2014-06-29

【八田木枯の一句】青野にてゆめみてゐたり魔法瓶 西原天気

【八田木枯の一句】
青野にてゆめみてゐたり魔法瓶

西原天気


句意と文意とは違うものですが、文意が明瞭な句、センテンスとして読んで何が書いてあるのかがはっきりわかる句は世の中にたくさんあります(だからと言って句意が明瞭とは限らないのですが)。けれども、そればかりが俳句ではなく、いわゆる「なんだかわからないけれども魅了される」という句も数多い。

「わかりにくい句」の存在の背景には、読解のルールが確立されていない(あるいは私が知らないだけ、理解していないだけかもしれませんが)ということがあると考えます。例えば、

青野にてゆめみてゐたり魔法瓶  八田木枯

夢見ているのは誰か? 私は「魔法瓶」と読みますが、そうじゃないんだよという意見もありそうです。

私が受け取ったこの句の構造は、〔魔法瓶(が)青野にてゆめみてゐたり〕の倒置法。ところが別の把握として、〔青野にてゆめみてゐたり/魔法瓶〕。「/」は切れによる断裂です。これだと、夢見ているのは作者あるいは「空白の行為者」(誰とも特定されない夢見る人)。魔法瓶は「取り合わせ」として、そこに置かれる。

語が並ぶ、という俳句の構造は、文意を伝えるには不完全ですが、その際、こうであればこうですよ、という構造上のルールは、あまりない(と私には思えます)。だから、読者はどうするかというと、構造ではなく、その句において「伝わりたいはずの文意・句意」を慮りつつ、その句を読むということになります。痒いところがあれば、読み手自身が手を伸ばすしかない。

ぐだぐだした言い方になりましたが、つまり、句意の「意」とは、意味だけでなく、句の「意図」の「意」でもあったりする(作者の意図とは微妙に異なります)。

「自動車が走る」という散文においては、「自動車のように私は走りたい」という読みが成立しない。文意は確定しているのに対し、少なからぬ俳句が、文の構造による文意の確定を持たない。そういうことです。

さて、そこで(なんという周りくどい前置きだ?)、掲句。

魔法瓶を夢見の行為者として、私は読むわけです。

青野に置かれた魔法瓶が夢見ているのは、みずからの魔法なのか(製品開発者のネーミングの妙。「お湯が冷めないなんて魔法のようじゃないか!」って、今から思うとなんだか牧歌的です)。

夢の内側は、魔法瓶のあの銀色の内部なのか(みずからを映し合いつつけっして外側へとはみ出ていくことがない。これは夢の感触そのもののようでもあります)。

これはピクニックの一場面?



〔句は読み手によって読まれる〕という単純で明白な事実が示すことは、読者の勝手な連想・妄想が許されるということではありません。読者が読みたいように読む、のではなく、句が読まれたがっているように読む。

魔法瓶だけじゃなく、句もまた、夢を見ているのです。

読者の夢がそこにあるのではなく、句が見ている夢がある。

私の読みが、その原則(読み手本位ではなく句本位)に添っているのかどうかははなはだ心許ないにしても、です。



俳句という「不完全な一文」が私たちに伝えるものは、想像=イメージの「契機」であって、想像のすべてではない。

魅力的な句は、読み終えられるのではなく、つねに〔読み始められる〕ために、そこにある。掲句のような句に出会うたびに、そんな気がするのですよ。


掲句は『あらくれし日月の鈔』(1995年)より。


 

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