2014-07-06

流れよ我が涙、と曲がった棒は言った。 関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』を読む 小津夜景

【句集を読む】
流れよ我が涙、と曲がった棒は言った。
関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』を読む

小津夜景



はじめに

関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』は、その書名からして、この本の内容をありのままに反映した作品集だ。伊藤隆道の動く彫刻「16本の回転する曲がった棒」の数字を、人類を意図する六十億に入れ替えたこの書名は、ほんの表紙の段階で、人間の像をアナモルフィク(歪曲的)なかたちへと変えてしまう習性がこの作家にあることを暴露している。さっそくここに命題を立てよう  「関悦史は、人間を、何か別のものに歪曲する」。あるいは「変質の論理」。


第一章 変質と人間

この作者は、人間をしばしば「変質」させる。作中には「何かへと歪曲された人間」ないし「もはや人間ではない何か」が頻出し、時に怪物的、また時に知性的なその姿を読者に晒している。

1「マクデブルクの館」

これは本書中、最も安定感のある作品だ。当初から体裁が意識されていた経緯に加え、作者のエンターテイナーとしての挙動に少しの逡巡もないことがおそらくその理由だろう。いかにもと思わせるミステリ系語彙(洋館、黒外套、横死、行方しれず、階段、地下、地図、領地、崖落ち、不思議なるメモ、宴、当主、令嬢、時計塔、仮面、鑑識、探偵、被害者、刑事、バルコニー、密談、院長、屋根裏の白髪、調査、鈍器など)で土台をしっかりと固め、実際の内容についてはSF調のスラップスティック・ホラーを導入、その結果作品の始めから終わりまで、血やら手足やら頭部やら正体不明のブツやらが時空を越えて飛びまくることとなった。加えてメタテクスト的なゲームが随所に織り込まれ、全体としては「あえもの感」と「やけくそ感」が満載のつくりとなっている。

  嘆キツツ崩レ溶ケタル姉ノ快
  藏書ミナカプカプ翼疊ムナリ

こうした光景は「人が形を逸し、物が命と成る」歪曲的な低級唯物論の、まさしく適切なサンプルといえるだろう。一句目はこの作者の句でよく見られる「対象の蝋状化ないし液状化」を扱った句だ。二句目の「カプカプ」は宮澤賢治のクラムボンを思わせるが、このクラムボンなる生き物も「正体不明の何か」の代名詞である点、作家の細かい配慮が感じられる。

ところでこの作品の最大の見せ場は、洋館で起こる怪奇殺人が、ドゥルーズ&アルトー由来とおぼしき「器官なき遺体」という名の「何か」の登場によってすわ解決に向かうのか?といったくだりである。

  器官ナキ遺體ト名乘ル人來タリ
  首モゲテ陶製ノ母鳩ニ喰ハレ
  毀サルルタメノ美童ニ降ル光
  被疑者ドモ名指シアツテハカム遊ビ
  カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者
  名推理ノ如ク次々皿現レ
  皿皿皿皿皿血皿皿皿皿


この部分の展開はこの上なく下らなく、大変に好ましい。殊にスピード感が最高潮に達したクライマックス・シーンを、

  皿皿皿皿皿血皿皿皿皿

といった、新國誠一「血と皿」からの借り刀で立ち回ってみせる作者の余裕ぶりは、まさに達人の業である(それともこれは高橋新吉から思いついた独案なのでしょうか)。しかも本家本元の皿は静的でスマートなのに比べ、関の連作の皿は動的でキッチュ。本当に血の付いた皿がびょんびょん飛んでくるゾンビッシュな光景が読者に見えてしまうのだから、ばかばかしさが半端でない(たぶん血が一つだけ、ちょこん、と混じっているところがキューティー・ホラーな印象を与えるのだろう。これがもし三つも混じっていたら、ただのコンクリート・ポエムである)。このあと話は、

