2014-04-13

特集「ku+」第1号 読み合う それはいかにして「現代」を呼び出す行為として見いだされたか クプラス「いい俳句。」をめぐって山田耕司

特集「ku+」第1号 読み合う
それはいかにして「現代」を呼び出す行為として見いだされたか 
クプラス「いい俳句。」をめぐって+句鑑賞  

山田耕司



 ——「いい俳句。」とは、現代的ですね。私の世代では「よい俳句」とすることころでしょう。

クプラスをお読みくださった方から、このようなお便りをいただいた。

「隣の部屋に、いい子がいますぜ」と「隣の部屋に、よい子がいますぜ」とはおのずから内容が異なる。

ドアを開けてみると、きちんと座って優良図書などを読んでいそうなのが「よい子」である。どこから見ても誰から見ても「よい」ということだ。

一方、「いい子がいますぜ」というのは、もちかける方ともちかけられる方との〔暗黙の了解〕がモノをいう。場所や、時刻などによってさえ、その指し示す内実は変化することだろう。

「いい子にしてな!」と「よい子にしてな!」は、それほど違わない。おそらくAとBとの2者関係だけでは、「いい」と「よい」の区分はそれほどに明らかにならないのだろう。



この考えに従えば、「いい」とは、互いの共有域を暗黙のものとしてこそ成立する相対的な価値のありようをさすのかもしれない。

おおむね、わたしたちは、どこから見ても誰が見ても「よい」ものに価値を見いだしたがる。何らかのものを作るにせよ消費するにせよ、まちがったり恥をかいたりしたくないからである。

そこに「これがよいものである」と規定する人があらわれる。これを俳句に置き換えた場合、「これさえ入っていれば間違いない言葉」やら「ゆめゆめ使ってはいけない表現」などの禁則指定として普及したり、それを規定する人への帰依として表現されたりもするのであろう。

このことは、かろうじて詩歌の世界を見渡してみても、俳句において顕著なのかもしれない。あえていえば、そうして規定され、かつ、判断基準を外部に委ねたがる傾向の人々が俳句を選択しているということも考えうるだろう。



互いの共有域というものは相対的なものであるし、そうした相対的なものは自らの創作基準としたり鑑賞基準にするには心許ない。

互いがどのような奥行きを持ち表現に向かいあっているのかをはかりつつ、自らの内部をも含めて固定基準への疑義を維持するのは、そりゃもう、疲れるのである。

疲れるので、そんなことはふつうはやりたがらない。社会基準への疑義を抱きながら暮らすのはたいへんだし、不機嫌な顔つきが状態になってしまうのである(人は理論の繁雑さには耐えられても、自らの不機嫌さにはへきえきする傾向があるのではあるまいか/あえて不機嫌を維持することで、社会に抵抗している自分を堪能する場合もあり、つまり不機嫌には需要もあるので一概には括れないのではあるけれど)。

しかしながら、であるからこそ、とらえがたい相対化のなかに通底するなにかを見いだそうとすることには大きな異議があるともいえよう。

ここまでの話になぞらえるならば、「決定版/現代の名句100選」というアーカイブをこしらえるのが「よい」価値の提示である一方、あなたはどのような価値をもって作品の行方を見いだそうとしているのかという問いかけは「いい」価値のなせるところであるともいえよう。

そうやって、自らが依ってたつところそのものを対象としつつ、ゆらぎ、戸惑う行為そのものが、まことに「現代」というところ。

このたびのクプラスの特集は、そうしたゆらぎと戸惑いをそのまま中継しているの観あり。もって、一般的に予想される「決定版/これがイイ句だ!」的な特集と一線を画しているのである。

先述の「よい俳句」と「いい俳句」とのご指摘だが、世代論として考えるのは同意しがたいものの、「現代的」というご指摘には、なるほど!との思い少なからず。



さておき。

客観的な「よい」という価値基準に、おおむね別の角度から対応するとすれば〔贈答〕という線があるだろう。どこから見ても誰から見ても「よい」というものは、ギフトとしては未熟なのである。

