2014-07-13

俳句に似たもの11 俳句 生駒大祐

俳句に似たもの 11
俳句

生駒大祐

「天為」2013年3月号より転載



友人に「ピーナッツと落花生が同じものだとは到底思えない」という人がいた。その人いわく、ピーナッツは「つぶつぶ、ぴかぴかした、ちょっと洋風を気取ったナッツ」で、落花生は「どろくさい和風の豆類」らしい。同じものだと分かっていても、脳内のイメージがどうしても一致しないのだ。

別の友達で、数字や文字に色のイメージが付随しているという人もいた。「あ」なら赤、「3」はオレンジという風に。言葉というものには必ず意味が付きまとうが、それらの人たちにとって、言葉には意味情報だけでなく、なんらかの抽象的なイメージもおまけで付いてくるようだ。

数学に「一対一対応」という言葉がある。辞書によれば「数学で、集合Mから集合Nへの写像fによって、集合Mの異なる要素に対して集合Nの異なる要素が必ず対応するとき、この写像fを1対1対応である」という意味だが、誰かにとってある一つの言葉と一対一対応するものは何かと考えた時、その答えは意外と難しい。

落花生とピーナッツは物理現象レベルで考えると明らかに一対一対応しているが、友人にとって明らかにそれは偽である。

逆の例として「味」があって、メロン果汁を一切使っていなくても、メロンソーダを飲めば、ああ、メロンだなと感じる。それは言葉でメロンとついているからだけでは、おそらくなくてもっと原始的な風情の話だと思う。言葉と一対一対応するのは脳内にあるぼんやりしたイメージだと答えたくなるが、本当にそれは真なのだろうか。

俳句において、一句の意味がひとつに定まらないので良いor悪いという言説があるが、そもそも意味が一つに定まるということが僕にはにわかに信じられない。俳句の意味なんていうものは読んだときの気分やシチュエーション、バックグラウンドにある情報の有無によって変わるものだと思っているからだ。意味をイメージと言い換えたとしても、抽象度が上がるだけで本質的にそれは変わらない。

一見矛盾しているが、「ある俳句」と一対一対応するものは、「その俳句」を除いたすべての事物の集合ではないかと思う。それは直観的なイメージだし、きちんとは説明できないが、ある素晴らしい俳句の存在価値を説明することは、その俳句が存在しない世界の素晴らしさを説明する行為に等しい。なぜなら、ある俳句の「素晴らしさ」は世界から「素晴らしさ」の可能性を少し奪って、身に着けて、世界に返すことで存在するように思うからだ。

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄

俳句が作られるたびに、世界から新しい俳句の可能性は少しずつ減っていっていると言う人がいた。しかし、俳句はその俳句以外の全ての素晴らしさを更新し、新しいものにしてくれる。

そんな庭中にホースで水を掛けて回るような行為を、僕は目指しているし、これからも続けていこうと思っている。

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