  渦卷イテ館燒ケソム頭ノ内外
  八重咲キノ婦人ヲ名指シ探偵ハ
  「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」
  大團圓 魂紛レミンナ緞帳


という風にまとめられてゆくのだが、一見クセのあるこうした書き方が決してペダンティズムに嵌まることのない俗っぽさを発揮して、作品全体に驚くほどの「腐った生気」を与えている。

2「百人斬首」

「マクデブルクの館」同様、百人一首の本歌取りであるこの作品もSF誌に載ってなんらおかしくない芸風でまとめられている。ただし前者は映像的であるのに対し、こちらはその判読困難な視覚性が実に美術的。また前者にはリアル・ゾンビッシュな「生き生きと死んだ触感」があるのに比べ、こちらは本当に死んだ表象のオン・パレードとでも云おうか、読んでいると、まるでミイラ化した和歌のぶらさがる展示会場を歩かされる気分になる。

内容については冒頭句「龝(アキ)ヤ他ノ假世の井戸ノ底ニカラミ」の「龝」(秋の旧字。本書中ではさらに龜の脚部に灬あり)の字面の物々しさと「他ノ假世」という設定が示すように純然たる裏モノ系(筒井康隆の『裏小倉』を思い出す者も少なくないだろう)で、つまりはこの作品全体が百人の歌人に対する歪曲かつ変質であるといった仕掛けになっている。

  カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜ニ耽ル

本歌は大伴家持「かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける」。関の句は「おく霜の」の部分をオクシモロンに変えただけだが、鵲と撞着語法との組み合わせには驚くほど寓意的、ボルヘス的な感触の良さがあり、また情景も音韻も堂々と決まっている。古典的な品とポップな外観を両立させた佳品。

  Eichmann (あいひまん)ノ後ニシテ物を思ハザリ

本歌は藤原敦忠「逢ひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」。この句には既に高山れおなの適評がある。

「Eichmannはナチスの警察官僚アドルフ・アイヒマンで、絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任を問われ、戦犯として処刑された。彼は、罪の大きさにつり合わない小市民的凡庸さという存在のありようにおいて、現代を代表する人格的類型となった。想像力を麻痺させ、システムに従順に生きる者は誰もが潜在的にアイヒマンであり〈物ヲ思ハ〉ない人なのだ。〈後ニシテ〉のフレーズはまた、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とのアドルノの命題とも結びつく。音と意味のずらし方が軽妙で内容の射程は深い、パロディの傑作」(http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2012-05-31-9104.html

ここに付け加えること何もないので、次の句へ。

  深宇宙ノ漁火(イサリビ)ニ蟹ニホヒケル

本歌は紀貫之「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」。まず本歌の景である「春昼」から「深宇宙」の語を引っぱり出す、といったセンスが極めてこの作者らしい。またこの深宇宙と、本歌の完璧な読みかえである「蟹ニホイケル」との間に、銀河そっくりの「漁火」を配したことで脈絡も通り、大いなる空想風味と、沈思にも似た深い精神性(当然ナンセンスな)を感じさせる句になった。

  虛空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ

本歌は壬生忠見「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」。このようにすんなりとした改変句も存在する。俳句としても正統派。

  アハレ冪乘(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆エハジム

本歌は藤原伊尹「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」。人を恋い、その人を待ちつづけるうちに、いつしか人間ではない「何か」に成り果ててしまうといった古典的な変身潭を詠んだこの句は、そのまま本歌に対する返しにもなっている。異界の時空の有無をいわせぬ暴力性を感じさせる「アハレ冪乗」がとても恐ろしい(あと、少しフランシス・ベーコンっぽい雰囲気も)。

