2013-12-08

【週刊俳句時評84】今年の積み残しその1 「現代詩手帖」9月号「詩型の越境」を読む ……上田信治

【週刊俳句時評84】今年の積み残しその1
 「現代詩手帖」9月号「詩型の越境」を読む

……上田信治


今年後半、時評にとりあげるべきトピックは多々あったのですが、なんとなく書けずにいてもう、12月……。

その積み残しトピックの1個目が「現代詩手帖」2014年9月号の特集「詩型の越境——新しい時代の詩のために」。

2010年6月号の「短詩型新時代——詩はどこに向かうのか」(ゼロ年代の100句選でお世話になりました)以来の短詩型特集です。


シンポジウム「越境できるか、詩歌」
高橋睦郎+穂村弘+奥坂まや+野村喜和夫(司会)

特集巻頭は、日本現代詩人会主催「日本の詩祭2013」という催しでの、シンポジウムの発言記録です。

前回にならって、面白い発言の大意を。



穂村 はじめて見たスポーツの見かたが分からないように、他ジャンルの共有できない概念やポエジーは分かりにくい。俳句は俳味が分からない。詩は改行が分からない。

短歌には、短歌のポエジーが発生しやすいように書く癖がついている。それは短歌の奥義でもなんでもないんだけれど、ジャンルのアイデンティティを追い求める過程で発生するバイアスがある。

奥坂 俳句の場合、季語というものの存在が、他の詩型と共有できないスタンスを作っている。私の「外」にあるものである季語が、動機となり目的となる。「季語のほうからなにかを恵んでくれる」いまは「俳句というのは季語に対する「お供物」みたいな感じ」で書いている。既存の句では季語は喜ばない。

穂村 簡単に手を出せないという気持ちは、奥坂さんの熱いトークを聞くと強まる。やはり怖いものなんだと(笑)。目には見えないけれども、それをやる人どうしの間では、共有されている本質があるんだということを突き付けられる。

その本質を体感できないひとがいくら五七五で作ったとしても、季語に対するお供物にならないんじゃないか。

現代詩にそういうイデアというか、本質があるのかないのか、それすら分からないから、現代詩はさらに怖く感じる。

多田智満子さんとか、高橋睦郎さんの短歌を読んだときに共通点があると感じるのは、歌人の短歌みたいに形而下がぐちゃぐちゃに混ざっていないことと、形而上に飛翔するためのポエジーの助走距離が短いということ。これはやはり詩人の短歌だなという印象。

野村 奥坂さんの作品「身のうちに鮟鱇がゐる口あけて」は、詩の形而上学と短歌の事物主義の間で、見事にバランスを取っている感じがする。

奥坂 俳句の場合は、形而上学は季語が引き受けてくれるんです。

(以上、発言はすべて大意)



はい、もうお腹いっぱいですね。

感想

「共有される本質」「ジャンルのアイデンティティを追い求める過程で発生するバイアス」は、穂村さんが短歌を語るとき、いつも使われる言い方だったように思いますが、これ、詩に限らずあらゆる表現ジャンルにあるものでしょう。

ただ、印象として、そのアイデンティティは、短歌においては「これしかないんだ」的に強く意識されていて、俳句では、比較的ほんわりと無意識化されているように思われます。

表現上の革新は常に「だいたいこんなもん」という了解に対する攻撃としてあらわれるわけで、そのとき「これが○○か」という問いによって、ジャンルのアイデンティティは更新され、本質を保ちつつ変化することで、より強いものになる。

そういう意味で、ここしばらくを、ほぼ「先祖返りの可能性の追求」一本で過ごした俳句が、内外に対して意識がほんわりしてしまうことは、避けがたい。

「要するに三代目ってことですよ」と、見かけによらず辛辣なある若手俳人が言ってました。(あ、これ前も書きましたね)

