2014-01-12

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 13 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 13 〕


小林苑を


『里』2012年5月号より転載(加筆)

ほんだはら潰し尽してからなら退く
   『平日』

立秋はとうに過ぎたのに、長い夏がまだ終わらない。

気が付くと、ぼんやり,というかぼーっとしている。< 白き蛾のゐる一隅へときどきゆく 『蕨手』> そうこんな感じ。部屋の隅にじっとしている白い蛾。気だるく、どこか不快な夏。

この句、ネット上の週刊誌『詩客』に取り上げられたもの〔※1〕。筆者の柴田千晶によれば、この蛾は、そんなぼーっとしたものではなくて、人の心に棲むもののけ(「異形のものたち」)だという。「白い蛾の居る一隅はだれの中にもある。その一隅を見ないまま過ごせてしまう人間と、見ずにはすませられない人間がいる。晴子はもちろん後者だ」。筆者自身が「独断と偏見にもほどがあるだろう、というものを書いてゆきたい」と書く連載であり、謂わば、思い切り深読みしようというのである(とても面白いので、ぜひ読んでください)。深読みとは、作品を読み手の物語へと変換する方法であろう。

俳句は深読みしてはいけない、といわれたことがある。書かれたままに、人生とか人間の在りようなんていう恥ずかしいものを重ねたりせずに、書かれているままを読めということだ。この句をそのまま読めば、どこかの隅、日の当たらない薄暗い場所に、だからこそ浮かび上がる白い蛾が見え、そこへゆく <私> がいる。それだけである。それだけで、確かに <私>もゆくなと思えたとき、この句が腑に落ちる。

たぶん、それが俳句だ。

その上で、どんな深読みもできるから、俳句なのだ。深読みは、腑に落ちたところから始まる。よくわからないからと深読みして辻褄を合わせてみても、その句が面白くなるわけではない。句を評するのに説明的だから駄目だなどと言われるが、それは端から辻褄が合っているからで、深読みするなと言いながら、深読みを誘う装置がほどこされていることが句に奥行きを与えるようなのだ。ただそれだけのことを詠んでいるのに心魅かれる句は、只事であること自体が装置として働いている句だ。たとえば虚子。< 流れ行く大根の葉の早さかな > には深読みすべきなにごともないのに、この句が腑に落ちたとき、大根の葉を見ている<私>の気分の前後にある時間が流れ始め、そこから人の無聊などに心を泳がせていくことができる。否、泳がせずとも、勝手に泳いで行ってしまうのだ。

晴子の句は次第に平明になり、最後の句集『平日』は読んで躓くことがない。すとんと落ちる。どの句もどの風景も、そのようであるしかないのだと感じるのは、私が歳をとったからかもしれない。その中で、掲句に立ち止まる。なんだか少し笑いたくなる。どこか意地を張っているような、駄々っ子めいたものを感じる。

ほんだわらは海草で、ヒジキの仲間らしい。長さは十数メートルにもなるのもあるということで、春の若布は食用になる。ぷちぷちしたものがついていて、よく育ち黒褐色になって流れる夏が季語である。

晴子は、「私の一句」〔※2〕というエッセイで、この句ができた句材捜しの志摩半島への旅のことを書いている。「フェリーの発着所には、ほんだわらが山と引き上げられていた。子供の頃海水浴で、ほんだわらの玉をつぶして遊んだことを思い出した」というから、晴子には懐かしいものだったようだ。「船を待つ間、私はしゃがんでほんだわらをつぶしていた」という。ぷちぷちしたものは潰したくなる。潰し始めると止まらなくなる。 

ほんだわらのことはそのくらいで、話のほとんどは出会った海女のことだ。海女小屋に入れて貰って隅の方に小さくなっていると、入ってきた一人の海女に「営業の)邪魔になるから出て行って」と言われたという。それも、サァ出ていけと言わんばかりに扉を開けて。退散した晴子はだんだん腹が立って来る。こんな扱いは受けたことがない、私の取材も営業なのだ、と苛々と考えを廻らせる。そして、「私が彼女に報復するには、お金を払って貰えるに足る俳句をつくることであると思うと、私の気も晴れた。…(略)… 帰宅してからの作句には身が入った。今はあの長身の海女も懐かしく思い出されるのである」と結ぶ。

最近読んだ岡井隆の『ぼくの交友録』〔※3〕には、この句のことが書いてあり、「さきに引用の句の『退く』という強い口調には、…(略)…(この)いきさつがかかっていた」というわけなのだ。

白い蛾のいる一隅にゆくことも、ほんだわらを潰し尽すことも、いかにも晴子だ。どちらにも女の凄みがある。晴子の句には、柴田が書く「人間の持つ業」というより、ぷるると寒気がするような「女の業」のようなものが立ち現れる。、どうも、それが晴子句の魅力で、これは句柄の変化とは関わりなく、最期まで晴子は晴子であった。


〔※1〕柴田千晶「黒い十人の女(一)」(『詩客』)
http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2012-07-25-9795.html 
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 『藍生』一九九九年三月
〔※3〕『ぼくの交友録』ながらみ書房 二〇〇五年八月

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