2014-01-12

醍醐会レポート1 波多野爽波の現代性について 飯島雄太郎

醍醐会レポート1
波多野爽波の現代性について

飯島雄太郎


−第154回醍醐会『波多野爽波を読む~読者として/作者として』レポート−



9月29日、京都市国際交流会館にて第154回醍醐会が行われた。醍醐会は関西の俳人を中心に年に数回の頻度で(第五日曜日…醍醐会の名はここからきている)開かれている研究会である。

今回のテーマは、『波多野爽波を読む~読者として/作者として』。出席者はベテランから若手までおよそ三〇人ほどはいただろうか。基調報告は「杉」同人の岩井英雅氏と「いつき組」の黒岩徳将氏が行った。ベテランと若手という対照的な二人である。

黒岩氏は「ただごと俳句」をテーマに話した。「ただごと俳句」とは、俳句形式にその内容をおさめたことによって、ただごとに終わらない魅力を発揮すると述べ、「巻尺を伸ばしてゆけば源五郎」「蓑虫にうすうす目鼻ありにけり」の二句をただごとの名句として挙げた。

もっとも黒岩氏は爽波俳句にさほどの魅力を感じなかったようである。読み手にどういう感情をもってもらいたがっているかが分かりにくいとし、爽波俳句は言葉足らずであると指摘した。

「杉」同人の岩井英雅氏は「私の爽波体験」と題して、自らの来歴を絡めつつ報告された。氏は森澄雄門下として爽波の写生に関心を持ち、評論でも俳諧自由の俳人として爽波を取り上げたが、やがて生理的な嫌悪感を抱くようになった。氏が俳句に求めるのは心の安らぎであり、爽波にはそれがないのだと氏は語る。

氏が繰り返し強調するのは爽波的世界の無思想性の凄みである。それを秋桜子に始まる系譜と対比してみせる。森澄雄が秋桜子の師系に属することを思えば、そもそもこの離別は必然的な帰結であったとも言えるのだろうか。とするならば、氏は俳句史上の一つの裂け目を、身を以て生きたということになる。

「帚木」問題

岩井氏の爽波俳句への嫌悪を考察する上で、興味深い題材がある。それは『湯吞』に収拾されている二句、「帚木のつぶさに枝に岐れをり」と「帚木が帚木を押し傾けて」の優劣に関する問題だ。二句とも『湯吞』を代表する句として、度々引かれる句である。

前者からは対象に没入するような臨場感を、後者の句からは、帚木の生命力に対する驚きを看取することが出来る。この二句に関して、爽波は次のように語っている。

その斜面には私の丈を抽くほどの帚木が何本かあった。帚木というその言葉そのもののような木曽の帚木はまことに見事であった。斜面のその辺に散らばっていた同行の人たちもみんな何処かへ消えてしまったあとも、ひとりこの帚木の前に跼みこんでペンを走らせた。

また、同じ季節にあの場所へさえ行けば、きっとあの帚木と再び対面できる筈だ。あの辺の地理には詳しい魚目君も居ることだから、来年と云わず、今年にでも何とかあの場所へ連れて行って貰って再び帚木との対面を果たしたいものだ。(「青」昭五六年七月号)

この句に読まれている帚木とは長身の爽波をしのぐような、巨大で猛々しい帚木だったのである。「つぶさに」の句もまた目の細かさを感じさせる写生句ではあるが、その場でなければ詠めないといった性質の句ではない。それに比して、「押し傾けて」の句には自然との一期一会の驚きがある。

次に引用するのは「写生と私 その態度と方法について」と題された対談における爽波のコメントである。

今の帚木の句でもね、「つぶさに枝の岐れをり」というのは、仮にどこの場所でもね、一本の帚木にじっと対しておれば見えてくるわけでね。だけど二本の帚木が押し合うようにしてね、片方が片方を押し傾けているというのは、おそらくあの場所でなけりゃ、そういう出会いはなかったろうと思うんですよね。そういう不思議な姿が、自然そのものとしてそこに顕在してた訳ですよ。これの方が僕にははるかに驚きが会ったわけだ。そういう意味で、僕の考えている写生ということからすると、「押し傾けて」の方が上だし、「つぶさに」の方をよしとする人とは写生というものの捉え方にちょっとズレがあるように感じますね。(「青」昭五八年八月号)

爽波は驚きという観点から、「押し傾けて」の方が優れているとしていた。しかし、誰もがこれに同意するわけではない。例えば同じ対談で山上樹実雄氏は次のように発言している。