奥坂さんの発言について、湊圭史さんが「blog俳句空間」の時評で「ノーテンキ」と評していましたが、決して的外れなことを言っているわけではない。

季語への「供物」のように書くという態度は、俳句が持つある本質から発された言葉のように思われます。

すでに「師」に向けてでも、近代的な「芸術」の理念に向けてでもなく、それでも何か共同的なものに向けて書こうとする態度を生き延びさせるために、奥坂さんは「季語」を、俳句の宛先として上位概念に置くのでしょう。

奥坂さんは、このシンポで「俳句というのは一部のひとが作るだけではなく、ものすごくたくさんの日本人が作っているということが成立の前提なんです」とも発言していて、俳句の共同性というものを、前提として強く意識していることが分かる。

また「形而上学は季語が引き受けてくれる」という発言は、俳句に、現代詩が得意とする象徴や暗喩が生まれるとしたら、それは季語のコノテーション(奥坂さんによれば「共有体験」)が勝手にそれを生むのであって、作者がそれを意識に上らせて操作しようとするのは、上等ではないという話でしょう。

穂村さんが「現代詩に教義はあるのか」とせまる場面、高橋睦郎さんは「そんなものはあるんでしょうか。みんな勝手にやればいいんじゃないですか」と言って、にべもない。じっさい、穂村さんは、いつも、詩人に同じ質問をしては、それは人それぞれだと言われるらしい。

それを受けて、穂村さんは「でもそれでよく相互に作品を読みあえるなと思うんです」と言う。これこそ、怖い発言ですよね。


作品

短歌 渡辺松男 横山未来子 斉藤齋藤 兵庫ユカ 永井祐
俳句 安井浩司 竹中宏 高山れおな 御中虫 福田若之

作品欄は、短歌・山田航、俳句・関悦史がそれぞれ人選、各30句(首)。

山田航さんの人選について、近代以降の短歌はフィクションの精神を排した結果「随筆文学・日記文学」に近く「本質的に詩と言いがたいところがある」が、今回は「詩人を圧倒できるくらいのスケールの大きさを湛えた」歌人を選んだ、と書いている。

関さんは「ことにこの四半世紀に乏しくなっていた」「異物・ノイズを果敢に俳句に取り入れている」5人を選ばれた由。

つまり、だいたい同じようなことを考えて人選に当たったらしい。

ジャンルの従来、中心とされた領野より、すこし外れた部分に、外部の読者にプレゼンテーションしたい、ビビッドな作品があるという認識でしょうか。

「俳諧体の連歌が貴族的美意識を逸脱して俗事を取り込むことで成立した歴史を思えば、異様で斬新であること自体俳句に必須の条件とも言える」(関)

「大事なのは、人間の「生」を「物語」や「ドラマ」に変えようとする圧力を、いかに無化できるかだ」(山田)

修女いま魚座をねむらす膝の上  安井浩司
手にわざと足裏を付け鹿踊り   
橋たかくたかく花野を見せず架す 竹中宏
つららいまに一枚の板もう叫ぶか 
短い文学、でもない死螢拾た   高山れおな
なに期待してさ紙魚みたいに食えよ  福田若之
よく、きき、みて、とまり、とまとを食べ、すすめ 御中虫

