2014-04-13

特集「ku+」第1号 読み合う 「いい俳句」という言葉の個人的な用途と、それとは別に、「いい句」について 福田若之

特集「ku+」第1号 読み合う
「いい俳句」という言葉の個人的な用途と、それとは別に、「いい句」について

福田若之


【質問1】 あなたにとって「いい俳句」とは、どのような俳句でしょう。(以下に200字以内でお記しください)

「いい俳句」は、少なくとも手元から遠い俳句のようです。「好きな俳句」と「いい俳句」のニュアンスの差や、自分の句を「いい俳句」として語ることの不自然さ、「好きな俳句」に比べ「いい俳句」は忘れやすいことなどは、それが理由かと。僕の挙げられる句は、必然的に僕の手元に近い句に違いないのですが、その中で比較的「いい俳句」に向き合ったときに似た感覚を呼び起こす句を。

【質問2】1でご回答いただいた「いい俳句」の典型であるような、一句を挙げて下さい。(「名句」としてよく知られた句、以外から、挙げていただければ幸甚です)

天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也



クプラスを読み返しながら、僕はいったいどういうものを名指すために「いい俳句」という言葉を使いたいと思うのか、ということを、また考え込んでいる。「僕にとって「いい俳句」とは何か」という問いは、言い換えれば、そうした問いにほかならない。

そもそも、「いい俳句」という言葉は「いい」と「俳句」からなる。

だから、要するに、「いい」、なおかつ、「俳句」が、「いい俳句」なわけだ。でも、はっきり言って、この「いい俳句」という言葉を構成する場合の、「いい」ってどういうことなのかそもそも厳密には知らないし、「俳句」であるってどういうことなのかそもそも厳密には知らない(いくらか挑発的に「知ったことか」と叫びそうになりながら、ぐっと思いとどまる)。

そんな具合だから、ある句を僕が「いい俳句」だと断じるとき、それを本当に断じることなんかできていないんだと思う。つまり、僕にとっての「いい俳句」は、「いい(かも知れない)俳句(かも知れない)」だ(だからだろうか、「いい俳句とは何か」と言う問いを突きつけられたときから、それはちょっとソクラテス的な問いに感じられていた。回答者を無知の知へ導くタイプの問い)。

僕にはそれは、雑踏ですれ違う無数の「いい(かも知れない)人間(かも知れない)」たちのようなものに思われる(この書き方は自分でもちょっと気味が悪いけど)。

同じ社会を構成している、僕のまるで知らない、けど、たぶんまともに人間なのだろうひとたち。この「いい人間」という言葉は、より個人的な関係の中で個人として認識しあうことができる「いい友達」とか「いい先輩」とかとは違うひとたちを指しているし、それぞれの「いい」の意味合いも違っている。たまたま個々の「いい人間」たちと一瞬すれ違ったからといって、普通はその後どうもならない。ただすれ違ったというだけのことで僕が変化したりはしないと思う。だけど、あのひとたちが「いい人間」でないのだとしたら、僕はとても外へは出られないだろう。

僕にとっては、「いい俳句」もそれと同じところがある。僕はそれらの俳句を本当の意味で知ることなどなく、特に影響を受けることもなく通り過ぎる(実は、「いい俳句」と対立する「手元」の句から〈天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也〉をアンケートで挙げたのは、この句の表現している天の川との距離感とそこにある虚無感が、この「いい俳句」との触れ合えなさと近いものであるように思ったから。正直に言うと、僕の回答が「高み・未知・遠い目標」とか「自己更新」なんかに分類されているのを見たとき、アンケート回答では考えをほとんど伝えられていないことに気づいて、けっこう焦った)のだけれど、それらが「いい俳句」であることにしておかないと、どんなものも読めなくなってしまうような、そんな俳句が「いい俳句」だ、とも言える。

