからであろう。

《国生みのごと御不浄の初明り》。国生み神話を想う句においても高橋は御不浄の闇と不定形性を土台に据える。国家や歴史の巨大な力が現世と他界の境目の小暗い領域に関わるとき、高橋は最も鋭敏に反応するのだ。《爆死その地を這いまわる桜蕊》《すめらぎの巣なる早乙女たちの肉》

同時多発テロや大震災に伴う原発事故など、近年の世界史的事件も、そうした巨大な力の現前として捉えられる。《超高層炎上妙法蓮華経》《胞衣を脱ぎ原子の灯煌々と》。原子炉までが胞衣を脱いでぬめりつつ生まれてくるが、これは生命主義の包容性とは無縁である。いわゆる狂牛病を思わせる《春狂う雄牛の舌は煮られけり》や、枯野が擬人化される《戦争はまだかと枯野声を上げ》も、生命への共感よりは、史的=始原的なうねりが生死の境界自体を揺さぶるものとしての現在に注意が向いている。《わが地球視ておる蛆のごときもの》《魂集うコンビニエンスストアの羽蟻》《惑星の軌道淋しき草枕》などの宇宙の闇を控えた生命の不気味さと淋しさは、破局を見据える学者のように現在を俳句化してゆく高橋の視線に必然的にまつわるものだ。認識が抒情に転ずるまでのこの迂回の大きさ、そこにこの作者の本領がある。


高橋修宏句集『虚器』2013年8月/草子舎


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