2013-12-15

再説「俳句の文語」(後編) 文語・口語の混用は、歴史的に正当である 大野秋田

 再説「俳句の文語」(後編) 
 文語・口語の混用は、歴史的に正当である

大野秋田


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237号「助動詞『し』の完了の用法」(以下「A稿」)
283号「文法外の文法」(以下「B稿」)
284号「俳句の文語」以下「C稿」)
  


Ⅱ. 文語俳句にまじる口語 


現代短歌の口語化はめざましく、老巧新鋭を問わず口語の歌、文語口語を混用した歌を詠んでいる。「私は文語で歌を詠むが、文語に口語を融合させることが、積年の課題となっている」(『短歌』平成20年8月号「特集 文語で詠むか口語で詠むか」中の日置俊次「文語と口語の融合について」)という歌人さえいる。

短歌においては口語の使用に何も制約はない。俳句で文語と口語を混用すると、短歌の世界では考えられない批判を受ける。

『俳句』9月号の文法特集では、形容動詞ナリ活用の連体形「…なる」を「…な」の口語形で使うことを誤用としている。

俳諧俳句において文語と口語の混用はありふれたものであり、歴史的に見て正当な用語法である。すでにC稿に触れたことだが、ここに具体例を挙げて再説し、またなぜ俳句=文語と思われるようになったかについて述べたい。

口語混用への批判

口語の俳諧俳句は近世近代現代を通じてあり、すべて口語を使って作った句が批判されることはない。しかし、文語の俳句に口語を混用すると、そのこと自体がしばしば批判の対象となり、文法上の誤りが指摘されることもある。



① 『俳句』9月号の「文語文法入門」第2週の「よくある間違い」の中で、龍太「汗の背にはるか夕日わかちなし」、節子「朝はたれもしづかこゑに寒卵」の形容動詞連体形の口語を、「うっかりミス」「注意不足」としている。 

→ 『七部集』にも「大きな」「たしかな」「あたたかな」は出てくるし、近現代俳句にはいくらでもある。

またナリ活用型の助動詞「やうなり」の連体形が「やうな」の口語形で使われることもはなはだ多い。

千川「しら梅やたしかな家もなきあたり」(『続猿蓑』)
蕪村「貧乏な御下屋敷や杜若」
子規「あたたかな雨がふるなり枯葎」
碧梧桐「磯山の日うらゝかな雪解かな」
不死男「芽のやうな胎児に柚子湯沸きにけり」
直人「おそはるるやうな暗がり桃熟す」
裕明「引鴨や大きな傘のあふられて」
絵理子「安らかな落葉の嵩となりにけり」
鞆彦「吊り革のしづかな拳梅雨に入る」
克弘「わが部屋のきれいな四角夏痩す」



② 池田俊二『日本語を知らない俳人たち』は、口語の一段活用「過ぎる」「跳ねる」「消える」などを使った文語の俳句を10句ほど挙げて明らかな誤りとしている。(文語の上二段・下二段活用は、室町時代に口語上一段・下一段活用になった。たとえば「起く」が「起きる」に、「流る」が「流れる」になった。一段活用化は江戸時代の初期に完成した。「出来る」はカ変「出来」から変化)

→ 口語一段活用も俳諧俳句を問わずありふれたものである。

芭蕉「秋をへて蝶もなめるや菊の露」
支考「涼しさや縁より足をぶらさげる」(『続猿蓑』)
蕪村「学問は尻からぬけるほたる哉」
子規「芒芽をふきぬ病もいえるべく」(明治31)
草田男「田を植ゑるしづかな音へ出でにけり」
六林男「砲いんいん口あけてねる歩兵達」
欣一「岩場涼しき山頂に牛追い上げる」
狩行「数へ日の数へるまでもなくなりぬ」
朗人「火を吐いてみせる男や巴里祭」「龍天に登る心に魚跳ねる」
紗希「次々と夢訪れる障子かな」。 



③ 『俳句』平成22年10月号のの「合評鼎談」に、奈菜「夏鴉羽を広げたまんまなり」について、誤りとしているわけではないが、「〈広げた〉〈なり〉という口語と文語の入り交じった表現には違和感があります。これからの俳句の大きい問題点ではないですか」という発言がある。

