2014-01-12

【週俳12月の俳句を読む】無表情 生駒大祐

【週俳12月の俳句を読む】
無表情

生駒大祐


怖い話が好きだという人がいる。僕だ。まあ、怖い話をすることが一つの商売になるくらいなのだから、世の中には怖い話が好きな人はおそらく多いのだろう。

しかし不思議なのは、怖い話を話す人というのが、ふつう”怖がりながら話していない”ということだ。例えば眩しそうな映像や写真を見ると眩しいと感じたり、悲しそうな人を見ると悲しくなったりするのは、その場面が頭に浮かんだり、共感するといった作用によって起こるのだろうが、怖い話が本当に怖いのは淡々と話されているときで、それは怖い話をしている人に共感しているわけではたぶん、ない。それが論理的に考えた末に怖いというのならわかるのだが、怖い話が怖いという感情はかなり感覚的なものである。同じ話で、”面白い話”は話者が笑いながら話すと面白くないということも経験的にある。人間の感覚が他者によって揺り動かされるのはどうやら共感によってだけではなく、むしろその逆のことも多いらしい。

怖い話または面白い話の巧みな話者に共通しているのは、話の肝を語るときには無表情に近くなる、という点だ。そして、怖い話をしている話者と面白い話をしている話者の無表情は実はよく似ている、ということにあるとき気づいた。言うなれば”がらせ”顔というのものがおそらくあって、怖がらせること、面白がらせることを極めると、その顔に行き着くのだろうと思う。

俳句においても、読んでいるとさまざまな感情が内部に流れ込んでくるのを感じる。

水は音楽たとへば油零しけり  柿本多映

梟のこゑ土踏まずより入り来  奥坂まや

その感情というものは多分に肉体的なもので、たとえば油が垂れてゆっくり水に広がっていくところの官能性であるとか、板間に立って外を眺め、梟の声を聴いているところの懐かしさやほんの少しの恐ろしさであったりする。それが可能なのは文字情報というものが本来的に感情的なものであるはずの言葉を無理やり無表情の型に押し込めて作られているからであって、もっと言うならば言葉は文字になった瞬間に死ぬ。そういう意味では俳句に限らず文芸は無表情を装う芸であるということになる(あ、このあたり岸本尚毅さんが似た表現を使っていましたね)。無表情というのは情報が少ないということなので、情報が流れ込むという現象とは一見矛盾しているのだけれど、俳句における無表情というのは作者の足跡を句に残さない、または残したとしても跡自体が美的でなければならないということに繋がっている。文芸においては作者の余白に読者がどれだけ意味を感じ取れるかが重要なので、作者自身が無表情でなくてはならないのは必然のことだ。

能では面の傾きで感情を伝えるというのは、ストイックなのではなく実は貪欲な表現姿勢なのではないか。そういうことを思った。


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