2013-10-27

へテロトピアとその悲しみ 金原まさ子『カルナヴァル』を読む 小津夜景

へテロトピアとその悲しみ
金原まさ子『カルナヴァル』を読む

小津夜景



かつてラカンは、全体性へのノスタルジーとは「母親のイマーゴ」の欠如に由来する、と述べた。またさらに、全体性という不可能を成就させるために、わたしたちは死をひとつの(食)欲(appétit)の対象とするのだ、とも 。ここで言われる「母親のイマーゴ」とは次のようなものらしい。

離乳コンプレックスにおいて重要な役割を演じるのは、母親のイマーゴとの関係である。母親のイマーゴは、内容的には『幼児期に固有の諸感覚によって与えられ』、『対象の形態の到来に先立つ』一種のカオスである。幼児期の母との関係にはまだ能動と受動の区別はなく、吸う存在が同時に吸われる存在であるかのような世界が展開しているため、離乳コンプレックスは『融合的で発話言以前のカニバリズム』として表現される。この段階では自我のイマージュはまだ形成されておらず、いわゆるナルシシズムについて語ることはできない。〔*〕
死の本能に向かって、自他の区別のないカオスに向かって、わたしとわたし以外の全てが、食い、食われ、食らいあうこと。そんな光景に満ちた句集、それが『カルナヴァル』である。

  猿のように抱かれ干しいちじくを欲る

  吸いたし目玉・水玉・すだま夜の秋

  歯を一揃いひかりごけ瞶るために

  わが足のああ堪えがたき美味われは蛸

  我肉を食べ放題や神の留守

  馬刺したべ火事の匂いがしてならぬ

  ない・ある・孔雀の肉を食う時間

  百万回死にたし生きたし石榴食う

  三度目の生れ変わりのベラですよ

  ああそうか昼食は食べたのだ鰯雲

「干しいちじく」「目玉」「ひかりごけ」の句には、母親のイマーゴの欠如が作者に強いる情動的な融合への願望、すなわちラカンの言う「融合的で発話以前のカニバリズム」の気分がありありと描かれている。また「蛸」の句では、自己/他者ならびに能動/受動の区別の破棄といった「全体性へのノスタルジー」が、おのれの足に吸いつくことの至福として具現化されているようだ。さらに「食べ放題」「馬刺し」「孔雀の肉」の句からは「神の留守」「火事」「ない/ある時間」といった確率的な非日常性が「咎めなき肉食」への渇望を盛り立てているさまが見てとれ、さいごの「石榴」「ベラ」「鰯雲」の句では、自己と食欲との関係が無限に(時に自分が食べたことも分からなくなってしまうほど)反復されねばならない回帰性のファンタジーである事実が印象的に示されている。

『カルナヴァル』に見られるこうした「食への志向性」は、さまざまなモチーフをシンプルに「食う」ことや、主体/客体ならびに能動/受動が相互間入的に「食らいあう」ことに留まらない。たとえば次の句では、他者の「食らった」あるいは「食らうだろう」運命を、作者が正面から「食い入る」ように見つめている。

  雲の峯まっしろ食われセバスチャン

  まっしろな鞭打ちの音大花野
       ああ、
          セバスチャン!

これらの句は、伝統的な同性愛描写のコードを無視している点、すなわち神聖と退廃のエロティシズムを志向していない点に大きな特色がある。作者の描写には「禁忌と侵犯の弁証法」や背徳と崇高をバネとした「垂直型のヒステリア」の気配がなく、またそれゆえ精神のひそかな緊張を読者にうながす契機もない。美術ならびに文学史上、この逞しい肉体を有する美青年(ということになっている)殉教聖人セバスティアヌスが、ゲイ・アイコンとして燦然と輝いてきた事実を思えば、かくもおおらかな光景の中、まっしろな雲の峯に「食われ」たり、まっしろな鞭打ちの音を「食らっ」たりして死んでゆくなど(シャレでない限り)ちょっとありえない書き方である(グロを大量に導入し、文字どおり清濁併せ呑んだ描写で同性愛と殉教を描き切ったデレク・ジャーマンのような強者でさえ、セバスチャンの「苦痛に身悶える肉体」の醸し出す官能に対してはどんなユーモアも差し挟むことができなかった。それほどまでに美しいセバスチャン!)。どうやら作者は、セバスチャンの(そして彼を見つめる同性愛者達の)この地上で背負わされた運命の栄光と悲惨に微塵も興味をもっていないらしい(もっともその無関心ゆえ、上記の句はみずみずしい驚異と空虚に満ちたものとなり得ているのだが)。