もちろん、そのように通り過ぎかけたとき、あるいは完全に通り過ぎたあとで、ふいに強いかかわりが生まれて、個々の「いい俳句」が、そういうものでなくなることもあるわけだけれど。そして、逆に、好きだったはずのものが気がついたらただの「いい俳句」にしか思えなくなっていることも、残念ながらあるのだけれど。

僕は「いい俳句」であるとはどういうことかを知らない、と書いたけれど、眼前にある何かが、僕にとって単なる「いい俳句」であるかどうかは、むしろ、よく分かる。すなわち、分けることができる(その意味では、「いい俳句とは何か」という問いは、「存在とは何か」という問いにも似ている気がする。定義できないけれども自明であるものを問うている問い)。眼前のそれが、いい、かも知れなくて、俳句、かも知れなければ、それは「いい俳句」だ。

ここまで書いてきたことは言葉遊びだと思ってもらってかまわない。それでも、もし言葉遊びがくだらないというのなら、きっと結局は言葉なんてまったくくだらないということになるだろうから、本気で言葉遊びをすることも大事なことだと思う。

ところで、「いい人間」と「いい友達」の「いい」の違いから話を広げると、句会で口をついたように「いい句」と言ってしまうときの「いい」は、ときどき、「いい友達」と言うときの「いい」だったりする。文脈にもよるけど「いい句」と「いい俳句」の「いい」は違うことがある。たとえば、僕は小島健さんがアンケートの中で「いい俳句」ではないものとして挙げている「優等生のお手本のような形ばかりの整った「良い句」」のことを「いい句」とはあんまり言わない。考え方は分かるので、これは単純に言葉の使い方の問題。僕はそれを「できている句」とか言ったりする。

僕が「いい句」という言葉を使うときの「いい」のニュアンスは、アンケート回答から選ぶなら、岸本尚毅さんのそれのほうが近いかもしれない。「句を前にして、その句を詠んだ作者に対して何がしかの思い(中略)が自然に湧きおこってくるような句が「いい句」」。ただし、岸本さんは「いい俳句」という言葉の意味を「いい句」と同じに捉えようとしているし、岸本さんの回答だと「作者」が正面から出てきてしまうところには個人的にはちょっとひっかかるところがあるけれど。まあ、これも批判なんかすべきことじゃなくて、結局は単純に言葉の使い方の問題。

さて。ここまでごちゃごちゃ書いてきたのだけれど頼まれているのは特集の感想じゃなくて作品鑑賞だった。どうしてこうなってしまったかというと、クプラスに載っている作品を読んでいたら、「いい俳句」についてもう一度考えなきゃいけない気がしてきたからだ。クプラスの句には、上に書いたような意味での「いい俳句」ではないけれど、でも、個人的な感動の表明として、口をついたようについ「いい」と言ってしまうような、そういう意味での「いい句」が多いように感じられる。



 海に雪いそぎんちやくが見たかつたの 依光陽子

なんて、まさにそう。いそぎんちゃくが見たいというそれだけの理由で雪の舞う海まで来てしまうこの句のことが気になる。それでしかもいまさらのように突然「いそぎんちやくが見たかつたの」とか言い出してしまうこの句のことが気になる。雪の舞う海でいそぎんちゃくがどう生きているのか気になる。この句とは黙ってすれ違ったりできない。

 尾のありしあたりのきしむ雨月かな 杉山久子

も、気になる。音韻はとても整っている。「ノ」「ア」「リ」「シ」が複雑に絡みあって語調を整えているのが分かる。句意も通るし、難しいことは言っていない。でも、景は明瞭じゃない。なんの尾なのか。なにがきしんでいるのか。まさか月が? そこはかとなく不気味な感じがして、どことなく雨月っぽい。

 牡蠣買うて愛なども告げられてゐる 阪西敦子

は、「なども」が肝だ。この「なども」はどうして湧いたんだろう。愛を告げられることの照れくささだろうか。それとも、その告げられた愛はあまり価値のないものだったのか。そもそも愛があまり価値のないもののように思われるのか。案外、告げた側が照れくさがって、愛を瑣末なことのように告げたのかもしれない。

