2013-12-15

真説温泉あんま芸者 第12回 全世界目録 西原天気

真説温泉あんま芸者 第12回
全世界目録

西原天気


この世界がもしも岩下志麻と若尾文子だけで出来ていたら、どんなにか素晴らしいだろう。

しかしながら、ご承知のとおり、世界の成り立ちは、そうではない。世界は「いろいろなもの」で出来ている〔*1〕

  突如そこに砂浜があり茄子があり  村越 敦〔*2〕

砂浜がなぜそこにあるのか。茄子はなぜああなのか。エレガントな説明、精緻で明晰で簡潔な叙述は可能で、それはそれで世界の成り立ちを美しく私たちに伝える。

けれども、〈それら〉が突如そこにあること、理由なく、体感的には偶然として、そこにあることもまた、世界の一様相にちがいない。ちがいないからこそ、この句は、説明も描写もなく、唐突に「砂浜」と「茄子」を「そこに」置く。

俳句とは、総体として「全世界目録」を成すものかもしれない〔*3〕

物語の歴史や詩的なイコノロジー(図像学)の切り口から、砂浜との邂逅(視界に砂浜や海が突如として広がる物語のシーンを私たちはいくつも知っている)、茄子の突拍子のなさ(なんなのだ? あの形状は)を指摘することで、この句を鑑賞/賞賛することもできるだろう。しかし、それよりもまえに、俳句とは、つねに「いろいろなもの」のうちのひとつ(あるいは、いくつか)を、そこ(句)に置くことだけで世界を伝えようとするものであることを、あらためて思い知るだけでよい。

描くことをやめ、理由や背景との関係を断つ。

この行為、作者の行為を「用意周到な無責任」と呼んでもさしつかえない。句が「突如」性を獲得するには、「突如」と言う/書くだけではダメなのであって、なんらかの工夫が要る〔*4〕

砂浜がなぜそこにあるのか。茄子はなぜああなのか。俳句はその問いに答えやヒントを与えることはできない。俳句ができることは、砂浜が「そこにあってしまう」こと、茄子が「ああであってしまう」こととの遭遇だけである。

この遭遇が何の役に立つのかといえば、何の役にも立たない。砂浜の美化に、茄子の品種改良に、俳句が協力することはない〔*5〕。俳句の態度は、先ほど言ったのとは少し違った意味で「無責任」なものだ。

「だって、あるんだもん」

これはそうとうに稚気を含んだ無責任、そして呆けた物言いでもある。

けれども/にもかかわらず、在るものを「在る」と言ってもらうだけで、得心できるのだから、俳句とは不思議なものだ、と思うのですよ。


追記:
目録に、余計な説明は不要、ということもよくあることだ。あることがわかれば、それでよい。それがベストのいうこともある。



〔*1〕世界の成り立ちを世界の成分と言い換えれば、上田信治の連載「成分表」は世界の成分を「ちょっと風変わりな目録」として網羅しようとする遠大なプランであることがわかる。

〔*2〕『びーぐる 詩の海へ』第21号(2013年10月20日)より。

〔*3〕「俳句」は(物理的に)きわめてコンパクトかつ(情報工学的に)しばしばきわめて効率的である。さらにその定型というスタイルを鑑みれば、これほど「目録」にふさわしいものはない。抽斗になるべく多くの記憶媒体を入れると想像してみればよい。小さくて同じかたちをしているのが好都合だ。

ただし、その目録作成は「百科全書」式の営為でも成果でもない。というのは、つまり、個々人がシャカリキに完成をめざす必要はないし、完成の期限も定められていないので、気ままに「目録のひとつ」「全世界のごく一部」を書き留めればいいのだし、そのとき常に、過去(先人たち)の豊かさと未来の(来るべき人たちによる)豊かさの双方を信じることができるはずで、もしそうなら、何にも増して楽しい仕事となる。

〔*4〕「用意周到」とは、砂浜の「物語」を茄子が台無しにし、茄子の「文脈」(その文脈には季語であることも含まれる)を砂浜が、なんだかややこしくしてしまう、という操作のこと。

〔*5〕半面、俳句は、砂浜の汚染や茄子の絶滅に手を貸すことも、おそらくない。

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