2014-01-12

俳句の自然 子規への遡行26 橋本直

俳句の自然 子規への遡行26

橋本 直
初出『若竹』2013年3月号
 (一部改変がある)
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今回、話がやや横道にそれるが、子規が新季語にしようとした例を紹介したい。冬の季語「熊」である。

なぜ、冬籠もりして目にしないはずの「熊」が冬季なのであろう。現在ニュースで耳にするように、熊が人と接触する機会が多いのは春の山菜の時期と秋の実りの時期である。戦前までの季語大観といえる改造社『俳諧歳時記』も、高度成長期のそれたる角川書店『図説大歳時記』も、「熊」は冬季で立項され、生態についての解説や古文献の記述は載せているものの、なぜ冬なのか明確な説明はない。滝沢馬琴編、藍亭青藍補『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫版)には立項がないので、季語になったのは明治以降と考えていいだろう。

しかし、子規は既に『分類俳句全集』で「熊」を冬季に分類している。まず、第十巻冬の部「動物」の項「穴熊」に

  はち巻や穴熊打ちの九寸五分  史邦
  穴熊の寝首かいても手柄哉  山店
  丹波路や穴熊打ちも悪衛門  嵐竹
  (『分類俳句全集』第十巻冬の部「動物」の「穴熊」)

また、第九巻冬の部「時雨」の項の、下位分類「猪、熊、猿、狐、鹿」に、

  穴熊の出てはひつこむしくれ哉  為有

がある。為有は山城嵯峨の人。『続猿蓑』元禄十一(1698)年刊「冬の部」に所収。ただし、子規はこれを「熊」として分類しているが、幸田露伴は『評釈芭蕉七部集』(岩波)で「穴熊」を冬籠もり中の熊ではなく、いわゆるアナグマ(貛)と解している。要は知識でつくった句と思われ、本当のところはよくわからない。また先の三句は「穴熊打ち」の様子を詠んでいるので、純粋に「熊」の句ではない。いずれも史邦編『芭蕉庵小文庫』元禄九(1696)年刊で、作者はみな蕉門の俳人達である。これら四句は作句年代がほぼ重なり、他に例がないので、すべてアナグマの可能性も残るだろうが、ともあれ子規は冬の「熊」と見ている。

さらに、調べた範囲で「熊」を冬季に立項した最も古い記録は、明治三十一年一月三十日の『ほとゝぎす』で、題詠「熊(冬季)」があり、子規が選者吟として

  草枯や狼の糞熊の糞
  冬枯や熊祭る子の蝦夷錦

の二句を詠んでいた。つまり、歳時記には載っていないこの段階で、少なくとも子規の新派(日本派)では、冬季の新季語として「熊」を認めていたということができる。

しかしながら、明治三十四年三月から三十八年四月の間の日本派同人の雑誌新聞発表五万句のなかから一万を選んだという、今井柏浦編『明治一万句』(博文館 初版明治三十八年)には、「熊」での立項はない。ただ「冬の部」人事の項に「熊突」での立項があり、

  熊突や氷を渡る天鹽川  桐一葉
  熊突の夫婦帰り来ず夜の雪  梧月

が載っている。また、明治四十三年刊の星野麥人編『類題百家俳句全集』冬之部には立項がない。星野は尾崎紅葉門で秋声会に参加。広く句を集めているが、冬季に「熊」はない。

子規は「熊」を冬季とみなそうとしたが、明治三十一年の「熊」による題詠募集は、実験的な試みどまりのものであったのかもしれない。子規の選者吟が両方とも既存の季語を交えた季重なりの形をとっているのは、その季感の薄さを証してもいよう。また、このうち「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」は、明らかに行ったこともない北海道を舞台にアイヌの「熊祭」を詠んでいる。子規はいわば、蝦夷地想望句を詠んでいるのであり、この年は短歌にも、「足たゝば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」(連作「足たゝば」「竹乃里歌」明治三十一年『子規全集』第六巻)という歌がある。元は未詳だが、このころ何かをきっかけにアイヌの生活を知り、興味をもっていたようである。

齋藤愼爾他編『必携季語秀句用字用例辞典』(柏書房)では、熊に関する冬の季語に①「熊」(三冬・動物、類語に黒熊・月輪熊・羆)、②「熊穴に入る」「穴熊」(初冬・時候)、「熊穴に蟄る」(仲冬・時候、「本朝七十二侯」の十一月節「大雪」の次侯)、③「熊狩」「熊突」「熊猟」「穴熊打/突」(三冬・生活、)、④「熊の子」(三冬・動物、類語に贄の熊・神の熊)、⑤熊祭(仲冬・晩冬・行事)が掲載されている。これで冬の季語である熊の類語が勢揃いしていると考えて良いだろう。

①は熊そのもの、②は冬籠もりの熊、③は熊猟、④と⑤はアイヌのイヨマンテに関するもの。①以外は冬である理由が説明できる。だが、②から④が冬だから①も冬だというなら、近代になって季語になった理由はない。

紙幅が無いので結論を急ぐが、それは近代になって各地で開拓が進み、人の生活圏が熊と衝突して、初冬に熊が人前にあぶり出されるようになったことと、子規が詠んだようにアイヌの文化が知られたことによるのではないだろうか。また、江戸期までの「狩猟」も内実が変わり、生活の糧というだけではなく、開拓に邪魔な獣を排除する役割を担った側面があるのではないかと思う。狼が最も典型であったように、結果的に人の生活を脅かすものを滅びるまで排除してしまった例もある。熊は本土に残された最後の猛獣である。冬に目立つから冬の季語におさまったとしたなら、それは実に近代的な出来事だろう。


※「季語としての熊」(ウラハイ 2013年2月16日19日26日に掲載)を改稿

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