2014-02-23

BLな俳句 第2回 関悦史

BLな俳句 第2回

関悦史


BLな俳句・第1回


『ふらんす堂通信』第137号(2013年7月)より転載

あいつとは先生のこと青き梅  林宣子『現代俳句歳時記・夏』(学習研究社)

背伸びしたいさかりの、あまり優等生っぽくない生徒の粗暴な言葉づかいを詠んだ句ですが、「青き梅」の未熟さ、酸っぱさの含意が利いて、あまりいやな後味にはなりません。本当に嫌っていたり、侮蔑していたりというよりは、むしろ軽い反発を通してかえって「あいつ=先生」への憧れや、認めてほしいという思いなどが伝わってきます。男子生徒版ツンデレとでもいうべきか。


屯する少年晩涼の語を識らず  中原道夫『顱頂』

こちらもやや不良っぽい少年の一団。「晩涼」などという風雅な言葉とは縁もゆかりもなさそうな少年たち、というふうに作中の語り手は見ているわけですが、この格差が単に知力や趣味の差を示しているばかりではなく、野生動物じみた若々しさを発散する一団への、その無知、無自覚をも含めての愛惜に一脈通じているので、間接的にその精気を愛でるような句にもなっています。君たちは知らないかもしれないが、今君たちを包んでいる時候を晩涼というのだよと。一種のオリエンタリズムにも近い視線なのかもしれませんが。

麦の秋どうしてボクは女なの  山崎十生『花鳥諷詠入門』

性同一性障害の女の子の一人称とも取れますし、多分句意としてはそちらなのでしょうが、役か何かで女装させられている少年が違和感を叫びたてているようにも見れば見えてしまうという句(もうひとつ別な解釈として、小さい男の子に対して作中の語り手が「ボク」と呼びかけている可能性もありますが)。

「麦の秋」は秋とはいっても初夏の季語なので、微妙に食い違っているという含意も持ちつつ、黄金色に染まった麦畑がこの「ボク」に、化粧などしていない生地のままの若々しい輝きを付与するという働きをしています。

つだみきよのマンガ作品『革命の日』では(他にもおそらくこういう作品は多数あるのでしょうが)、仮性半陰陽らしき事情でいきなり女子に変わってしまうものの男子の意識が抜けきらないという主人公が登場し、今まで友人と思っていた男子たちからばかり口説かれて困惑する状況が描かれていました。当人の意識としては同性愛になってしまうわけです。その伝でいけば、この「ボク」が女子であったとしてもBL句と取るのは可。


少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ  山田耕司『大風呂敷』

恐怖とエロスが交錯しながら滑稽にいたっている句で、書き方がコミカルなせいか、あまり本当に悲惨な戦禍という感じがしない(語順が例えば「パンツ脱ぐ少年兵は追ひつめられ」だとやや陰惨になってくるのですが、「パンツ脱ぐ」が結論になっているので軽さが前面に出ている)。脱いでどうなるとも思えないのですが、相手が面食らった隙に逃げ出すあてがあるのか、いや結局脱いだまま取り押さえられてしまうのではないかなどといろいろ想像してしまいます。

少年の素肌、局部が戦場に直に晒される瞬間を通じて、性=攻撃衝動=暴力が一致する局面を捉えているので、描かれているのは「少年兵」の動作だけなのに、読者の側はむしろ面白がって追い詰め、いたぶる側の視線に同化してしまう。一見軽いタッチながら、そうした意味では人の心の危うさに触れている句なのかもしれません。


眼窩暗く青年立てる薔薇かな  奥坂まや『妣の国』

「暗く」と「薔薇」の対比のせいか、同性愛を扱った『エドワードⅡ』などの作品もあるデレク・ジャーマンの映画に通じる耽美的な雰囲気。

「眼窩暗く」が、表情の見えない青年の思いつめた内面を思わせます。「立てる」も安定からほど遠い孤立と緊張の風情が濃い。青年の内面を占めているのが恋情にせよ思想にせよ暴発含みの危うさがあり、土台の「かな」がそれをかろうじて引きとどめているようです。

ちなみにデレク・ジャーマンが監督したプロモーション・ビデオに英国のロックバンド、ザ・スミスの「ザ・クイーン・イズ・デッド」があり、これは闇、薔薇、青年がみな出てくる名作。


両性具有とは蓴菜とじゅんさいの水と  金原まさ子『遊戯の家』

蓴菜は若芽が寒天質に覆われていて、吸い物の椀などに入っているとどこまで固体、どこから液体なのか判然としません。一様に緑に濡れた蓴菜とその身に纏う水の暗さから引き出された両性具有は、プラトンが想定した、二人分の身が合体していた原初の完全体というよりは、一身に両方の性的特徴のみを兼ね備え、どちらでもあるゆえにどちらでもないという妖しい孤立性を帯びたヘルマフロディートス的なものに近いのでしょう。顔や人格のイメージが出てこない蓴菜は、その妖しい孤立性だけを抽出しているようです。


