2014-02-09

格闘する俳句 佐々木貴子句集『ユリウス』を読む 西原天気

格闘する俳句
佐々木貴子句集『ユリウス』を読む

西原天気



佐々木貴子『ユリウス』(2013年11月30日/現代俳句協会)は第一句集。1997年から2013年までのおよそ300句を収める。

自転車の宙を泳ぎし無月かな  佐々木貴子(以下同)

自転車と宙とくれば、どうしても映画「E.T.」のあのシーンを思い浮かべてしまう。巨大な月を背景に自転車が夜空を駆ける。ところが、この句は「無月」だというのだ。私はニコッと笑った。ちょっとした裏切り・はずしは、俳句がもたらす大きな愉しみだ。もちろん俳句のおもしろさはそれだけではない。多種多様な俳句的興趣のほんのひとつに過ぎないにしても。

姫始め額に巨木生えている

季語「姫始め」はセクシャルな事柄に限定はされないようだが(正月に炊いた姫飯の食べ始め、「飛馬始め」=馬の乗り初めなど)、この句の場合は、性行為と俗解するのがいいと思う。ポスト・コイトゥス(post-coitus)の擬死、あるいはその最中でもいい、「額に巨木」とは! 

比喩といえば比喩だが、突き抜け感が尋常ではない。俳句を評するときのクリシェと化した例の「身体感覚」といえば、そうなのだが、ぶっとんじゃあいませんか、これ。

焼鳥の串一本が宇宙の芯

巨大で深淵なものと卑近なものを照応させる手法はめずらしいものではないが、「串」を設えたのは、なかなかのものだ。

中空の0おごそかに回転す

この句は関悦史がウラハイで取り上げた(≫こちら)こともあってか、「60億本の回転する曲がった棒」とペアで読みたくもなる。16本(≫こちら)が60億本まで増えれば、それは「0」とそれほど変わらない。「0」が回転すれば無限大にも見えてくる。

こうして4句、私が好きになった句を挙げただけでも、作風の幅広さは伝わると思う。句集『ユリウス』には有季もあれば無季もある。口語的な処理もあれば、スペイシーな幻影(ファンタスマ)をめざしたような句もある。みずからの内面に向かうような句もある。それをして「バラエティ豊かな句群」と呼ぶこともできるだろう。

バラエティ豊か。良い言い方だ。

しかし、ほんとうにそうか。

私にはむしろ「試行錯誤の苦しみ」に見える。ページをめくりながら、いろいろな方向を希求する句群は、作者の迷いのように思え、少し極端に喩えれば、並んだ句の一句一句が一つ前の句を「それではダメだ」と否定するような並びにも見え始めた。

こうした感想は編年で句が並んでいるせいもあるだろう。作者の「試行」が順を追って提示される。

試行の繰り返しは「苦しみ」を伴う。読者がそれに付き合うことは「苦しみ」を受け取ることでもあろう。それはいいのだが、読んでいて、率直に言えば「その方向でいいのか?」という小さな疑念がたびたび湧く。

集中、興趣のある句(私の好み・趣味に合致するというくらいの意味)も少なからずある。しかし全体的には、作者の試行錯誤が、生産的な過程ではなく、むしろ「迷い」に思えた。

時を経るにつれて(ページを進めるにつれて)、表現は(簡単にいえば)直情的に、またさらに率直に言えば、語の感触よりも意味が優勢になっていく。カジュアルな言い方をすれば、どんどん理屈っぽい方向へと傾いていくように思える。

そして試行の果てに辿り着いたのが末尾の一句《あたしXあなたY軸春疾風》という一句だとすれば、迷いの果てにまださらに深い迷いがあるように思える。「あたし」「あなた」の閉塞感、XY軸といった弱々しく思念的な誂え、いかにも安易にとってつけたような季語「春疾風」。悪しざまに言うようだが、読み終えて感じた「苦しさ」「迷い」を端的に伝えようとしただけだ。それにこれは私個人の感想に過ぎない。

作者の七転八倒・俳句との格闘(私が勝手に誇張)をそのまま記録した感もあるこの句集。自分にとって「気持ちのいい句」が多いかというと、そうではない。しかし、これは何度も繰り返すが、好み・趣味の合致の如何でしかない。

句を評するに、まるで何かをわかっているかのように「評価」を下す人がいるが、少なくとも、私=読者がするべきことは「評価」ではない。つい口が滑って「わかったようなこと」を言ってしまうが、わかって言っているわけではない。わからないまま、句の前で、喜んだり逡巡したり忌避したりと、忙しく心を動かしつつページをめくり終えるのだ(そんな者に「句集評」を書く資格があるのかどうかはさておき)。

ここでしかし、私は、「倒れるなら前のめりに」倒れた句について、その心意気や姿勢を称揚するはずではなかったのか、と思い至る。後ろにのけぞるように倒れてしまった句よりも前のめりの句がいい。それなら、この『ユリウス』は前のめりに倒れこんだ句に満ちている。いくつかのお気に入りの句とともに、この姿勢をこそ、読者=私は愛さねばならないはずだ。