  詩ニ老イユキ龝(アキ)ノ草木モ怪物(べむ)ノ風

本歌は文屋康秀「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」。前の句に続いて怪物ものである。句意は「私は詩を志すうちにこんなにも老いてしまった。ふと見れば秋の野を、得体の知れないベムの香りが風とともに吹き抜けてゆくばかりだ」くらいの感じだろうが、あるいはこの草木さえもベムなのかもしれない(古典と最も相性の良いベムはウェルズのタコ型だろうが、植物型も十分その格を有していよう)。また「詩に老いゆき」は「死、匂いゆき」との掛詞と思われるが、ここで本歌の「しをるれば」から音韻的に遠い「詩に老いゆき」という表現が突然出てくる訳は、関の連想の中で、加藤郁乎「天命は詩に老いてけり秋の暮」と李賀「秋来」とが結びついたからと思われる。

  雨冷香魂弔書客
  (冷たい雨。亡き詩人の香しき魂が、私を弔う)
  秋墳鬼唱鮑家詩
  (秋の墓原。亡霊たちが、葬送の詩を唱う)

こうして見ると、この句のベムもまた歪曲された人間であろうことが容易に想像されよう。「死んだ詩人らが、いまだ詩を志す私を回向する」という李賀ならではの妖気的光景が、関悦史の手にかかるとおなじみの低級唯物論(もっとも調べは大変高級だが)へと変質してしまうのだ。

ところで、バタイユは変質(alternance)という語が、そのラテン語の語幹 alter の意味するところによって、退化と進化といった相反する意味をもつことを述べ、またそこから変質とは、古来より怪物性と神聖性との双頭から成る概念であると考えた。しかし関のおこなう変質には神聖性  連続的破壊というサディスティックな欲望によって達成される恍惚状態  は現れず、その意識はただ「この〈私〉の人間性を解体する潜在的な世界が存在する」という感触のみへと不安定に開かれている。その具体例を次に見てみよう。

3「発熱」

この作品は、作者の得意技であるメタフィクショナルな即興性を、発熱という一種の譫妄状態を設定することで解放した作品である。内容はここでも脱人間中心主義的ないしSF系モチーフ(宇宙、ベム、変身、憑依、不条理世界)が最も多い。それ以外は「鮪より電話来たりて家を棄つ」など言葉遊びの句が目につく。

  わが口を用ゐて誰か二月と言ふ
  うすらひやさはられてゐるうらおもて
  鯉幟に呑まれて何か失へる
  烏瓜意識不明の旅をして


上の句群のような「何かへと歪曲された人間」ないし「もはや人間ではない何か」を眺めた時、そこにバタイユの言う神聖性やら恍惚やらを認める読者はそういないだろう。実際、作者のおこなう変質は(いかに彼が「何かへと歪曲された人間」や「もはや人間ではない何か」の世界に親しみを感じていようとも)自己のエクスタシーのための作業ではない。また作者を囲いこむ空間とは〈私〉を無前提に庇護するものではなく、むしろ〈私〉の在り方を変容させかねない有象無象の力の束であり、さらに〈私〉との間に潜在的な抗争関係さえ持つことがあるようだ。

  春の風受肉は灰を嘗めながら
  手鞠花眼球五つみな閉ぢて
  地球流す便器より蟇歩みさる
  幻影の都市からまりぬ心太
  独身九人集ひて桃の世へ烟る
  掛布団てふ知性なき生き物よ


ここでは作者をとりまく空間が、決して単に受容的な人間の揺りかごではなく、別のトポスと繋がった「何か」の割拠する場であることが示唆されている  と書くと、まるでこの作品がさも難解ぶっているようだが決してそうはならない。先に述べたように「発熱」のよりどころは「うわごと」であり、それも異空間についての妄話ばかりなのだから、いかんせん難解になりようがなく、むしろ傍目にはふざけて見えるくらいだろう。最初の四句では、作者をとりかこむ環境が彼の与り知らない多次元へと開かれる種々のパターンが確認できる。五句目の独身九人が集う景は、ヴェルヌの無妻者十一人組が想定された光景だろうか。最後の句はそのまま読んでもとぼけた味があるが、作者が「この布団には知性がない。故に無生物である」とは思わずに、正体不明の「生き物よ」と詠嘆するさまがひそかに壮絶である。