僕なんか考えますとね、「押し傾けて」の方は、まだすこし自分と距離を置いて、帚木を言っておられる感じがする。ところが「つぶさに」の方はもう帚木の中に入ってね。(同上、傍線引用者)

自然への没入の度合いから、山上氏は「つぶさに」の句を評価している。写生が眼前の自然への集中を意味するものと解する限り、山上氏の見解は常識的なものであると思われる。

ここに現れている写生観の違いは自然を人間にとって親和的なものとして捉えるのか、それとも人間に驚きを与える異質なものとして捉えるのかという対立である。爽波は異質性を見出すための方法として写生を捉えている。それは作句によって自己を更新するための手段なのだ。

僕には自分の世界をなんて意識なんか何もないわけですわ。もしあるとすれば、現場へ行ってそれを消すわけです。写生というのはそういうものでね。頭の作用をともかく排除していって、そして、予期もしていなかったものにいかにして出会えるかということですよ。自分の世界というのはそういうものの累積の中に結果として出てくるものでしょ。(同上)

予期しないものを求める傾向はまた、爽波における新しさへの要請と結びついているだろう。爽波はしきりに態度としての写生ということを言うが、それは驚きを求める手法としての写生を自らの作家性にまで高めることに他ならない。爽波にとって写生とは、有季定型を更新するという作家的な意欲と根深く絡み合っていたのではないか。

ここには自然の中に入っていくことと、新しさを求めるということの二つの相反するかに思えるベクトルがある。後述するように、これが爽波という作家にねじれを内包させることとなる。

グロテスクなもの、卑俗なもの

爽波の驚きを求める傾向は、晩年になるにつれ、グロテスクであったり、卑俗であったりする要素を強めていくように思われる。岩井氏はとりわけ最後の句集『一筆』に嫌悪感を示しておられた。句集は手に入れることが出来なかったので、『再読 波多野爽波』(邑書林 平25)から引いてみよう。

籐椅子の一つ紛るる舟溜り
裂かれたる穴子のみんな目が澄んで
泰山木の花に怒りの相を見し

ゴミ捨て場と化した舟溜まりを描くことで、一句は使い捨てを旨とする社会のあり方をスナップショットよろしく切り取ってみせる。

目を輝かせたまま裂かれる穴子は、美食文化の背後にあるものを示すのみならず、無垢でありながら殺されていくものの象徴となっていよう。爽波は明らかに穴子に感情移入している。

泰山木の花の怒りが人間に対して向けられていないとしたら一体なんなのか。爽波俳句の抵抗精神は次のより卑俗さを強めた句においては、笑いという形をとって、より深く読者に纏わりつく。

だから褞袍は嫌よ家ぢゆうをぶらぶら
避寒して直ちに厠紙つかふ

卑俗な句は人を二度立ち止まらせる。一度目は笑いを齎し、二度目はぞっとするようなリアリティをもって読者を慄然とさせる。

褞袍を着て、もはや伊達男を決めることも、家族から相手してもらうことも出来ず、孤独に家を徘徊する老人の姿はどこか人間のわびしさの根本を捉えている。旅先で直ちに便所に駆け込んでしまう情けなさもまた多くの人にとって決して無縁なものではないだろう。

通俗的な句のうちに読者は自分たち自身の戯画をもまた見るのである。

爽波の肉体

岩井氏が嫌悪を示した爽波俳句の異質性に後半の議論は集中した。

口火を切ったのは中田剛氏である。氏は、爽波とは何よりも風景を構成するレトリシャンなのだと指摘する。氏は「山吹の黄を挟みゐる障子かな」は不自然であるし、「福笑鉄橋斜め前方に」は、福笑という季語によって鉄橋が自分の見たい位置にない違和感を語っているのだと解釈された。

さらに、「掛稲のすぐそこにある湯吞かな」を取り上げ、現実にはこの掛稲は湯吞みのそばにはなく、掛稲を見ている「私」が湯吞みを持っているという状況があり、レトリカルに掛稲のすぐそばに湯吞みがあるかのように構成しているのだと主張し、最終的に爽波とは自分の位置を提示したい作家なのだと結論づけた。

「掛稲」の句は不思議な句である。

「すぐそこにある」は一見切れていない。切れていないことで、稲と湯吞の距離が近いと錯覚させるのだが、切れがあると考えないと読めないのだ。「掛稲」の句が読みの二重性を孕む危うさは当時の「青」でも物議を醸したらしい。

