2014-04-20

ロマンティックな手榴弾 小津夜景

ロマンティックな手榴弾

小津夜景



今回の「悪い俳句」特集。シュウハイ側のご説明によれば、この「悪」はワル、悪徳、背徳、不道徳などのラインで理解せよとのこと。どうやら俳句を「ノワール」の観点から読んでみなさい、という趣向らしいです。

さて枕話から入りますが、私はかれこれウン十年近く「武術業界」の最底辺をうろつく人生を送っています。この業界に足を踏み入れてしまった経緯については、それはもう色々ありました。一方ずっと足を洗わずにいる理由は、この業にハマっている人たちの頭のイカレっぷりを愛しているから、の一点だけ。

ところで武術というのは、伝聞によると東洋哲学のみならず現代思想ともたいへん相性がよろしいらしく、最近ではそうしたアプローチからこの道に興味をもつ人も割に少なくないようです。とはいえナマの現場を見るかぎり、言葉によって武術を「読みのネタ」へと引き倒すことの滑稽さに気づかない人は、この道を去ってゆくのもまた驚くほど早い、というのが個人的な実感。

なぜこの手の「知的」な人々は武術に飽きてしまうのか? これ、手近かつ素朴な印象としては、彼らが武術の「悪」の部分にさほど興味をもっていないことがすぐに思い出されます。翻って真性のクンファー(拳徒)はどうかと思い巡らすに、往々にして彼らはこの道を「人非人たちの吹き溜まる、畜生道なモンド・ノワール」と捉えているようす。

つまり真性のクンファーとは、知性などとはまるで別物の、もっとクレイジーでエイリアンなサムシングをもとめて日々精進する生き物である、という訳です。例を挙げれば、てのひらから波動砲を出す(これ、テクニカルタームで「如来神掌」と言います)とか、気のパワーで目玉焼きをつくっちゃう(周星馳が「食神」のクライマックスでかますあれ)とかその手のしょうもないノリ。こうやって書いてみると、必ずしも冗談でないだけに相当残念な気もしますが、総じてクンファーとは、黄金時代のショウ・ブラザーズのポスターやら何やらを仰ぎつつ、人に非ざる業をかくのごとく極めんとする哀しき徒である、と申すのがやはり適切でありましょう。

で、毎日こうした錬巧を黙々とやりつづけているとどうなれるかというと、もう本当に心の底から孤独になれます。あたかもアウトローのように。やっていることの意味が当の本人にも皆目わからないし、友だちも失いかねない。でもいかんせんクンフーはまるきり世間を顧みない、見えざる位相をのたうちまわってこそ俄然面白い。但し、これをうっかり口に出してしまうと、聡明な武術人たちから「は? 見えざる位相? それ別にアウトローと関係ないし。メルロ=ポンティの『読み』だって不可知なるアソコに狙い定めてヤッてんだけど?」みたいな感じの文句をつけられてしまうのですが。

ここで非常に問題な点、それは聡明な武術人たちというのが「この『不可知なるアソコ』って、ひょっとすると畜生界のことかもしれない」なんて風には想像すらしていないことです。大体が、良くて否定神学、下手すると大変スピリチュアルなものだと思っています。悟りとか、ニューサイエンスとか、そういうの。しかし武とは冗談抜きで「殺という視座」をめぐる体系なのですし、またそこで語られる死の意味するものが、形而上学とも宗教とも全く縁のない、そのまんまの「神なき世界」であることは改めて述べるまでもないでしょう。

と、まあこのように武術を「読む」人というのはその「悪」の部分にあまり興味がないか、もしくは都合良く理解してしまうことが少なくないわけですが、とはいえ個人的にはこうした現象を、武術に対する無理解と感じたことは実は一度もなかったりします。なぜかと申しますと、そもそも「悪」とは「読み」から最も隔絶したところに潜伏する性分である、と思うからです。

ようやくここから本題です。すなわち「悪」と「読み」との隔絶について。このふたつの相性というのは最悪というしかない。必ず、すれ違う。なにしろ「読み」というのはどうしたってその対象を理解しよう(時によっては救済し、最悪の場合は成仏させよう)とする行為です。一方「悪」とは他人からの理解を拒もうとする力学。この世のはぐれものたることを選んだ「悪」たちにとって「読まれること」は悪夢でしかありません。理解なんかされちゃあたまらない。畜生界では成仏も悟りもニューサイエンスも御法度なのです。

モンド・ノワールとはその孤独を単に生きるため、それに何の意味もなく耐えるために地上に存在する舞台であり、またそれでこそ無規範のロマンティズムも花開く。ジュネの『花のノートルダム』について何か書こうとしたデリダが思わず『弔鐘』のような怪書をものしてしまったのも、この「悪」と「読み」との相性の悪さ、すなわち 「悪」を強引に読もうとすると「いやらしい善意」の臭味がそこに避けがたく漂ってしまう、といった至上最悪の救済ヒューマニズムを回避するためでした(と、私も今これを書いていて気づきました)。かくしてデリダは自著をクレイジーなエイリアン化、というか哲学界のはぐれものとすることで、ジュネを「読み」に懐柔することなくその血肉に迫ろうとしたわけです(こんな不埒に自著を晒すとは、デリダというのも相当「悪い男」だったのでしょうね)。

つまるところ「悪い俳句」とは何なのか。それは「読み」を二重の意味で拒絶する俳句なのだと思います。「読者」を待たず「読解」を斥ける——おそらくこのような在り方こそ「悪い俳句」の美学に間違いありません。そして私たちはと言えば、どんなにその句を愛そうと、その馬鹿げたはぐれっぷりをそっと見守ることしかできない。しかしながらここで話を終えてしまうと若干愛想に欠ける気もするので、この「馬鹿げたはぐれっぷり」というのが一体どのようなものか、勇気をもって大いに通俗的な印象批評の水準にまで引きずりおろしてみます。すなわち以下のような条件を満たしている時、その句は思わずきゅうう…っと抱きしめたくなっちゃうほど「悪い」のではないでしょうか。

1 悪い俳句(=ノワールな俳句)とは、読者とその読解とによって昇華されることを頑なに拒む、強がりな芳香を放っている。

2 友のいない、孤独な、この世のエイリアンである性が、じんわりと滲み出ている。

3 この世のすべてを強奪したかのような豪壮な態度と、実際には何ひとつもっていない素寒貧の内実とが、同時に浮き彫りとなっている。

4 輝いていて、せつなくて、ただそこに転がる、最高にロマンティックな手榴弾である。


  街角に薔薇色の狼の金玉揺れる  山本勝之

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