第二章 変質と空間

以上は『六十億本の回転する曲がつた棒』における生活感覚のない作品ばかりを扱った。さてここからは日常風景の片鱗を含む作品をみてゆきたい。そうした句において、作者の「変質感覚」や「空間との関係」はどのような形をとるのだろうか。

4「襞」

冷戦終焉を経て新しい帝国の構図が組織され、社会をとりまくイデオロギーの様相が変化したかのように見える状況下、作者がみずからの日常を詠んだのがこの作品である。作風はこれまでに確認した脱人間中心主義的な句、言葉遊びの句の他は人名句が目を引くが、それらの名前が他なるものへの変質へと通じている点はこれまで通りのパターンだ。

  口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
  虚子の忌の喋る稲畑汀子かな
(これは進化系変質か?) 
  鏡には映り阿部完市話す
  カフカかの虫の遊びをせむといふ
  平井太郎が遠藤平吉土蔵に蚊


こうした句群にまじり、日常や社会を詠んだ下のような句が見られる。
  
  蚯蚓鳴く千代田区千代田一番地
  月面になびいて旗の愚かさよ
  核の傘ふれあふ下の裸かな
  監視カメラにみられていつぽんしめぢ伸ぶ
  帝国なすこゑなきこゑや福笑


「千代田区千代田一番地」「月面の旗」「核の傘」といった冷戦に近しい語。「監視カメラ」といった反規律型=情報管理社会を象徴する語。そしてネグリの語る新植民地主義としての「帝国」。一見こうした句群は、今まで見てきた作品とずいぶん趣向を異にするようにも見える。しかし先に述べたように、この作者と空間との構図が「この〈私〉と〈私〉を変容=解体しかねない有象無象の力との抗争関係」にあったことを思い出せば、個人と社会との相克を扱う掲句はそれほど奇異ではなく、また実際よく見ると、掲句の「景の切り取られ方」が既述のSFの系譜にあることもわかる。「蚯蚓鳴く千代田区千代田一番地」からはギブスンの「千葉市憂愁(チバ・シティ・ブルーズ)」の哀愁がありありと感じとれるし「監視カメラにみられていつぽんしめぢ伸ぶ」はディックじみた、電脳監視空間の周縁にふるえる弱者の姿を思い起こさせる。「月面になびいて旗の愚かさよ」にはスペクタクル国家への正面切った怒りが呆れてしまうほど丸見えで「核の傘ふれあふ下の裸かな」では怪物化した科学と偽の倫理との下を生かされる人間の不安が鮮明だ。「帝国なすこゑなきこゑや福笑」では「福笑」の語が、世界に張り巡らされている目に見えない力のさらに上に君臨する超越者、さながら「宇宙精神」とも言うべき異様な存在感を発揮している。そして、

  死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス

といった句では、廃墟空間に倒れたゴミ同然の生き物と、コンピュータ演算の世界(これも「宇宙精神」の比喩だろう)を表象するクセナキスとの相克に、読者は文字通り人間/権力をめぐる関悦史のサイバーパンクな感性を見ることができるだろう。『襞』にはこうした例が他にも溢れている。またさらに、この〈私〉と〈私〉をとりかこむ空間との相克は、以下の流れにおいて鮮明な結晶化を果たす。

      WTCビル崩落
  かの《至高》見てゐしときの虫の声
  多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天
  オドラテクととほき戦火に聞き澄むや
  人類に空爆のある雑煮かな
  プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ
  ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ
  注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず


かの《至高》見てゐしときの虫の声」は《至高》の目撃者たる〈私〉に、啓示のごとき虫の声が聞かれつづける光景である。この《至高》は、アメリカ或いはイスラムのイデオロギーによって引き起こされた力の惨劇を示しているのみでなく、おそらくは至高存在、特にカバラ的文脈でいう無限性=空無性の意味が込められていよう。こうした感覚は「プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ」でも反復される。すなわち前者では、無限と空無を同時に見てしまった〈私〉が幻聴に囚われるのに対し、後者では、全知という空虚に達した〈私〉がついに狂気の笑いに溺れるのだ。

