2014-04-13

特集「ku+」第1号 読み合う 第2特集「番矢と櫂」を読みつつ読む 上田信治

特集「ku+」第1号 読み合う 
第2特集「番矢と櫂」を読みつつ読む

上田信治


「クプラス」創刊号の第2特集は「番矢と櫂」。

夏石番矢と長谷川櫂の時代が「来なかったこと」を事件として検証するという、おせっかいなような、寝た子を起こすような試みです。

記事中の言葉を引きながら、「クプラス」創刊号の句について書いてみます。記事についても、作品についても無責任な紹介になっているおそれがあります。

1.

「俳句を通じて自分を表現したい」という欲望が主流となることで、総合誌の企画もガイドブック的な出版もそちらへと流れてゆくこととなる。「自分を通じて俳句を体現させたい」というタイプのココロザシは、商品流通の枠にはすでに適合しなくなりはじめていた。(……)「俳句を通じて自分を表現する」という大枠のニーズにおいて、「めんどくさそうな」番矢と「非人間的な」櫂はそれとなく避けられてきたのだろうか。(山田耕司「流産した「番矢と櫂の時代」をやっかいな鏡とする」 「ku+」第1号 p.95)

ジャーナリズムの作る大枠が、(A)「自分を通じて俳句を体現させたい」的なココロザシから、(B)「俳句を通じて自分を表現する」という「消費」のニーズへ移行したという、山田さんの状況認識です。

「クプラス」掲載の諸作品が目指すところを、この(A)(B)の構図に寄せて言えば、ただ、言葉をして「俳句を体現させる」ことにある。そして、そのために、そこに従来と違う方法で「俳句を通じて」「自分を通じて」という経路を嚙ませているように思われます。



巻頭作品「柱石」50句中には、言葉に触発されて生まれる感情を、透明な抽出物として取り出すような句群(1)があり、

雨冷や魚のまとへる水の膜 依光陽子
柿の秋どの鳥籠も開けてあり
枯野人かさりと本の帯のやう

一方で、

ほろほろと君泣く数珠玉をあげる 依光陽子
冬の蛾よ我は野面の石であつた
海に雪いそぎんちやくが見たかつたの

のような、やや性急な形で「私」が露頭する句群(2)がある。

ぼんやりと見れば野焼の煙とも 生駒大祐
秋草に窓あり少し開きあり 
は(1)に近く、

風は冬あなたであつた人と会ふ 生駒大祐
は(2)に近い。

月のひかり 家から見える家並みに 佐藤文香
風がゆくビルごとに屋上がある
は(1)。

 愛して た  この駅のコージーコーナー 佐藤文香
は(2)。

(1)が、それぞれの書き手の(あるいは俳句の)従来のフィールドに近く、そこに(2)のような句が入ってくる。そこには、共通する「勝負勘」のようなものがあったのだと思います。


2.

この特集で、なんといっても面白かったのは、長谷川櫂作品についての批判的分析です。

福田若之さんは「長谷川櫂の作品には、そもそもそれを「正統」と呼ぶには非常に奇妙な点がある」(p.97)と指摘します。奇妙な点とは、彼の「文語」が「口語発想の擬似文語」(p.113 座談会の高山発言)であることと、その季語を含む言葉が、現実との対応を欠いていること。

俳諧の国の守りや福笑い 長谷川櫂
俳諧の国。僕には、最新の句集『柏餅』に含まれたこの言葉がリアルの日本を意味するようにはどうしても思われないのだ。この言葉は、文字通り、「俳諧」なるものを建材――あるいは福笑いの目鼻――とした形而上の体系、テクストそのものを指し示している。(福田若之「楽園世界の構築原理 長谷川櫂の一貫性」p.102)