むきだしのそんざいならぬもののなき炎昼をつりがねの撞かるる 渡辺松男

出生率の方はどうするつもりなんだ、余分な人間をどうするんだ?」 斉藤齋藤

桃を洗ひし水にうぶ毛の浮かびゐるゆふべあまたの瞑目はあり 横山未来子

ゴミ箱が家には二つ 細長いのと丸いのと 自分で買った 永井祐

今からずっと遠い未来にひと夏をビーサンで過ごしたいと思った 永井祐 

デート印ぐいぐい回す考えない何か広いものに強い風が当たる音 兵庫ユカ

新聞で傘持って出て長い傘持ってるひとをひとりも見ない 兵庫ユカ 

いやしかし、自分は、これ選べてるんでしょうか。特に短歌。穂村さんにああ言われると、自信がない。


短詩型詩論5本 岡井隆を読む5本

今回の特集で非常に読みでがあったのが評論で、これはどういう発注の仕方をしたのかなあと思うのですが、まずタイトルを並べ、それから印象的なところを引いてみます。

短詩型詩論
近藤洋太「真鍋呉夫の俳句」
山田亮太「最近の若い人たちの歌集を読んで考えたこと」
貞久秀紀「写生について 詩に志す友へ」
阿部嘉昭「俳句、驚愕をつなぐ声の力」
田中綾「菱川善雄論 ドイツ語詩と〈祈り〉を補助線に」

岡井隆を読む
加藤治郎「総合的な精神の存在」
時里二郎「ジャンルを踏み外す力が詩(歌)を覚醒させる」
黒瀬珂瀾「口語調文語について 岡井隆という言語」
高塚謙太郎「贈る歌言葉と浮かぶ韻律 岡井隆の歌を趣味る」
藪内亮輔「岡井隆への手紙」


収集車に拾われなかった空き缶にまでも抒情するのか君は 中島裕介

君たちは空き缶に抒情する。ならばその深度と精度を問わなければならない。

二の腕の焼け跡にこそ現るる断面の白き楕円を思う 中島裕介

ボルヴィックフルーツキスを駅で買い翌日の昼ごろ飲み終える 永井祐

翻ってこの歌集(『日本の中で楽しく暮らす』永井祐)の企みとは、歌それ自体を小さくつまらないものとして、「抒情される空き缶」として提示することである。この貧しい歌を前にあなたはどれだけ抒情することができるのか。そう問われているのだ。 
山田亮太「最近の若い人たちの歌集を読んで考えたこと」

門外漢としては、永井祐という作家の方法と価値が、そこまでアイロニカルに捉えなければ語れないものなのかどうか、分からないのですが。

ただ自分は、俳句の「ただごと」のことをずっと考えている人間として、ある種の句や歌が、インサイダーに対する挑発なのだという指摘には、考えさせられました。じつは連帯のあいさつっていうのも、もちろんあるでしょう。それは、同じことか。


草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々と分かつて来るよううな気がする
正岡子規「病牀六尺」

造化の秘密という目に見えないものが「段々と」わかり、それが画の深みとしてそこに「段々と」くわえられてゆくのだとしたら、では、できあがった画にはその本来目に見えないものがつけくわえられているのだろうか。ちがうと思います(…)「段々と」わかってくる目に見えないものに促されることによって、Aがまさに当のAへと「段々と」変化してゆくことこそを行うのではないでしょうか。

貞久秀紀「写生について 詩に志す友へ」

詩人によるていねいな写生論。このあと虚子やブルトンを引きながら、まだまだ続きます。


何かを体験するとは、すでに体験されているその何かを当の体験においてふたたびはじめて見いだすことである——そのような同語反復の背理が写生の体験であるとしましょう(…)ものごとをありのままにとらえることのむずかしさ——そこにささやかな希望を見いだしたいと思います。(同)

はい。とても美しいことばだと思います。



四大随筆までのこした正岡子規が換喩型の創造者であったことはまちがいないだろう(…)着想が自身の隣接域からもとめられ、同時に刻々並列されてゆく組成が相互の隣接生に馴染んでいるありさまから、まず書かれているものの換喩性が証される。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 子規

句の第一観は「糸瓜」「痰」「仏」の連続的斡旋そのものの驚愕だろう(…)子規は自分の換喩詩学を最終のこの境地で、現代俳句につうじる地点まで不敵に延長させたのだ。

阿部嘉昭「俳句、驚愕をつなぐ声の力」

部分をもって全体を表す「換喩的」表現が、日録的であり自己への視線再帰性をもつこと。そして、子規の名句においては、その場にあるものの連続的斡旋が驚愕にいたるという読みが提示される。