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天」においては、初期のデリダがフロイトを援用し、根源的(無意識的)エクリチュールが引っ掻き傷であると述べたことを借景に、まず「死苦の引掻傷」と「詩句のエクリチュール」とが掛けられ、その上でこれらの痕が夏の澄んだ空に見える、と書かれている。しかしながら傷とはただの痕跡なので、解読することができない。別の句で「注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず」とほのめかされるごとく〈私〉は決してその意味を知ることができない。

オドラテクととほき戦火に聞き澄むや
」では〈私〉がオドラテクなる「何か」と共に戦火を無心の境地で聞いている。このふしぎな「アレゴリーでもシンボルでもなく、物自体がカフカの思惟を通じて顕現したような生き物」(澁澤龍彦)と共にいるせいで〈私〉の精神の在り方までが物自体の域に達しているようだ。またこの光景の一方に「ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ」の句。城が未完であれというのは、理念を完成させてはならないという命令だろう。そして「ネット社会をも閉じ込めて」という以上、城は「現象としてのカオスを、世界の内側に奪いとって在れ」ということだから、つまりこの句は「タブララサのごとき、無心の境地の世界」の反対を意味しているらしい。

そしてこれらの中心に配されたのが「人類に空爆のある雑煮かな」である。この句はどう読まれるべきか? それは「空爆を繰り返す人類と平和に雑煮を食する私とを並べ、映画じみた人類の危機と平凡な日常が屈託なく同居している『リアル』を描いてみせた」(青木亮人)という要約以外の読み方である〔注1。なぜかというと、その理解では7句全体を凝視したとき「空爆句」のみ毛色が完全に違ってしまい、わざわざここに挿入されている意図がまるきり不明になるからだ。

この一連の流れには、関悦史の「変質感覚」および「空間との関係」がかなり極致的に集約されている。まず、すでに上で確認したように、前半の三句と後半の三句はゆるやかに呼応しており、前半では日常風景に「研ぎすまされた音」や「物自体さながらの何か」や「裂傷のような字」の顕現するさまが示され、後半ではその顕現に対する〈私〉の反応が描かれる。その上で、これらに挟まれた「人類に空爆のある雑煮かな」を見て私が直観するのは、作者は句の配列を考えているとき「雑煮」を「空爆」の対局物としてではなく、連鎖物として捉えていたに違いない、ということだ。

その根拠は、雑煮の具材である「餅」が《陰惨たる変質の隠喩》として作者に愛されている語だという点にある。本書にはそのほか「レンジの餅ら伸び来て綾波レイの声」「餅の事故や無人爆撃機や孤死待つ」「鏡餅は人撲ち終へし天女のさま」「銀河と銀河の衝突思ふ餅雑炊」「鏡餅と蜜柑投げあふわが遺骨」という5つの餅の句が見られるが、そのすべてが平凡な日常どころか、破損・破滅・惨死の連想を含んでおり、作者の変質嗜好において、もともと餅は歪曲的・低級唯物論的な「何か」と親しいことは間違いないだろう。そこから推測すれば、作者自身「雑煮」の語が「空爆」に対し《日常というオチ》ではなく《惨死というネジレ》として機能することを当然知っていた、と考えるのはごく自然であり、またこのように読む事でしか、上掲の生々しく予言的な流れにこの句が挿入されたことの説明がつかない。要するに、この句は他と同様「死と狂気を秘めた寓意の句」であって、常識内での絶妙な落とし所を云い果せたキャッチコピーではないのである。