青鮫が「美坊主図鑑」購いゆきぬ  金原まさ子『カルナヴァル』

「美坊主図鑑」は美青年僧侶を集めた写真集で、実在する書籍です(廣済堂出版、二〇一二年)。アマゾンに載っている内容紹介は《今、女子たちの婚活市場の注目株!それが「お坊さん」。埋もれていた「イケメン坊主」「癒し系坊主」「クリーミー系坊主」を発掘、その姿とプロフィールを図鑑にしました》。

この句には「上半身が考え下半身が運命を決めるのですって。」との前書きがあり、青鮫と人間の僧侶では下半身の構造が違うので、「人魚姫」ばりに運命は悲恋と決まってしまう(「人魚姫」はアンデルセンが自身の同性愛の懊悩を書いた作品という説もあり、ジョン・ノイマイヤーが振付したバレエ「人魚姫」はその解釈に則っています)。獰猛な青鮫がじつはメスという可能性もありますが、「医師」とか「村人」のように属性で人を表すと男性と取られるものなので、この「青鮫」もオスと取っておきます。

この句の世界では、青鮫は本屋に立ち現れて写真集を買っていくことくらい当たり前にできるようで、その非現実性自体は狙いではない。むしろ直接美坊主と交際できない孤独と写真集購入の愉しみとではちきれんばかりになった青鮫の精悍な身体の方を思うべきなのでしょう。体毛を持たない青鮫にとっては若い僧の剃髪姿が親しみやすいのかも。


汗かいて少年の眼のくろきかな  八田木枯『八田木枯少年期句集』

「水も滴る」とか「油壺から抜け出たような」というのが美形を形容する決まり文句で、どちらも潤いの多いさまをいっていますが、この句の少年はまさにその権化です。

また「目の黒いうち」といえば生きている間のことですが、この「眼のくろき」はピンポイントに絞られたために、生命力を暗示するだけではなく、ガラスのような鉱物的な美しさを引き出している。水分に富んだ生身と「汗」の熱っぽさが、そのまま生体離れした鉱物的透明感に通じる存在として少年が描きだされています。


少年やつぎめばかりの春景色  八田木枯『あらくれし日月の鈔』

明るいはずの春景色を「つぎめばかり」と見る少年。少年少女が世界の危機を背負わされ、それと身近な恋愛とが強迫的に短絡してしまう「セカイ系」などという言葉が生まれる前の句ですが、この少年は明らかに外界との間に違和を抱えています。ちなみにその後多くのセカイ系作品を生み出す起点となった『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズが始まったのが、この句集が出たのと同じ一九九五年でした。


間をおいて少年濡るる春の雨  八田木枯『天袋』

あたたかくしとしとと降るのが「春の雨」。「間をおいて」は、雨が服にしみとおって少年の体に達するまでの時間でしょう。じわじわと時間をかけて肌につくなまあたたかい液体の質感と、春雨を浴びながらゆく少年の失意とも放恣とも愉楽ともつかない内面を思わせ、ついに濡れが肌身に達してしまったその時を描いて官能的。


少年に戻るボクサーセーター着て  正木ゆう子『静かな水』

着替える瞬間というのは社会的な位置づけや意味合いが変わる瞬間でもあります。単に脱ぐから官能的になるのではなく、立場の移り変わりが他人の目に見えるかたちで示され、それが中身にまで及ぶという幻想がまつわるから幻惑的になる。この句の場合は、闘志に充ちた「ボクサー」がただの「少年」に戻ったときの落差が、さらに「セーター」の肌ざわりという具体感のある親密さに結びつけられているところが鮮やか。「畑山隆則 平成六年 後楽園ホール」の前書きあり。


少年よ白たぐひなき兎抱く  大石悦子『耶々』

少年そのものではなく、抱きかかえられている兎を「白たぐひなき」と荘厳することで結果的に少年自身も至純のものに見えてしまうという句。短い言語表現である俳句以外では表しにくい境地かもしれません。


花屑を掃く雛僧のあひ寄りぬ
  大石悦子『有情』

「雛僧」は幼い僧、小僧のことで、寺の掃除も大事な修業のひとつです。目の前の花屑を掃き寄せていくことに専心していると、もう一人の雛僧としらずしらずのうちにだんだん接近してしまう。

当人たちはやるべきことに無心に取り組んでいるだけなのに、結果として二人が相寄っていくさまを見る語り手の目が、運命の綾を見通す神仏のようになっているのが目出度くも面白いところ。


夕風(ゆふかぜ)/絶交(ぜつかう)/運河(うんが)・ガレージ/十九(じふく)の春(はる)   高柳重信『日本海軍補遺』

一句がしりとりによる連想で出来ていて、「運河・ガレージ」の殺伐とした高度成長以前の地方都市のような場を背景に、ハイティーン同士の激情のぶつかり合い追懐した句と一応は取れます。しかしこの句を収めた多行句集『日本海軍補遺』は、全句に軍艦の名を詠み込んだという凝った代物で、「夕風」は日本海軍の駆逐艦の名でもある。

