2014-06-29

俳句の自然 子規への遡行32 橋本直

俳句の自然 子規への遡行32

橋本 直
初出『若竹』2013年9月号
 (一部改変がある)

≫承前 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31


引き続き「芭蕉雑談」の記述を追う。前回まで、子規の芭蕉句の批判を見てきた。では、芭蕉句の何を評価していたのだろうか。同文「佳句」より引く。
美術文学中尤高尚なる種類に属して、しかも日本文学中尤之を缺ぐ(ママ)者は雄渾豪壮といふ一要素なりとす。(中略)松尾芭蕉は独り此間に在て豪壮の気を蔵め雄渾の筆を揮ひ天地の大観を賦し山水の勝概を叙し以て一世を驚かしたり。(中略)即ち芭蕉の勃興して貞享元禄の間に一旗幟を樹てたるは独り俳諧の面目を一新したるに止まらずして実に万葉以後日本韻文学の面目を一新したるなり。(「芭蕉雑談」引用者注 原文を常用漢字に改めた。また、傍点を省略している。以下引用同じ。)
ここで子規は、まず、芭蕉句の「雄壮」について評価し、それは日本文学の中で長く欠けていた要素であるという。さらに、芭蕉の登場は他のジャンルにも影響を及ぼし、日本の文学に一画期を形成したとする。さらにこの後、「雄壮」は芭蕉以後再び失われたとも述べている。

では、実際にどういう句を「雄壮」とみたのか。子規は以下の十句をあげている。

①夏草やつはものどもの(ママ)夢のあと
②五月雨を集めて早し最上川
③あら海や佐渡に横たふ天の川
④五月雨の雲吹き落せ大井川
⑤郭公大竹原を漏る月夜
⑥かけ橋や命をからむ蔦かつら
⑦塚も動け我泣声は秋の風
⑧秋風や藪も畠も不破の関
⑨猪も共に吹かるゝ野分かな
⑩吹き飛ばす石は浅間の野分かな

これらの句と明治時代に人口に膾炙していた芭蕉の句がどのようであったかとはまったく別の話である。子規はあくまで自分の設定した枠の中でこれらの句の価値を語ろうとしている。以下、細かくみてゆきたい。

①「夏草やつはものどもの(ママ)夢のあと(夏草や兵が夢の跡)」

は、「奥の細道」中の白眉とされる場面での句であり、国語教科書にも必ずといってよいほど掲載されているから説明は無用だろう。子規はこの句について「無造作に詠み出だせる一句一七字の中に千古の興亡を説き人世の栄枯を示し俯仰感慨に堪へざる者あり。」と言う。ここまでは特に目新しいものはないが、その続きが子規独特である。

世人或は此句を以て平淡と為さん。其平淡と見ゆる所即ち此句の大なる所にして人工をはなれ自然に近きが為のみ。

なぜこの句は「平淡」なのであろう。後に子規は俳句のスタイルを二十四種類に分けた「俳句二十四体」(明治二十九年)を説き、「広大体」と「雄壮体」二種の差を説明するにあたり、同じ空間の広がりを示すが、前者はスタティック(静的)であり、後者はダイナミック(動的)である旨を述べており、この句が表向き静的なものとみたためかもしれない。たしかに、過去にダイナミックな戦があった場所であるとは言え、現実に眼前にひろがる実景は「夏草」のみであって何があるわけでもないからである。先の引用の「無造作」とはそのことを言っているだろう。つまりここで「人工」に対置される「自然」は、例えば蕪村の「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」のような歴史想望とは対極の、なにもない自然の様をあるがまま描写しているに近い、ということなのだろう。

しかし、この「平淡」故に「大なる」もので、「人工をはなれ自然に近き」ところこそ、後年の「写生」とこの芭蕉句との接点であるかもしれない。あるいは、不折との出合いを待たずして、子規の「写生」観の核はこの時既に直観されてあったかもしれない、とでも言えばよいか。

くだって明治三十五年の随筆「病牀六尺(四十五)」において、子規は「写生」について説いている。子規の「写生」を説明する場合に、必ず引用される文章である。

写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全たく出来ないといふてもよい位である。(中略)写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけ其れだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、一寸浅薄のやうに見えても、深く味へば味はふ程変化が多く興味が深い。(中略)理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛ひ上らうとして却て池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひは無いのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至つては、其妙実に言ふ可からざるものがある。(六月二十六日 傍線引用者)

ここで傍線部に「平淡」が登場する。説かれるところの「写生」の「平淡の中に至味を寓する」ところが、この頃の子規の写生説にとって至高のレベルと思われ、非常に重要な訳であるが、この文中で言う「理想」を先の文の「人工」に置き換えて考えると、子規が芭蕉「夏草や―」句の評価をする文脈と、ここで「写生」を説く文脈は、よく似てはこないだろうか。

0 comments: