2014-04-13

【週俳3月の俳句を読む】ほっかほか 藤幹子

【週俳3月の俳句を読む】
ほっかほか

藤幹子


♪親バカ心に火がついて みるみるうちに吾子だらけ
あゝ恥ずかしい 恥ずかしい 吾子の俳句は止めましょう♪

いつの頃やら知らねども,結社主宰は言ったげな。「子供の俳句はおやめなさい,孫の俳句はおやめなさい,吾子の俳句は,甘くなります幼稚になりますおやめなさい」

さて,実際にいつの頃から吾子俳句忌避すべし,と言われてきているのか私は知らない。ぱっと調べてわかるものでもない。ただ現在俳句を語る場ではほぼ暗黙の了解のごとく,吾子俳句(類する子供や孫の俳句)は安易に手を出すべきではない,と戒められ,またよほどよくできたものでなければ苦笑とともに迎えられるものだ(それを踏まえた上での「(そうは言われますが)吾子俳句は良いものです」という言説もある)。

とまれ理由は明快,安易な吾子俳句の多くが子ども(や孫)の成長記録に留まっており,「ね,うちの子かわいいでしょう?私感動しちゃいましたよ,子供はかわいいねえかわいいねえ!」という作者の声(どことなくムツゴロウさんに似ている)がどこを切っても糖蜜のようにどろりとあふれ出て,一句や二句ならともかくも,何句も読まされたならばうんざりしてしまうこと請け合いであるからだ。友人の子でもさもあろう,まして他人の子どもの成長日記を読まされるのは,苦痛であるという人も多かろう。

だがしかし,だがしばし。待たれよ,待たれよ,若人よ,いやさ,枯淡を愛する老若男女よ。

つくりたくなるのだ。

御子をお持ちの方は思い出してくだされ,そうでない方もそれなりに想像してくだされ。子供,特に初めての子供を出産,家庭に子供という新人が入ってきた気持ちを。そらもう,初めてづくし。押し寄せてくる情報量が,並みの生活の非ではない。今まで知らなかったことがいっぺんにわかる(出産や育児にかかわるもろもろの言説が第三の目が開いたのではないかというくらいわかるようになる),その上,一瞬一瞬があっという間でもう戻ってこない。この驚きを(腹が人間じゃない~陣痛はこの世の痛みではない~赤子小っちゃい!~母乳って本当に出るんだ~の赤子の挙動全てetc.etc.だいたい三年くらい続く),俳に落とし込まなくては,間に合わない。今作らなくていつ作るのだ,という焦燥心(しかしその気持ちの半分は親の欲目でできている)。

吾子俳句なんて…と通人気取りがあら不思議。気が付けば四句五句,作ってしまう恐ろしさ。あゝ恥ずかしや恥ずかしや,吾子の俳句はやめませう。わかっちゃいるけどやめられない。(これが孫になると,また自分の時代との違いや,忘れていた育児の記憶,実父母とは違う気楽な立場の視点が新鮮で,やはり詠みたくなるのでしょう,きっと)

「俳句は日記ではない」
「俳句は驚きを伝えるだけのものなのか」

わかっておりますわかっております,だから前述したとおり,それだけならば,そいつぁあんまりつまらない。だからもがく。吾子俳句,また俗にお母さん俳句などと呼ばれてしまう,その形式に挑戦しては撃沈する(たまには盲目になって開き直ったりもします)。いかにして,三者的に読んでも胸焼けせず,かつ対象から離れすぎず,このもろもろの現象を俳句として立たせるか。これは子持ち(孫持ち)の俳句愛好者諸氏にとって,重要な命題になっているのではないかと考えるものである。

前置きがすっかり長くなった。上記のような状況があると信じている私は,臨月から出産,出産その後までを五十句もの連作とした山口優夢氏の「春を呼ぶ」に相対し,だから最初は耳が赤くなる気持ちで目を逸らしたのだ。(この「俳句を読む」を書くにあたって,これだけ吾子俳句について言い訳せずにはいられなかったのもそのせいである。)その癖ちらちらと拾い読みをし,結局のところ,全句を堪能した。

本当は言い訳などいらなかった。山口氏の連作は私の先入観などまるきり関係なく,素直な驚きも隠さずに,出産前後にまつわる現象を,つき過ぎず離れすぎず(時には首をひねる措辞や恰好つけすぎと思うものもないわけではなかったが。「がつしりと分娩台や百千鳥」の百千鳥,「産道を抜けて光を君は知る」は少し表現に酔ってしまっているかな,など)表していたからだ。まったく,頭の中で子ども!出産!と勝手に悶えていたのは私だけであり,ただただ恥ずかしいのであった。
 