さて話はもどって、この7句から読みとれるのは以下のことだ。(1)作中主体は現実界(ありのままの世界)の兆しに遭遇するたび象徴界(言語活動)へと分け入り、記号の力を借りてそれを意味/秩序づけしようとする。(2)ところが作中主体の象徴界の働きはつねに度を超しており「研ぎすまされた音」「物自体さながらの何か」「裂傷のような字」「惨死のような餅」「何から何までを知る」「注意しても注意しても読めない」といった狂気にさらされる。(3)だがそもそも現実界(ありのままの世界)とは象徴界(言語活動)に収まりなどつかない「解読不可能」なものであった。(5)そうして、実は現実界(ありのままの世界)を掴むとは、無心の境地で世界と対面することではなく、むしろ想像界(思い込みの世界)から混沌や不透明を排除せずいかに世界を未完に保つか、にかかっている。

この一連の流れで〈私〉が経験する、白日夢のような金属音や裂傷記号は「零度の象徴界」であり「シニフィエ(意味)を激しく求めすぎて、それをあらかじめ殺してしまっているシニフィアン(記号)」のありさまである。意味をつかもうとする〈私〉の過剰な欲望と、そのつど逆説的に行きつく読むことと聞くことの不可能性は、メビウスの帯のように終わりがない。にもかかわらず〈私〉は象徴界(言語活動=超自我)を駆動させる。そして、その欲望が鮮烈な現実界(ありのままの世界=エス)に向かうときは狂気となり、また日常の想像界(思い込みの世界=自我)にかろうじて収まりうるときは、くにゃり、と「何かへと歪曲された人間」あるいは「もはや人間ではない何か」を産出する。而して、このような場には「セカイ系の感性や暴力との親和性」といった見方は介入する余地がないのである〔注2〕

5「ゴルディアスの結び目」

この作品では「偽の日常」を解体する手段としてのメタフィクションが大変に活きている。その分認識の異化がさりげなく決まった句も多い。とはいえ「それならナチュラルな作品なのか?」というと毎度ながら全然そんなことはなく、度肝を抜くようなべらぼう句(褒めています)があったりする。ということで「さりげない異化句」と「べらぼう句」を、それぞれ四句ずつ引く。

  メルルーサの笑ふ市場をふと見たり
  フラクタルとは無数に如来蘖ゆる
  小UFOが家通り抜け春と思ふ
  市役所を千年迷ふ緑かな

  ぶらんこは海底歩くかたちかな
  シュレディンガー音頭は夏を「ΨにΦ」(プサイにファイ)
  小惑星ぶつからば地球花火かな
  準星(クエーサー)にタカアシガニの脱皮かな


6「歴史」

これには四つの時間が収められている。(1)エジプトという、かつて第三世界と呼ばれた場所での革命の成就……最新版「世界の終わり」(2)YMOのアルバム……多文化主義・混成主体の流行した1980年代。(3)わが遺骨……超時間。(4)実生活における死の予兆……潜在的時間。とくに注目したいのは(3)の超時間と(4)の潜在的時間だ。
 
  生きてゐる春日の吾も遺骨かな
  恋猫に懐かれ倒るわが遺骨
  梅雨のホールにワーグナー聴くわが遺骨
  白菊をばくばく食ふや我が遺骨
  わが遺骨枯葉の飛騨に遊ぶかな


超時間とはかくも愉しく、あかるく、さみしいものなのかと思わせる句群である。作者が目をやるすべての場所に「わが遺骨」が「何か」さながらちょこんと顔を出すこの景色は、おそらくこのような遍在世界()なのだろう。そして作者は、以下の潜在的な死の時間にもまた同時に棲息している。 