→ 「た」は俳諧に多く見られる。山田孝雄『俳諧文法概論』(昭和31)には「頗る頻繁に用ゐらるゝ」と書かれている。子規にも多い。漱石に12句ある。

貞徳「水桶にはつたは氷ざたう哉」(『犬子集』)
長之「いまきたといはぬばかりの燕かな」(『あら野』)
村俊「朝鮮を見たもあるらん友千鳥」(『あら野』)
之道「雲のみね今のは比叡に似た物か」(『猿蓑』)
蕪村「一わたしヲクれた人にしぐれ哉」
几董「酔ふて寝た日のかずかずや古暦」(『あけ烏』)
井月「不沙汰した人も寄合ふ煮酒哉」
子規「来あわした人も煤はく庵哉」(明治26)
「活きた目をつゝきに来るか蝿の声」(『仰臥漫録』)
漱石「何となう死に来た世の惜まるゝ」(明治27)
紅葉「暁の鷽替へて来た袂かな」(『俳諧新潮』)
虚子「田植女の赤きたすきに一寸惚れた」
兜太「伏せた柄杓に闇より出でて雪つもる」
澄子「コスモスや放った石が落ちて来ぬ」
雄介「寝た順に起きてくるなり猫柳」


口語使用の淵源は俳言

文語俳句に口語を混用できないというのは根本的な誤解である。俳句は俳諧の時代から口語を混用していた。それは俳諧が俳言(はいごん)を用いるものだったからである。

俳言についてはC稿で述べたので繰り返さない。『角川古語大辞典』の簡明な説明を引く。


俳諧用語。優雅な和歌・連歌には用いない、俗語、漢語、仏語、当世の詞、俚諺など。貞徳が指導的・啓蒙的な意味で、俳諧という文芸の性格を言語の面で明らかにするため、俳言の有無によって俳諧と連歌とを分かつ俳言説を唱えたので、貞門俳諧では特に重視された。その後、談林・蕉風においても俳言を嫌わず、進んで用いることが習慣となり、わが国の詩歌の中における俳諧の特性をきわめて明確に示すものとなった。

ここで俗語というのは今で言う俗語ではない。「世間一般の人が日常に用いることば。詩歌文章に用いる雅語の対」(『角川古語大辞典』)、「詩歌・文章などに用いる文字ことば(雅言)に対して、日常の話しことば」(『日本国語大辞典』)である。雅語雅言に対する俗語俗言という言い方は明治時代でも使った。

我々が今俳句の文法を論じて文語口語といって問題にする場合の口語は、文語から変化した口語だが、それは和歌連歌では使わないから当然俳言に属するものだった。

いくつかの例を芭蕉の句から挙げる。

形容動詞連体形の「…な」→「詠むるや江戸には稀な山の月」
助動詞「やうなり」の連体形「やうな」→「御命講や油のやうな酒五升」
口語一段活用→「梅が香にのつと日の出る山路かな」
「たり」から変化した口語の助動詞「た」→「盗人に逢うた夜もあり年の暮」
四段活用の「死ぬ」→「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
「にて」から変化した口語の助詞「で」→「八九間空で雨降る柳かな」。

これらは近世の俳諧はもちろん、近現代の俳句でもさかんに使われた。貞門談林蕉風の時代に重視された俳言という概念はやがて忘却されたが、俳句では口語を使ってかまわない、文語口語の混用はかまわないという伝統は脈々と受け継がれた。

近代俳句の始祖正岡子規も、その伝統を認識し実践していた。

俳人蕪村』(明治30)の「用語 (三)俗語」において「極端の俗語を取て俳句中に挿入したる蕪村の技倆」を称揚、「酒を煮る家の女房にちよとほれた」「杜若べたりと鳶のたれてける」「化さうな傘かす寺の時雨かな」の句の傍線部に圏点を付している。

また、『俳句問答』(明治29)で「新俳句」と「月並俳句」の違いについて「第四、我は音調の調和する限りに於て雅語、俗語、漢語、洋語をも嫌はず」と述べている。

音便も俳言

動詞形容詞の音便も俳言だった。音便は中古の文語文法だが和歌では使わなかった。信綱、晶子の短歌に形容詞ウ音便があり古典に先蹤があるのかもしれないが、古典和歌を読んでいて音便に出くわすことはまずないであろう。

近代短歌でも、口語歌は別だが、なかなか使わなかったのではないか。文語の歌に音便を多く使ったのは前川佐美雄『植物祭』(昭和5)あたりが最初であろう。啄木『一握の砂』(明治43)、茂吉『あらたま』(大正10)、佐藤佐太郎『歩道』(昭和15)、宮柊二『群鶏』(昭和21)で調べたが、『一握の砂』に「泣いて」、『あらたま』に「滴つて」、『群鶏』に「啼いて」しかなかった。