 二十世紀を路上に撒きぬ野口る理 関悦史

は極私的なエピソード。る理さんがある日の集まりにお土産の二十世紀梨を持ってきた道中、それをばらばらと落としてしまった(る理さん談)という出来事があったのだけれど、たぶん、この句はそれを詠んだものだ。「二十世紀」の意味の重層性が面白い。二十世紀もいろんなものが詰まった百年間。それが路上にばら撒かれるという言葉の連想のひろがり。

 ひとさまに剃らるる顔や雲の峰 山田耕司

の「ひとさま」の使い方はすごい。てか、変。いや、だって、普通、床屋さんのことを「ひとさま」とは言わないでしょう。そりゃ、もちろん、床屋さんだって「ひとさま」に含まれるわけだけれども。この句を読むと、他人である床屋さんに顔を剃るという行為を任せられてしまう僕らの心持ちの不思議さみたいなものを再認識させられる。

 テレビ見て帰る何かの実よく降る 佐藤文香

は句会で出会ったのをよく覚えている。家でテレビを見て帰るということが許される関係に題材を見出しているところが面白い。見ていたのは他愛のないバラエティ番組かなにかで、ラフトラックが入ったりしてやたら賑やかで、セットとか衣装とかテロップとかがやけに鮮やかだったせいか、帰り道が暗く、静かに感じられる。「何かの実」が何の実かは、暗くてよく見えない。

 覚えつつ渚の秋を遠くゆく 生駒大祐

は「覚えつつ」という突然の語りだしに惹きつけられる。なんとなく、虚子の〈ふるさとの月の港をよぎるのみ〉を連想させる。海岸線との距離の感じ方が似ている。そこに記憶が関わっていることも似ている。虚子の句は、もう記憶になっている港。生駒さんの句は、いま記憶になろうとしている渚。

 ああ君の額に妙な突起物 谷雄介

の「ああ」の生々しさは真似できない。すごい驚きでも、嘆息でもない、気づきというにはあまりはっきりしていないし、納得というには落としどころの見つかった感じのしないこの「ああ」は、なんだか「ああ」って感じだ。どことなく、この妙な突起物を「君」の一部として捉えるべきか、それとも「君」とは別の異物として捉えるべきなのか迷っているような感じがある。

 灯火親し艶本(ゑほん)の馬鹿のつまびらか 高山れおな

は江戸時代の行灯の火を想像させる。秋の夜長の丑三つ頃に、嬶に隠れてひっそりむっつり春画を眺める旦那衆の図。それ自体、町人の生活を自嘲する趣向の浮世絵なんかが画題にしていそうな気もしなくはない。「つまびらか」が、エロかっこいいならぬ、エロ決まっている感じ。「馬鹿」の字面からはこの文脈だとなんとなく獣姦みたいなものが連想されて、春画の中でもかなりヤバいやつの感じがする。この句も音がいい。「カ」の脚韻とか。

 月の梨こんなに姿かたちかな 上田信治

も句会で見た覚えがあって、でも、こっちは確かそのときには採らなかったような記憶がある。ひょっとすると採ったかもしれないけれど、だとしても「いい俳句」のひとつとして採ったと思う、どうだっけ――というような具合に忘れていた「いい俳句」だったのだけれど、いまこうして見ると、ぜんぜん「いい俳句」ではなく、むしろ、けっこう好きな句だと感じられておどろく。満月をバックに浮き上がる梨のシルエットが、なんだか幻想的な感じだ。

と、ここまで一通り見てきて、「いい俳句」ではなく「いい句」と触れ合うことでなら、僕の句もあたらしくなりつづけることができるんじゃなかろうかという予感がしている。

読者のみなさんはどうだろうか。僕らの句が、批評が、対話が、言葉が、他の誰かに読まれることでその人と結び付き合って、さらにその結果としてあたらしい作品なり対話なりが生まれてくれるなら、それはもう、とてもうれしいことなのだけれど。

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