  それは縄跳びの縄ですにがよもぎ

  大綿のああすはだかのひとひらよ

  二時間は温いよ春の鹿撃たれ

  はだかになり神に瞶られて気がつかぬ

  牡丹へふたりの神父近づき来

  ああスティグマータちらと小菊の芳香よ

  緑陰に入る堕天使のくるぶしよ

このようにフランクで奇を衒うことのない苦痛や罪や死の描写に、異端のエロティシズムへの傾倒や作者自身の女性性との葛藤などといった闇を見出すのは困難である。おそらく作者は、単なる補食対象として同性愛を眺めているのであり、また常にその思惑は、運命に食われゆく他者の存在を賞味することで、おのれ自身の「間身体性の欲求」すなわち「全体性へのノスタルジー」を満たすことにあるのだ。ちなみにこうした賞味の気分は海鼠や藤など、いかにも食いごたえのありそうな、ぽってりした楕球状の物体を素材とする一連の句においても見てとることができる。

  海鼠売りの男女がくぐる裏鬼門
 
  うつむいて海鼠をわらう女かな

  海鼠盛りなまあたたかき器かな

  赤い真綿でいつか海鼠を縊るなら

  衆道や酸味の淡くて酢海鼠の

  藤が憑くので度々空(くう)へゆくのです

  出窓から藤があらわれ半裸なる

  藤房の重なりあって薄目して
  
  ごうごうと炎が無人の藤屋敷

  鞭打たれ打たれてイエズスのような藤

上記の句は、モチーフの選択基準やイメージの構成方法をめぐって、これまで確認された作者の嗜好を全く忠実に繰り返している、と言ってよいだろう。この作者の欲望は、やはりここでも天然で、あくまでも無加工であり、とりわけセックスやジェンダーにまつわる潜在的な暴力に対する、女性特有の抵抗や衝突あるいは混乱から免れている。そしてその理由は、作者の食や性へのこだわりが「女」性的というよりも「母」性的な幻想に依拠しているが故に違いない。言ってみれば、金原まさ子は『カルナヴァル』において万物の母の位置に君臨している——勿論これは、世界を生み出す母、といった意味ではなく、世界の万物を見つめ、またそれに食いつき体内化することで自己の欠如を埋め、ついには全体性の母型へと自己を回帰させる、といった意味である——のだ。

おそらく、このような「ナルシシズムならざる独我論」を描きうる金原まさ子とは、稀有な賦質を授かった作家であるにちがいないのだろう。とはいえ私は、たとえば次のような句、彼女の「全体性の王国」が崩壊した光景の詠まれた句の方が好きである。

  エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く

  嚙んで吐けば檸檬の皮の黄やけわし

私にはこうした句が、「全体性のノスタルジー」へ向かう作者が、みずからのトポスに呑み込むことのできない鮮烈な異物と格闘しているさまを描いたもののように思われる。いくら彼女が世界を呑み込もうとしても、ときに世界の側が彼女を拒否することもあるのだ。

またさらに、この句集にみられる「全体性の王国」は必ずしも「同一性の王国」と同義ではない。むしろ金原まさ子のつくりあげる王国はユートピア(理想郷)ではなく、ヘテロトピア(混在郷)のようである。そして、もとより人はヘテロトピアスを漂う生き物なのだ。

  別々の夢見て貝柱と貝は

私の肉体の中に、私とはなりえない「別の肉」が存在することの可笑しさ。分離不能なトポスの内に、決して重なりあうことのない「別々の夢」が存在していることの痛ましさ。すべてを食欲することで自他の区別なき幻想を生きつつも、いやそのような幻想を抱けば抱くほど、自己が自己だけのものとなりえない「公共空間」であることに気づかざるを得ない主体。『カルナヴァル』における主体のリアルな姿とは、決して閉鎖的なカオスではなく、大いなる全体を欲望しつつも、どうしても食べ尽くす(=同体化する)ことのできない何者かと共に生きる、どこかが開かれたままの奇妙なオルガニズムなのである。


〔*〕廣瀬浩司「ヘテロトピアのまなざしと身体の制度」、筑波大学言語文化論集、第44号、1997,pp. 129-130参照



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