句集『日本海軍』『日本海軍補遺』の制作動機となったのは、戦前に少年期を過ごした重信が心を奪われたという平田晋策の小説『昭和遊撃隊』への懐旧でした。この小説には、実在の軍艦に混じって空飛ぶ潜水艦「富士」などという非実在の船まで登場。重信は『日本海軍』の終わりをその「富士」を詠み込んだ四句で締めています。この句集に詠み込まれたのは、無限に豊かな記憶としての重信の少年期そのものだったのでしょう。こうした想像上のコレクションに耽るというのも少年性の発露そのものなのかもしれません。

ちなみにウィキペディアを引くと、駆逐艦「夕風」は一九二八年(昭和三年)、演習中に僚艦「島風」と絶交ならぬ衝突事故を起こし、双方とも損傷しています。戦後、賠償艦の指定を受けてイギリスに引き渡され、使命を終えたのが一九四七年(昭和二二年)、つまり衝突事故からちょうど十九年後のことでした。この辺のことも句の背景にあったのかもしれません。

なお『日本海軍補遺』でBL的なものとしては、「睦月・金泥/伊勢海老/美童/歌骨牌」という同じくしりとりで作られた硬質な美感の句も入っています。


蜂の巣の太りを友にさゝやけり  攝津幸彦『陸々集』

攝津らしい意味の取りにくい句ですが、この隠微さは何なのか。「さゝやく」がまず怪しい。この友とは一体どういう関係で、いかなる経験をともにしてきたのか。単に蜂の巣の話をしているだけなのに、余人の窺い知れない結びつきを感じさせます。

「太り」というとスズメバチなどの丸まると膨れ上がった巣でしょう。その有機的な形態を指して「こんなに大きくなっているよ」となどと囁いているのだとすると何やら性器のメタファーみたいな雰囲気も漂ってきますが、ものが蜂の巣ではちょっとそうも取りにくい。いわば見せ消ちになっている。攻撃性を秘めた丸い有機的な形を媒介にして、「友」を口説いているような、むつみ合っているような、あるいは危機を共有しているような曖昧な感情的結びつきだけが奇妙に立ち上がってきます。この二人はこの世のものなのでしょうか。


少年を仰向けにして梨の花  攝津幸彦『鳥屋』

梨の花というとすぐ出てくるのが原石鼎の名句《青天や白き五弁の梨の花》。形状をそのまま言っただけなのに無限の湧出感が出てくる石鼎ならではの丈高い句ですが、そのとおり、梨の花というのは、子供が描く花の絵のようにシンプルで開け広げな、清潔感のある姿をしていて、少年と取り合わせるには、その点で似つかわしい。問題は「仰向けにして」で、これで寝かされた少年のイメージが梨の花のそれと重なり、清潔なエロスが出てくる。少年が自発的にではなく、語り手に仰向けにされているところが肝でしょう。得体の知れない語り手にいいようにされている少年。この少年は梨の花のように愛でられているのか、それとも梨の花咲く白く明るい時空から何かいかがわしいことをされようとしているのか、もはや判然としません。

攝津では他に《弁当を済ませて美童を折りたゝむ》(『陸々集』)なる句もありますが、この美童になるとどうも弁当を食べるときに使う道具のようなものらしい。一体この人は何者で何を食べているのか。というよりも、これは一体どういう世界なのか。美童をあっさり道具にしてしまう加虐性を帯びた奇妙な世界をあっけらかんと描いていて魅惑的。


昼寝せる君かともああ眼は窪み  林翔『光年』

「遺体に対面して」の前書きあり。能村登四郎(二〇〇一年五月二四日没)の遺体です。

林翔は國學院大学で三年年長だった能村登四郎と同期となり、ともに「馬酔木」で頭角を現して、一九七〇年に能村登四郎が主宰誌「沖」を創刊するとその編集主幹となりました。

登四郎は九〇歳での大往生でしたが、このとき林翔が残した句の数々は手放しの慟哭で、その真情に気圧されます。《迅雷に裂かれし絆何とせむ》《をとこ登四郎神となりける菖蒲月》《登四郎登四郎登四郎憶ひ五月逝く》《黄泉路なる君の裾吹け青嵐》《遺影とや水着姿の君若く》《端居せる君の長脛見しことも》《大緑陰どこかで君に逢へるかも》《一星は君か漠々の五月闇》《死の明るさを言ひける君や夏の月》。

林翔はその八年後の二〇〇九年、九五歳で登四郎の元へと発ちました。


 夏の月   関悦史

ダ・ヴィンチの聖ヨハネ顕ち春の夢

他課の彼と倉庫に二人春の昼

野郎二人でカレー作るや夏の暮

男体がわきに寝てをり夏の月

ボクサーブリーフのみの寝相や浴衣脱げ

白シャツ彼と社では下の名呼び合はず

じやんけんで負けたら「受」ぞ飛ぶ螢

美童なれバナナ食ふときじつと見られ

ダヴィデの体ソフトクリームのやうに見る

少年や腿に挟みて蚊が平ら

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