句群を読み終え、作者のあとがきを読んでみた。そこにはこうある。

俳句という形式の厳しさ、旨味面白味の少なさ、華やかさに欠けるその世界から何度も足が遠のきましたが(…)

(…)俳歴を振り返るに、そのほとんどは有季定型に対する内面的な葛藤であったと思います。表現したい何かがあるとして、それが何故季語という壁に対峙しなければならないのか、窮屈な十七音のスケールに削ぎ落とさなければならないのか(…)
作者の「苦しみ」や葛藤は「あとがき」に明示されていたわけで〔*1〕、それなら読者である私が「読んでいて苦しい」と感じるのは当然かもしれない。

ここで興味深いのは、作者の「俳句」への感情だ。作者は「俳句」に少しでも魅力を感じているのだろうか。もっと言えば、「俳句」が好きなのだろうか。「旨味面白味の少なさ」と思うなら、俳句をやめればいい。「華やかさ」を求めるなら、もっと別のものがいい。カジュアルに率直に、「俳句なんてやめればいいのに」と言いたくなる〔*2〕

けれども作者は俳句を続けてきて、句集を出した。それが作者の答えだとは思うが、それでも釈然としない。作者の試行錯誤と挑戦を綴った『ユリウス』は「問い」ではあっても答えではない。この先に出る「第二句集」が答えとなるのか。あるいは、この人は俳句から足を洗い、別の「旨味面白味」のあるものを見つけるのか。それは私たちにはわからない。

ただ、俳句をやっている者にとって救いは、句は、句集は作者から離れていくという、よく言われるところの事態だ。苦しみもがいている句も、安寧に落ち着き払った句も、句にとって最良の読者に出会うチャンスがある。

『ユリウス』は私にとってうまく対面することの難しい句集だった。だが、何度も言うようにそれは私の評価ではない。句集それぞれには「姿」のようなものがある。その「姿」と読者たる私の関係のありようはさまざまだ。たやすく関係を結べることもあれば、困難なこともある。

最後に、お気に入りの句を気ままに何句か上げて、この、いつにも増して不明瞭で煮え切らず要領を得ない一文を終えることにする。

三歳のことば海月となり泳ぐ

鬱蒼と茂るパセリのなか涅槃

自販機の明り恵方を向いており

たくさんの日向含んで日記果つ




〔*1〕季語や十七音に対する作者の「葛藤」を相対化しておくことも必要だろう。

「季語という壁」という把え方はあまり一般的なものではない。というか、季語という俳句にとっての最重要とも思える要素について、俳句をやる人のスタンスは幅広く雑多にばらついている。季語/季題を神のように恋人のように崇め抱きしめるように愛する人たちもいれば、ルールとして、あるいはツールと捉える姿勢もある。それらは読みにも実作にも反映されるが、こうならばこうという定式はないように見える。「季語」は長年重大視されながら、スタンスの違う人たちがこれについて語るプラットフォームさえいまだ築かれていない。それでも俳句は続いていくという、これは良い意味に解釈することも可能だ。言い換えれば、この句集の作者が「季語」を「壁」と捉え、それを乗り越えるなり脇道を行くなりする際の道標は、現状、どこにも用意されていない。それを苦しいと感じる人もいれば(この作者がそう)、融通無碍に軽やかに振る舞える人もいる。

次に、「窮屈な十七音」という部分。ここでは一般との比較ではなく(一般なんてわからない)、私の考え方と大きく違うことを指摘しておきたい。「表現したいもの」を17音の規模に削ぎ落とすという捉え方は、削除や凝縮(ともに短縮)という手法だが、俳句がそうであるなら、俳句は「機能」に過ぎない(いわば「17音で表現しきれないものを17音で表現する」といった)。コンパクトな音数に膨大な《もの》が収まっているのではなく、コンパクトな音数にぴったりのコンパクトな《もの》が収まっているというのが、私の把握だ。このことを舌足らずに伝えるのは難しいが、「削ぎ落とす」苦しみなど毛ほども感じない俳句作者はたくさんいると思う。

〔*2〕作者の俳句へのスタンスをこれまで周囲はどう見てきたのか。興味が湧いて、中村和弘氏(作者が所属する結社「陸」の主宰)による巻頭の一文を読んでみた。ちなみに、私は句集を読むと、跋文や栞文のたぐいは読まない。理由は簡単で、結婚式の挨拶みたいなものだから、どれを読んでもあまり面白くないから。自分も寄稿したことがあり、自分の句集では句友に書いてもらったのに、この言い草はないと自分でも思うが、しかたがない。それでもこの句集は読んでみたくなったのだ。読んでみると、タイトルがそのまま「葛藤」だった。「挑戦」の語もあった。

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