竹中宏氏は、掛稲と湯吞の質感の取り合わせに主眼があると解釈する。「すぐそこにある」ことで、稲の乾いた表面がクローズアップされ、琺瑯質の湯吞のてらてらした感触と一句の上で出会う。「爽波とは触覚的な人間であり、目玉から手が出るように物を見ているのだ」と氏は話す。この解釈によってようやく私は「掛稲」の句の魅力を理解することが出来た。

その他会場からは爽波俳句の異質性を指摘する発言が多く出た。

かいつまんで紹介すると、「対象を書くのが一般的な写生だが、爽波は対象を見ている私を書いている。そのことに爽波の可能性がある。」「爽波は句作によって自分がどう変化するかに関心がある。」また、「炬燵出て歩いてゆけば嵐山」の句を指して、「現実の構図が歪んでいる。」「クラクラする。」などの意見が出た。

総じて爽波句のメタ俳句とでも言うべき特性と、それ故の眩惑感に意見が集中していたように思う。

爽波の場合、そのメタ性は一句の中に織り込まれている作者の肉体性から生じている。通常であれば、作句現場に作者の肉体が介在することは、ごく当たり前のこととして、一句の背後に退く。しかし「湯吞」のような句においては、作者が肉体を持って現場にいることが奇妙な形で前景化するのだ。

それはまた作中主体の存在を隠さないということでもある。その意味で肉体性を持ち込んだ一句とは、無作為をよしとする俳句から、むしろ自己表現としての俳句へと、期せずして近づいているとも言える。

同様の事情は先述の『一筆』の句においても同様である。読まれる対象がごく平凡なものであれば読者は作品の意味内容を素直に享受するが、対象がグロテスクさや卑俗さを備えている場合、そのような対象を詠むという行為自体が、パフォーマティブな意味を有する。ここにあるのも同様に作者の作家意識である。

爽波のメタ俳句としての特性は晩年に至るまで一貫している。そもそも「態度としての写生」という言葉自体が奇妙さを有する。方法概念である写生が態度と言われているからだけではない。写生という自己消去を旨とするかに思われる概念が、作家性そのものに関連づけられているからである。

爽波は「自作ノート」(『現代俳句集成四』立風書房 昭52)と題されたエッセイにおいて、作句とは「有りの儘の自己をそこに現出させるかが最大の眼目である」と述べている。これは『湯呑』時代に書かれたものだが、『骰子』刊行直後の茨木和生氏との対談(「俳句」昭61年9月号「季語の力」)においても「人に帰する」という形で、微妙に言葉を変えながら、しかし同じ趣旨の発言を行っている。

ここには自己抹消の手法としての写生が、それ自体のあり方によって自己表出となるというねじれがある。

事実、爽波は写生を唱えながらも、あくまで自己表現への傾きを手放さなかったように思える。爽波においては作家としてのエゴが一句の肉体性として顕在化しているのではないか。

高野素十

この点を高野素十の「掛稲をひたと落ちしは青蛙」を較べてみるとより明らかになる。

素十的主体には読者を惑わせるようなところは何もない。掛稲を滑り落ちる青蛙に目を止める完成はごく常識的なものである。

爽波の句からは掛稲を凝視せんとする能動性を感じさせるのに対し、素十の句はふっと青蛙が目に留まったんですよ、とでも言いたいかのようだ。この違いが素十俳句の肉体性の希薄さに結びついている。

素十との出会いに関して、爽波は後年次のように語っている。

僕は東京生れの東京育ち、まったくの都会人ですからね。農の暮らしなんか、まったく無関係のところにいた。だから素十を介してそっちの方に邁進したというものがあるんですよね。僕が地方の出身だったら、そんなことはなかったと思う。都会で生まれ都会のことしか知らない。田植えも稲刈りも見たことがないという環境の中から句作りをはじめて、素十の句に急速に魅かれた。僕としたら、必然的にそういうところに身をすり寄せていって、それが非常に新鮮であり、なおかつ重かったわけですよね。(「青」昭53年1月号)

爽波にとって、歳時記に代表される「農のくらし」は決して所与のものではなかった。そして所与のものではないからこその興味を持ち、貪欲に俳句を吸収していった。

爽波は俳句によって自然を知ったのである。彼が自然に向ける眼差しは、あくまでも俳人としての面白さを求めるそれである。この点において素十とは自然詠のあり方を大きく隔てている。