俳句では音便は近世近代現代を問わずさかんに使われた。使わない俳人はいない。淵源は俳言である。


二種類の口語

「船団の会」のホームページ「俳句e船団」は、毎日、坪内稔典の一句鑑賞を掲載している。

平成15年1月22日の「日刊:この一句」は矢島恵「オリオンや人魚の臓器きつと青」について

「今日の句は、『や』という文語の切れ字をを用いながら、『きつと』という現代語も用いている。つまり、文語と現代語(口語)が混在しているのだが、これはある意味でとても今日的現象だ。俳人の中には文語、そして旧仮名遣いを守れ、と解く人があるが、馬鹿じゃあるまいか、と思う。俳句は用語は何でも、文法も破格結構、要するにめちゃくちゃでよい。めちゃくちゃこそが俳諧・俳句の伝統というものだ」

と記している。

近世俳諧に精通する坪内が文語と口語の混用を「今日的現象」といった「ある意味」が今ひとつわからないがそれは措く。

注目すべきは「きつと」を取り上げたことである。副詞「きつと」は『平家物語』にも出てくる古い言葉だが口語である。俳句で口語が問題にされるのはもっぱら文語から変化した口語だった。稔典は、はじめから口語として生まれた言葉を文語俳句中の口語として問題にした。

そういう口語は、俳諧俳句の中に、近世近代現代を問わずいくらでもある。

『七部集』で見ると。動詞では(終止形で書く)「はまる」「値切る」「引きずる」「書きなぐる」「こはがる」「こかす」「どさつく」「はいる」「出盛る」「ひきたくる」「しらける」「ふらつく」「ちらつく」「へばりつく」。形容詞「だだびろき」「やるせなき」は口語を文語のように活用させたもの。助動詞「さうだ」の連用形「さうに」、連体形「さうな」。形容動詞「きさんじな」。副詞では「うつかりと」「すごすごと」「ひよろひよろと」「はらりと」。

現代の俳句ではどうか。『現代俳句集成』(平成8)は最年長甲子雄から最年少尚毅まで61俳人の撰集。初めから12名(甲子雄、マサ子、眸、完市、多映、直人、郁乎、あきら、狩行、裕、枇杷男、朗人。各200句)で見ると。(動詞のみ挙げる)「はにかむ」「はちきれる」「青ざめる」「温もる」「見つめる」「こわれる」「ずらす」「のぼりつめる」「こげつく」「教はる」「ひつつく」「濁す」「まぶしむ」「ひつかかる」「敷きつめる」。(ちなみに二段活用から変化した口語一段活用の動詞は28句にあった)

これらはすべて『古語大辞典』(小学館)に項目がないか、あっても中世や近世以降の用例であり、かつ用例に最古例を出す『日本国語大辞典』に中世や近世以降の用例しかないものである。(「まぶしむ」は辞典にはない。歌人俳人専用の語)

文語に前身を持つ口語、初めから口語として生まれた口語、一見文語の俳句も仔細に見れば多くの口語が使われている。


なぜ俳句=文語という通念が生まれたか

なぜ文語俳句に口語を混用できないと思われるようになったのか。近代俳句が口語の混用を嫌うようになったからである。

明治になって、出版物が著しく増加し、新聞も広く読まれるようになり、世の中全体に文語が行き渡った。口語文体はまだ発達していなかった。

松村明『国語史概説』によれば、子規が『叙事文』で写生文に言文一致体が適していると説いたのが明治33年、言文一致会が全国連合教育会に「小学校の教科の文章は言文一致の方針によること」という議案を提出し可決されたのが明治33年、幸徳秋水が『言文一致と新聞紙』に新聞記事の言文一致化を主張したのが明治35年である。

文語の普及に与ってもっとも力のあったのは教育だった。ふつうの人がこれほど文語を学んだ時代はかつてなかった。小学校の教科書も当初はすべて文語文だった。部分的に口語文の教材が入ったのはかなり後である。(すべて口語文になったのは、修身が大正7年、理科が大正11年、国史が昭和9年) 

明治43年より使用された第二期国定国語教科書『尋常小学読本』(『日本教科書大系 近代編 第7巻』)を見ると、4年用の約4割、5年用の約7割、6年用の約8割が文語の教材である。(大正7年の改訂では半分以下に減りかつ平易になっている)普通文が主で書簡文(候文)と詩(唱歌)も入っている。