  年越そばふとコロッケも乗りたがる
  とんかつ頑として蕎麦にひたるや葱引き連れ
  フィギュアの如くきしめんは垂れ冬景色
  レンジの餅ら伸び来て綾波レイのこゑ

  生命(ゾーエー)も収容所なり月出づる
  ゲーデル餓死カントール狂死冬銀河
  蜜柑からノックの音がしてをりぬ
  死兎抱きをるボイスの写真読初に


前半の四句はこれまで見てきた変質のパターン。コロッケやとんかつが「何か」と化して、作者の傍によりそう様子は少々痛ましい。きしめんの垂れと餅の伸びとはそのまま日常に潜在する死であろう。後半はこの作品末尾の四句で、人間の解体をめぐるディストピア的ヴィジョンだ。この中からひとつだけ語るとすれば、最後の「死兎抱きをるボイスの写真読初に」だろうか。ヨーゼフ・ボイスは自らを「私は人間などではない。私はウサギなのだ」と語った美術家だが、この句ではそんな彼が「死兎」を抱いているという強烈なアイロニーが示されている。そしてさらに、自己の死の表象を抱くヨーゼフ・ボイスとその表象を「読む」という作者との、とても静かな対峙。おそらく作者は「解体された、もはや人間ではない何か」の抱く「ありのままの死苦/読むことのできない詩句」にそっと触れているのだろう。


第三章 ふたつの廃墟

7「日本景」

これは平成の地方都市の光景を、バブルの夢の跡としての昭和的残骸にからめると共に、廃墟性や白昼夢などとも交差させた作品である。この作品においても、作者の日常における不条理感覚と、日常の超虚構化作業は健在なようだ。

ところでこの「日本景」なるタイトルは大竹伸朗の著書からの借用らしい。関本人の「あとがき」によれば、このタイトルは大竹のそれと直接的関係をもたないようだが、本人の意図とは別に、両者のあいだには図式化に好都合な対照がみられる。ここではこの事実に注目して、両者の比較から明るみに出ることをみてみたい。

  女子五人根性焼きの手に氷菓
  美少女キャラの嗚呼上すぎる口の位置
  縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺
  ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足
  京都・紅葉・殺人・岬・日本海
  『エロトピア』『東スポ』の散る枯野かな
  初参賀あゝうるはしき板ガラス
   野々村文宏・中森明夫・田口賢司『週刊本28卒業』
  「ヘーゲル大好き松本伊代」と『卒業』に


まずこの作品の残骸性(ジャンク性)は大竹のそれとは全く異なる手法から成っている。関の描く「ジャンクな日本」には、アイロニーやユーモアによる異化(象徴界による想像界の相対化)を経たあとの脱力があり、またその結果「デッドストックとしての昭和」がきわめて濃厚な無意味として平成によみがえる(というとまたゾンビみたいだが)といった仕掛けになっているが、ここにみられる広義の脱構築批評は、椹木野衣風にまとめれば「引用・コピー・パロディ」の技法に基づくものである。たとえば、80年代大衆消費をめぐる「文化革命」やニューアカと呼ばれる「知的カーニバル」を知る世代で、当時のおのれを省みることなしに「ヘーゲル大好き松本伊代」の句を面白がれる者がいるとは(少なくとも私には)ちょっと想像できないのだが、関の「日本景」にはそうした自己を目撃する居心地の悪さ、より厳密に言えば「自我を査定する超自我の働き」がつねに強烈につきまとっているのだ(初参賀の句の「あゝ」などはもう無手勝流の域である)。そしてこのことは本家本元の大竹伸朗「日本景」が(関悦史の「引用・コピー・パロディ」の奥行感とは好対照の)「サンプリング・カットアップ・リミックス」に由来する平面性から成立することや、その作品に茶化し、洒落のめし、混ぜ返しがないことや、超自我とは無縁の融和的な世界を指向している(大竹には日比野克彦などと一括りにされていた80年代から、ビート・ジェネレーション的なユートピア嗜好が見られる)ことやらと、きわめてすっきりとした差異をなしている。

  夏うぐひす廃墟の便器かはきたる
  昨日ここはセブンイレブン秋茜
  空店舗葛の向かうの塵積む床
  デパート跡のフェンスの中の虫の声
  旧家壊され秋刀魚の腸の如くなる
  AV の自販機ほかは冬の闇
  スクラップ積まれ冷たき夜の産土