(1)贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。

(2)相互信頼の気持ちを実現するかのようにお返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。

(3)モノを媒介にして決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のお土産などは最適である)、あまりに独特すぎて他と比較できないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。  

(中沢新一『愛と経済のロゴス』より)


俳句は言語によって伝えられるのであるから、そして、言語とは共有されてこそ成立するものであるから、それほどに「価値をつけられないほど」「独自」な作品を屹立させようとすると、そりゃ、無理が生じる。

無理、とは、不要という意味ではない。流通しにくさの極北を行くということである(加藤郁乎の作品を連想しながら書いています)。

ともあれ、「よい」という他律の枠を超えようとし、かつ、あいまいさの「いい」を2者関係の中で明確にすることが期待されるのであろうか、俳句には、どうも「贈り物」体裁の作品が少なくない。「挨拶」なんて、もうこれそのものかもしれず。



 ということで、どうやら他に贈られる形式を備えた句を〈クプラス創刊号〉からいくつか散見。



海に雪いそぎんちやくが見たかつたの 依光陽子

「柱石」より。

叙景とであると同時に、莫たる欲望が莫たるままに虚ろに吸い込まれてゆくことの心象ともいえるような「海に雪」。

「いそぎんちゃくが見たかつたの」とは、具体的な台詞でありつつもそれが何かを述べるというよりは「何かを述べないこと」の代償として語られてもいるようである。明確な目的意識を持つ欲望から用心深く距離をとっている。

こんなことを告げてなお継続する間柄との距離のグダグダ感とやすらぎ、それと遠景の「海に雪」との遠近が、ここちよい混沌を生み出している。「海に雪」が、以下の個人的な台詞めくフレーズをいたずらに2者関係の中だけに埋もれないようにしている。

つまり、2者間の贈り物であることに徹することなく、流通への窓口を開いているということもできようか。この「流通に徹する」でもなく「贈り物に徹する」でもない、こうしたあわいこそが、まさしく現代の風景のひとつなのだろう。

そんな銛一本で鯨が待っているのか 福田若之   

「悲しくない大蛇でもない口が苦い」より。

鯨がいるところではこんなことはいわないだろうし、鯨を捕ることを生業にしている人にこんなことを言っても、だから何だということになる。

おおむね、現代において若い人の句は、その若さにおいてということもさることながら、その句の成立が都市的であることを勝手に思い込んでしまう傾向があるのではないだろうか。

それを逆手にとっているからの、一句なのだろう。

この句のリアリティーは「そんな」にあるのではないか。「そんな」という特定性をふりむけられた私が、え?とみずからをそれとなく振り返ろうとするときに、社会的な情報文脈とは一線を画す体験としての俳句に出会えることになるのだろう。

「そんな銛一本で」「鯨が待っているのか」と山田はどうもフタ息で読んでしまう。それなりな俳句的アクが沁みこんでいるからなのだろうか。


(こないだ君に聞いたかなしみと)かささぎ  佐藤文香

「あたらしい音楽をおしえて」より。

古い頭の読者ならば、「かささぎ」とくれば「七夕」である。佐藤文香は、そんなところはわかっていて罠を張る。この古典的な語彙をプールの壁のようにしながら、そのうつろのなかに水をそそぐ。

その水とは詩歌の手垢がついていない贈答としての言葉であろう。〈交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除する〉ことで得られたその柔らかさと、古典の他律性との混ぜ合い。

これは読者への挑発でもあるのだが、これを挑発として受け取るよりは、「へぇ、こんなのでも俳句っていうんだ」という不条理なものを眺めるまなざしに出会うばかりになりかねない。

それでも、こうした挑発をあきらめない作者からの一句は、読者の読者たるところへのズバリとしたメッセージということもできるだろう。



クプラス増刷。

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