一方で「その実在感の欠如が担保する現在性ならば確かに備わって」(高山れおな「自動富士と右目富士」p.119)いるのが彼の作品だと。



「福笑いの目鼻」のような言葉を使い、なお従来と違う形でリアルである。そのことによって、ぶっちぎりの現在性を獲得しようとする俳句があります。

起床して自然ではない十一月、窓を滑る蜂  福田若之
髭剃りさえもが石炭をがつがつがつがつ喰う
やっていることは昨日と同じだが汗が凍りはじめた

もっと引用したいのですが、ぜひ本誌に当たってください。これらの句には、最終的になにか若之くんと関係があるとしか思えない感情の手ざわりがあり、またロシアアバンギャルドふう意匠によりお洒落ですらある。暗喩になる手前で完結してしまう短さが、見知らぬ懐かしいなにかを取り出している。

石積めば世界ありけり鰯雲 関悦史
    東京五輪決定
一隅が火事の家にてテレビかな

まつしろな果物ばかり盛られけり 谷雄介
よみがへる父と歴代の飼ひ犬と
君生れし日にも株価は上がりけり

このゴツゴツ感。いずれも世界との齟齬、葛藤、抵抗感を、原資に書く、男のコ性の強い作者たちです。それはもう、いっそエロくすらあり、とりわけ谷君の弱り目のポーズに色気を感じました。

陽物出て悲の海照らす朝飯まへ 高山れおな
澄みては消ゆ水のわ印わを重ね
 ※1句目「陽物」に「ファロス」とルビ。2句目「印」に「シ」と送り仮名

齟齬、葛藤というと、ちょっと違うんですが、「福笑い」っぽいといえば、この人。ロンドンで開かれた「春画展」に取材しての連作なので、世界の受容という意味でいえば、うっとりとエロいです。


3.

さっき1.で、従来と違う方法で「俳句を通じて俳句を体現させる」というようなことを書いたとき、今号の山田耕司さんの作品が念頭にありました。

陽炎うて男の臍を見せあうて  山田耕司
ひとさまに剃らるる顔や雲の峰
水澄めり君なら月見うどんだらう

ああ、これも何句でも引用したい……! 

どこをとっても名調子で、俳句が歌っているわけです。そして器の中味といいますか、ふつう俳句の意味内容があるあたりには、性的な暗喩や先行句のもじりなどのナンセンスが収まっている。

ここには、俳句しかありません。それは、空っぽといえば空っぽなのですが、名調子で空っぽを歌うという身ぶりから、哀しみに似たものがにじみ出ている。

「俳句を通じて」俳句を体現させる、というのは言葉遊びですけれど、今どき、ふつうに俳句を書こうとして俳句を書いても、なかなか俳句は現れてくれない。それが、「クプラス」に集った人々の共通認識(あるいは勝負勘)なのかもしれません。

無花果の皮むくやうに息漏るる  杉山久子
シウマイに透けるももいろ春隣

雨すこし重たくなつて烏瓜  阪西敦子
鳥と人分かちて冬の雨が降る

俳句とごくごく円満な関係を築いていると見えるお二人も、とても抽象的なところに踏み込んでいる。

創刊号の作品は、メンバー同士、なにか影響を与えあったようなところが見えて、そういう意味でも興味深かった。



「どうかすると通俗性が古典性と広く錯覚されるまでに、古典から遠く来てしまったのが俳句の現在ではないのか。」(高山・前掲p.119)

 「もとより動機や態度は作品を正当化しない。にもかかわらず作品の側からそれを見極め言語化する力は回復されねばならないし、その回復をもって、「流産した『番矢と櫂の時代』」の供養としたいものである。」(同p.121)

第1特集「いい俳句。」といい第2特集「番矢と櫂」といい、「クプラス」創刊号は、俳句の現在を問い直し、本質的なものに立ち戻ろうという姿勢が明らかだったわけですが、作品においても、それが志向されているように思います。

自分もメンバーではありますが、次号が楽しみです。



1 コメント:

匿名 さんのコメント...

この週刊俳句、「ku+」「群青」の読者70歳女性です。この底深い混沌、丸ごと面白いですね。