このあと話は「連続する語の斡旋が震撼をみちびきだすという奇態は、現在の俳句では河原枇杷男とともに安井浩司にきわまりつづけている」と続きます。



かすかなるバッハがきこゆかすかでもバッハとわかる午すぎだから 

演奏する人を待つてる椅子があり待たれてるつてとてもいいこと

枯芝の中の小道に猫がゐる場合恵里子なら近づくだらう

西へゆく夜の列車に(どうとでもなれとばかりに)葱とろ夫婦
                     岡井隆『静かな生活』

いったいこれらの歌は誰の歌なのか。岡井隆の歌でありながら、なんとも作中主体の面影はおぼろだ。(…)「とてもいいこと」などという単純きわなりない表現が短歌の中で命をもっている。それはかつてないことだ。(…)三首目。恵里子って誰だ。(…)どうやら、近年の岡井隆にとっての口語調表現とは、歌に「呟き」「自己韜晦」という性質を付与するために選択されたものではないだろうか。(…)ひたすらに主体は「ねじれ」、自他の境界はあいまいとなり、ただ、声と詩だけが残されてゆく。

黒瀬珂瀾「口語調文語について 岡井隆という言語」

文語口語の混合体は、現代短歌一般にひろく見られる文体ですが、ひじょうに繊細にその混入がはかられることによって、これらの歌に見られる浮遊感が生まれている、と。

さらに筆者は「ボディーに強烈な文語精神がある」岡井の口語表現は「従来の口語調短歌の行きついたことのない場所で紡がれている」「生活言語からは離れ、しかし文章語としては「ねじれ」を含みすぎる岡井の言語は、口語と文語のハイブリッドとしての詩的言語だ(…)それは「口語に見える文語」という第三の道を我々に示してくれているように思えてならない」と述べる。

つきの光に花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて 岡井隆

この歌に〈岡井隆〉はいるのだろうか(…)「ずるいなあ」は本当の意味で「口語」だろうか(…)ここには「今を生きる=口語」の精神はない。

それは詩的言語としてのコラージュであり、ポリフォニーであるというわけです。

そういえば、先に引いた斉藤齋藤さん、永井裕さん、兵庫ユカさんの作品には、また別の形での「ねじれ」や「多声性」が模索されているように思われます。



一方「詩についてのノート」で岡井隆はこう書いている。

他ジャンルにまたがりながら、短歌だけの性質をしつかりとつかんで立つといふこと。平凡ではあるが、現代の歌人に要求されるのは、さういひ、つつましいともいへるが、結構、大へんな覚悟であり、努力なのではあるまいか。

加藤治郎「総合的な精神の存在」

加藤さんが引いた岡井隆のことばは、今回の「詩手帖」の特集全体にも当てはまるまっとうな結論です。

しかし。最初のほうに書いたように、俳句のわれわれは、だいぶ無意識過剰が進んでいる。「俳句だけの性質をしつかりつかんで」いるつもりが、ただ闇雲にそれにしがみついて、いつの間にか身動きが取れなくなっているのかもしれない。

だから、ときどき他ジャンルの詩精神に頭をシェイクされるのは、とてもよいことでしょう。

短歌に影響を受けると、俳句が下手になるという説もあるようですが、下手になったって、かまわないではないですか。

近年、スタンダードな俳句の文体が、決まり切ったおかずを詰めたお弁当箱のように見えることがあるもので、そんなことを思いました。



というわけで、今回、俳論・歌論が、とてもおもしろかった。

子規の(安井浩司に通じるような)異様さ。さまざまなレベルの口語の混入のもたらす、ゆらぎやねじれ。

紹介ばかりになってしまいましたが、俳句には、こういった論によって照らし出される、作家や作品の新しい側面、あるいは試行が、まだまだありそうです。

だいぶヒントをもらいました。

「現代詩手帖9月号」アマゾンで正価ではもう買えないですが、思潮社のサイトから買えるのかな?

≫思潮社「現代詩手帖」




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