素十の方が眼前の自然に対して受動的であり、また常識的でもある。それに対して爽波の視線はねばっこく、時として異様だ。これは作家意識の濃淡と比例しているのではないか。

ところで、戦前の都会に暮らす若者にとって、農民の世界とはどのような意味を持っていたのだろうか。農本主義は当時の改革的な社会思潮でもあった。五•一五事件に参画した農本主義者、橘孝三郎はその代表格である。どれほどの重みを持つかは量りかねるとはいえ、学習院の学生だった爽波が素十の書く農本主義的な世界に魅せられる時、そこには単なる表現上の問題にとどまらない意識があったのではないか。引用文中の「重かった」とはこの点を指しているように思われる。

新しさを求めて

爽波は「青」の三〇周年記念大会の講演において爽波は初学時代のエピソードを紹介している。

僕が「ホトトギス」に投句しだす前に、今の東京新聞、当時は都新聞と言っていましたがそれに虚子選の俳句欄があって、それに入選した。すると親父がいろいろな人に、息子の発句が新聞に載っとるんだと言っているんです。僕はたいへん反発心を感じまして、発句なんてものをやっているんじゃなくて俳句という詩をやっているんですと、親父とものすごい言い合いをしたことがある。いやしくも今後一切、発句なんてことを言わないでくれというようないきさつもありました。ともかく古くさいものは駄目だ、だから俳句の中でどれだけ新しいことができるのか、ということから僕の俳句生活ははじまっています。(「青」 昭59年1月号)

俳句に新しさを求める意欲と、都会人でありながらの素十への傾倒、この二つの傾向は、新旧という異なる方向性を有するようでありながらも、同時代への不満を根っこに持つという点では共通している。そして、現状への批判意識というひとつの根っこが、写生という爽波の方法論にねじれをもたらしている。

爽波の句が時として不穏さを漂わせているとしたら、それは彼が都会人としての自らのデラシネ性に忠実であったことの何よりの証である。

弱々しさとしぶとさと

私が爽波を好むのは、季語を現代社会においてなおリアルなものとして甦らせてくれるからである。

というと、それはあるレベル以上の伝統派俳人には当て嵌まることではないか、と言われるかもしれない。しかし爽波が人として頭一つ抜けていると思うのは、自分自身が世俗的な人間であると言うことを隠さない点である。そこに爽波の抵抗精神がある。爽波の句では人間界の風俗と季語とが実に巧みに組み合わされている。それゆえ一句の季語を肉体的な情趣を備えたものとして受けとることが出来るのだ。

骰子の一の目赤し春の山

この句を見るまで、骰子が春の山と結びつくなど思いもしなかった。しかし一句はどんな句よりも雄弁に春の華やいだ気分を伝えてくれる。骰子という日常的な形象を通して読者は季題の世界に触れる。この句の与える意外性が古びることはないだろう。骰子の目と山の取り合わせが一句を成すなどとは誰にでも思いつけることではないからだ。まさしく俳句の世界を古びさせないための爽波の手管である。

それはまた有季定型句を作り続けるために何としてでも必要な営為だったのだ。

どんなに美しい言葉も、読まれ、書かれなければそれは化石でしかない。歳時記的な世界がますますもって失われていく時代にあるならばなおさらである。もはや自然は人間のナルシシズムを保証する鏡ではない。

爽波はショック療法にも見紛う「驚き」によって、俳句に息を吹き込み、現代の風物のうちに季題の情趣を甦らせた。ここに爽波を読み直すことの何よりの現代的意義がある。

では何故爽波の句には驚きがあるのだろうか。一句に驚きを与えるためには季題という共同体的な価値観を知るとともに、それをはぐらかし、相対化する目線が必要とされるだろう。私見ではここに爽波がデラシネであることの積極性がある。デラシネとはまたひとつの価値観に落ち着けないことを意味するのだから。

様々な流儀の俳句と接触を持ちながらも、爽波は生涯を通して特定の俳壇的イデオロギーは持たなかったように思える。爽波にはただ写生だけがあった。

そのこともあってか、爽波にはいつも孤独の影がつきまとう。

いろいろな泳ぎ方してプールにひとり」爽波の句が「薄味のよろしさ」とも評される弱々しさを持つ一方で、現代にまで生き延びるしぶとさを備えている由縁であろう。

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