反省しつつ,好きな作品を抄出させていただく。

臨月やまぶしくて見えない雲雀   山口優夢

そこ,に雲雀がいるかはわからない,ただ声に導かれて空を仰ぎ,陽光に目を眩ませられながらも,一心に上を見つめる。その一瞬の無心なだれかの姿が,出産という未知のものに対する面映ゆさ,畏れや敬いを体現しているように思う。臨月という具体かつ意味のごつい言葉をよく受け止めたなあと感心するのである。

薄氷をぴしと踏みゆき父となる

頼りない薄氷を,しかし自覚的に「ぴしと踏」み割る。この五十句群はどうやら出産直前から時間系列通りに並んでいるようである。実際の出産より前におかれたこの句は,だから,まだ見ぬ子へ,とにかく父になるよと伝えたい,そして自分に言い聞かせてもいる句だろう。実際に腹に宿す訳ではない男性方はこの目で子どもを見るまで(時にこの目で見ても)なかなか父性を獲得しにくいと聞く(のですけどどうなのでしょう)。まあそう固く考えるな,と肩を叩きたい。

雪割草なし崩しに始まるお産
 
待て,なし崩しではない。雪割草などと格好つけている場合ではない。焦ろう。妻の腹は今まさに痛いんだぞ。

扉の向かうで妻が苦しむ冴え返る

これこれ,冴え返っている場合ではない。もちろん,緊迫した空気,冷気,そういうものを表しているのもわかるのだけれど,俳句にされるとナニノンキニシテルンデスカ―!という気持ちになってしまう。いやこれを文字に起こされたのはきっと全て終わってからだとは思うのですが。

産むときの妻は赤子のやうに赤し
 
そうだとも,赤いよ。作者の手も赤かったろうと思う。赤裸々な句で,とても好き。

人の中から人が出てくるかぎろひて

ほっかほかだ。ほっかほか,かつ,眼差す主体にとって(ここでは=作者で良いと思うけれど)まだ人が出てきたという現実がつかみきれていないのがわかる。

胎盤のしんと重たき春の雪

これも胎児と共に生きたものであり,同じく産み落とされるも役目を終えてモノになったのだ。血に満ち満ちた塊のしずかな死だ。

君に子宮は狭かつたのか春の空

この感慨はほんとうに。子への語りかけというのは感傷の骨頂であるが,「狭かったのか」は半ば自問であり,呆然としているようでもあり,おかしみがあっていい。うれしいとか感動とかではないのだよね。出てきたと思ったら,泣いて,体伸ばして,まだ泣いて,あ,狭かったのか,あれ悪い事したような気分だな,狭かったのか,すまんね,というような。

さへづりや傾き変へて哺乳瓶

乳をやる妻早春をうつむきぬ

この静けさ。視線のひたむきさ。

何もしない夫と言はれ朝寝かな

節子,それ旧かなづかいと「かな」じゃなかったら,イクメン失格五七五や。

遠雪崩赤子を布にくるむとき

赤子を布にくるむとき,赤子の外の世界で何が起ころうと赤子は平和だ。

泣く子を抱いて泣かない母やつばくらめ

母を泣かせてやってください。

父も娘も初恋から遠くてすみれ

父には過去であり,娘には未来である,という対比がうまい。

最後に置かれたこの一句は,五十句のまとめのように子供の未来へ思いを馳せている。そこに恋をもってくるところが,いつか離れていく娘,という,典型的な父親の感慨ではあるが,それはまた,「典型的に父親たちが持つ気持ち」を作者が本当に実感した,という表明でもあるのではないか。こんなこと本当に思うようになるのだな,という思いが隠れていやしないか,それは穿ちすぎか。

ともあれ,五十句は終わるが,お楽しみはこれからだ。まだ「もうちっとだけ続く」未来に,どうか幸あれかし。

第358号2014年3月2日
白井健介 乾燥剤 10句 ≫読む
山口優夢 春を呼ぶ 50句 ≫読む
第359号2014年3月9日
山崎祐子 海鳥 10句 ≫読む
関根かな 雪兎 10句 ≫読む
風間博明 福島に希望の光を 10句 ≫読む
第360号2014年3月16日
大川ゆかり はるまつり 10句 ≫読む
小澤麻結 春の音 10句 ≫読む
藤永貴之 梅 10句 ≫読む
第361号2014年3月23日
齋藤朝比古 鈍器 10句 ≫読む
第362号2014年3月30日
藤田めぐみ 春のすごろく 10句 ≫読む
堀下 翔 転居届 10句 ≫読む

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