題材は地理歴史生活経済教訓等々。日本の古典や漢文の史話もあるが、古文や書き下し文そのままではなく、普通文に近い文体に直したものである。

文語教材の一例として「鳥居勝商」(6年後半用)の一節を示す。「進み出でて其の使たらんことを謂ひ、約していふやう、『事の成否は今より予測すべからず、若し向ひの山にのろしのあがるを見ば、幸にして城を出でたりと知れ。三日を過ぎなば、又山上に来りて援軍の消息を示さん』と」

なお高等小学校旧制中学校高等女学校には文語の作文もあった。文体は普通文と候文である。

社会や学校で文語を学べば学ぶほど、口語を混用した文語は中途半端でだらしないものと見えただろう。明治期の俳人間に、俳句に口語を混用すべきではないという考えは徐々に広がっていったと思われる。

近世の俳諧に口語がまじっていたことは知っていたはずだが、文法に無知な旧時代の陋習と思ったのではないか。



口語の助動詞「た」の使用を一つの物差しとして調べて見た。

明治14年刊行の西谷富水編『俳諧開化集』(新日本古典文学大系 明治編『和歌 俳句 歌謡 音曲集』)は歌仙半歌仙29巻、発句390の撰集。「た」は連句に35、発句に8ある。

子規はしばしば「た」を使ったが、『子規全集』によって初期の明治18~25年(2043句。『寒山落木 一』)と、晩年の明治32年~35年(2480句。『俳句稿』[俳句稿以後])で比較すると、「た」は42句から8句に減少している。

前述のように子規は「俗語」を使うことを宣言していた。減少は子規の考えが変わったのではなく、世の中の俳句全体が口語を混用することを忌避するようになっていったことの反映だと思われる。

明治36年刊行の尾崎紅葉編『俳諧新潮』(明治文学全集『明治俳人集』)は、秋声会とその周辺259名、1305句の撰集である。「た」は11句にある。

明治39年~40年に刊行された碧梧桐編『続春夏秋冬』(『明治俳人集』)4107句中に「た」は0である。碧梧桐の明治期の句を乙字が編纂した『碧梧桐句集』(大正5年)に「た」は0である。


俳人と短歌

昭和期に活躍した俳人の短歌とのかかわりにも注目すべきである。

現代日本文学大系』(筑摩書房)の年譜から引く。秋桜子「大正9年 28歳 一年あまり窪田空穂の指導を受ける」。青畝「大正15年 27歳 このころ万葉語を句に詠みこみはじめた」。誓子「大正9年 19歳 啄木の短歌を愛好」。草田男「昭和2年 26歳 茂吉『朝の蛍』を読み感銘を受けた」。不器男「昭和3年 25歳 『万葉集』を読みかえし、茂吉、赤彦らの歌論に傾倒した」。楸邨「大正10年 16歳 この前後から短歌を作り、啄木、茂吉、白秋、千樫を愛読」

これらの俳人は多くの近代短歌を愛読しただろう。



誓子と秋桜子の第一句集には短歌の影響と古語に対する志向が見られる。

誓子『凍港』には、アララギ派の歌人が使った万葉語が「おほわた」「なべに」「わぎも」「ひんがし」「(い)」「(いや)」など16語ある。

「唐太の天ぞ垂れたり鰊群来」も左千夫「高山も低山もなき地の果ては見る目の前に天し垂れたり」を意識したのであろう。

「新婚」に「にひめとり」とルビを付しているが古語の造語である。



秋桜子の『葛飾』は、品格ある玲瓏たる調べを基調としている。

福永耕二によれば、秋桜子は「歌は調べなり」という空穂の理念を俳句にどう応用していくかに最も苦心したという。(『鑑賞 現代俳句全集 第四巻』)

影すなり」など聴覚と関係のない終止形接続の「なり」(中世以降戦後まで詠嘆と考えられていた)が三句にあるが、当時の短歌の影響である。「来し方」「おもひきや」という歌語もある。「との曇り」「とよもす」「つばらに」という万葉語がある。

楸邨の『寒雷』にも「しんしんと」「ほとほと」「かうかう(たる)」という茂吉の『赤光』『あらたま』にある語が見られる。『不器男句集』に「しかば」を「たれば」の意味に使った句が2句あるがアララギ派の歌に学んだのであろう。



