2014-02-09

イローニッシュな詩性 普川洋の作品 谷口慎也

イローニッシュな詩性
普川洋の作品

谷口慎也

≫普川洋 『連衆』誌より自選十二句

普川洋は俳号で、川柳を書くときは普川素床と名のっている。かつての「川柳Z賞」受賞作家でもある。残念ながらこの賞は2007年に廃止されたが、現在活躍中の川柳人の多くもここから輩出している。また彼には『文芸オクトパスそよ風』(新葉館刊)という評論集もあって、独特の川柳観を展開している。

どちらかと言えば川柳界の中での活躍が目立つ書き手であるが、彼の中では俳柳の境界線や相互の越境などを問うつもりはないようだ。両極端においての俳柳の区別はあるものの、近くにおいてはそれがないと言ってよい。

それよりも彼にとって重要なことは、自分の詩的思惟性(中核思想)が抱え込んでいるイローニッシュなもの(滑稽や諧謔等)を、双方のジャンルの「かたち」のなかでどう表出していくかということであろう。その表現手段の中核にあるものが、いわゆる詩的喩と呼ばれるものであることは、今回『週刊俳句』で紹介された12句をざっと眺めてみても了解されるのではないか。

オイと呼ぶとぼくが出てくるマラソン

〈呼ぶ〉主体と〈出てくる〉主体が同じであるにもかかわらず、それを同時的に分裂させているところが面白い。すなわち滑稽であり諧謔である。またこの〈マラソン〉には、例えばアラン・シリトーの小説『長距離走者の孤独』やそれを原作とした映画などが想起される。彼も私と同世代であれば、それらに影響を受けたのかもしれない。あるいは金子兜太の〈爆心地のマラソン〉があるのかもしれない。また単に目の前を通過するマラソンランナーに触発されたのかもしれないが、「マラソンランナー」自体に苦痛や孤独、長い人生という「喩」がつきまとうことは確かである。この一句はそこを穿ってみせたところの滑稽である。

鳥渡るからっと晴れているポスト

色鳥の混み合う創造はいつも

春の仕掛けのピアノを壊してみた

これらの作品には季語が挿入されているから、いちおう俳句の「かたち」をとっている。しかし作者が言いたいことは、〈からっと晴れている〉己が心象風景であり、〈創造〉なるものは〈いつも〉何かのきっかけを待っているものだという作者の思いである。〈鳥渡る〉も〈色鳥〉の〈混み合う〉姿もその表出の為の舞台設定に貢献している。

3句目は〈春〉という季語(情緒)に〈仕掛け〉という「知」を対比させる面白さを効果的にするために、わざわざ〈ピアノ〉を壊して見せるのである。ここには彼が抱え込んでいるイローニッシュな詩性が顕在化している。

しかしながら、これらの句における季語は、本来的なその役割を全く果たしていないかというと、そうではない。季語にはいくつものイメージがつきまとう。簡単に言えば、そのイメージが一句成立のときに有効な「喩」として働くのであるが、ここには普川の「さじ加減」のうまさというものがあって、その辺は充分に計算されているようだ。その「さじ加減」次第で次のような句を生む。

顔洗うどこかで亀が鳴いている

「亀鳴く」という季語はもともと何処か滑稽である(もちろん、淋しくもある)が、それが〈顔洗う〉卑俗とうまく調和していて、そこに漂うイロ二―も上質である。

その点、〈面白くずらしてありぬ夏の空〉は、面白がっている作者よりもは面白くない。これもまた「さじ加減」であり、一句が「喩」を形成する前に〈面白く〉と言ってしまっては「ズレ」の面白さも半減するのではないか。

また〈喩から出てより等身のかたつむり〉もあるが、私には〈喩から出て〉がどうもいけない。そのフレーズが説明であり、それが一句の中で説明のままで終わっていると思われるからだ。だが、何度か読み返していると「いや、これでいいのだ」と思うこともある。「喩」そのものの具現化という意味での評価、である。しかしながら、いまだその判断に迷い続けているというのが正直なところ。

……というように、いろいろと考えさせられるところに普川作品の面白さがあるのであろう。いずれにしても、彼が特異な書き手であることには間違いない。いつか彼の短詩型についての考えを、ゆっくり拝聴したいと考えている。

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