このころの俳句・短歌・詩の間の垣根は現代よりもずっと低かった。前記6俳人以外にも短歌を読んでいた俳人は多かったと思われる。

茂吉白秋に代表される大正期の短歌の、洗練された格調高い文体は魅力的だった。近代短歌の成熟した文体になじめばなじむほど俳句の文語は短歌の文語に同化した。秋桜子は『高濱虛子』(昭和27)の中で、虚子「田植女の赤きたすきに一寸惚れた」(昭和4)に「つよい反撥を感じ」たと書いているが、俗な口語を嫌悪したのではないか。



俳句の「文語化」は昭和前期に完成した。昭和前期は歴史的な句集が続々刊行された近代俳句の黄金時代である。

個々の句集を仔細に見れば口語がないわけではないが、この時代の俳句を全体として見れば鬱然たる文語の森をなしている。

その森を仰いで育った戦後の俳人の多くも強く文語を意識した俳句を詠んだ。


口語の使用は俳句の伝統

しかし面白いものである。現代俳句には、用語が近世の俳諧に回帰したかのように、文語に口語を混用した句がしばしば見られるようになった。

混用の俳句には、冒頭に述べたように文法上の誤りが指摘されることがあるが、俳句の文法は口語の使用を前提に論じられるべきである。

たとえば漱石「仏には白菊をこそ参らせ」(明治29)、虚子「網戸嵌め只強くこそ住みなせ」、閒石「冬の橋着飾ってこそわたるべし」のような句の場合、結びの誤りがいわれることがある。

しかし口語の「こそ」なら已然形で結ぶ必要はない。(そもそも近代の韻文は係り結びを絶対視しなかった)

また、蕪村「二もとの梅に遅速を愛すかな」や子規「船長の愛す菫の小鉢哉」(明治31)のような「愛す」は「愛する」が正しいという説がある。 

「愛す」はサ変だが、漢字一字のサ変動詞の一部は江戸時代には四段にも活用した。今でも連体形のサ変「愛する」、五(四)段「愛す」は併用されている。

この両句は口語の連体形を使ったのである。

今野寿美『短歌のための文語文法入門』は、サ変「愛せし」四段「愛しし」の両形の接続を認めている。現代の歌人の文法観は柔軟である。

短歌は明治になっても「かにかくに祇園は恋ひし寐(ぬ)るときも枕のしたを水の流るる」(『酒ほがひ』吉井勇)だが、俳諧は元禄時代でも「縁に寐(ね)る情や梅に小豆粥」(『続猿蓑』支考)である。

口語一段活用も和歌では使われず、短歌でもなかなか使われなかった。俳諧は「俗語」(=日常語・口語)を使うところにその用語の特性があり俳句はそれを受け継いだ。
 


口語下一段「出る」は多くの俳人が使う。

俳諧俳句を通じてさかんに使われたから文語だと思われているのかもしれないが、中世に下二段「出づ」が一段化した口語である。

近代短歌ではやはり「出づ」を使い「出る」はあまり使わない。音便同様前記4歌集で調べた。(「思ひ出づ」「出で来」など複合動詞を含む)

『一握の砂』「出づ」33対「出る」2。以下同様に『あらたま』22対0。『歩道』28対1。『群鶏』20対2。なお4歌集に「出る」以外の口語一段活用は『一握の砂』の「(飛び)おりる」「(息)きれる」のみである。

同じ文語を使っているように見えても、短歌には短歌の、俳句には俳句の文語のあり方があった。

口語をまじえず俳句が作れる俳人はいないであろう。動詞「出る」「出す」、口語一段活用、助詞「で」などは誰でも使うのではないか。

前記「合評鼎談」は、「た」の使用にクレームをつけても、同じく口語の「さうに」「やうな」の使用にはお咎めがなかった。この口語はいいがあの口語は駄目などという恣意的な基準は基準にならない。

口語の使用に制約はない。俳句における文語と口語の混用は、俳諧の伝統を受け継いだ正当な用語のあり方である。


補足子規の句に見る口語の減少

「た」についてはすでに述べたが、『子規全集』によって初期の明治18~25年(2043句。『寒山落木 一』)と晩年の明治32年~35年(2480句。『俳句稿』[俳句稿以後]」で口語一段活用の動詞(「出る」を除く)の使用を比べると、これも33句から14句に減少している。(複合動詞を含む「出る」は26句→26句)。

また口語の助動詞「さうだ」(子規は「さうなり」「さうなる」と文語風な活用もしている。俳諧にはある)の語幹「さう」連用形「さうに」連体形「さうな」は11句から1句に減少している。なお助動詞「し」は33句(完了32、不明1)から131句(完了120、過去8、不明3)に増加している。

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