  牛久のスーパー CG ほどの美少女歩み来しかも白服
  夏嶺分けて何も通らぬ道路美し
  蝉声無し四〇度越す白昼は
  覚醒剤の如くに白き暑さかな
  鑞製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ


また大竹の「日本景」が、ジャンクを扱いながらもその累積をユートピアへと発展させてゆく幸福に貫かれているのに対し、関のジャンクはその瞬間のみ生起しそのあとの累積がない反=記憶(通常の時空感覚がエポケーされた場)において現前していることも興味ぶかい。たとえば、作者が好む掲句上段のような廃墟風味、また下段のような白昼夢めく風景で描かれているものは、万人に共有されるであろう集合的無意識ではなく、作者がそのつど目を向ける場所になぜかあらわれるひび割れであり、より端的に言えば異界の入り口だ(あえて超専断的に、廃墟句にはどれも本当は「わが遺骨」という語が句の末尾にあったのだが字数の関係で省略され、また白昼夢句はその超現実的な景自体が「何か」を表象=代理している、と言ってみても構わない)。つまり掲句のような風景によって意図されているのは、集団的記憶の再我有でも、物語の主人公であるかのようなサバービア・リアリティでもなく、日常における異世界性の確認だということである。想像界のひび割れから顔を出す、異界に通じる「何か」を追いかける作者の姿が、この「日本景」においても明瞭だとするこうした見方は、これまで見てきた作品との比較において無理のないことのように思われる。

8「うるはしき日々」

これは作者の震災体験を書いた作品らしい。導入と結末に明瞭な構成意識が感じられるため、この書評では三部構成としてみてみたい。

  供儀となるこの地に万の寒鴉のこゑ
  春の土にドガガガガガと云はれけり
  烈震の梅の木摑みともに躍る
  よその布団にそよの闇ごと揺れ轟く
  春星幽か大渋滞はどこへ向かふ
  信号灯らぬ大暗黒へ放尿す
  家壊しつ春三日月の上がりくる
  瓦失せし所が黒し春の月


この導入は小説のように整理されており、しっかりとした映像展開がある。まずはじめが「天を埋める万の鴉声」。その余韻に浸る間もなく次の「地を割る轟音」。そして梅の木やよその布団やよその闇と「躍り轟く私」。こうした天地人の景が揃ったあと、すぐさま状況は見えるものと見えないものとが擦れあう不安定性流体のように闇の中を動きだす。「大渋滞」「放尿」「瓦の黒穴」の語に印象づけられるハードな廃墟感覚。場面転回は細やかだが、各句の景は大づかみで力強い。確かに何かが起こっている、しかし誰もそれが何なのか分からないままそれに巻き込まれている、という種類の混乱が、その場にいあわせた者の視線から、悲しみや怒りといったスペクタクルな自我抜きでここには色濃く描かれている。

  停電なれば井戸水も出ぬ揚雲雀
  現金封筒その他つかみ出す春の掘り炬燵
  日本を潰し日本に汚れ春の海
  福島の子供の習字「げんし力」
  段ボールからマスクや魚肉ソーセージや
  救援物資の箱らに自死を禁じらる 
  激震中ラジオが「明日は暖か」と
  永き日の家のかけらを掃きにけり
  「母子手帳持参の方、水お頒けします」


中盤前半は描写が急にリーダブルとなり、生活の困窮の様子や原子力発電についての句がつづくが、この部分の句の判読可能ぶりは目をみはるものがある。とはいえ意味作用の蒸留過程を必要とせず、奥行きも味わいもないこうした日常描写は、不条理なる状況をより際だたせるのに不可欠な要素であり、実際「破滅の中の日常をどう描くか」という課題はディザスター作品が迫真性をもつための最重要項目だ。別に非礼なことを書こうというのでない。作者の心が「揺れて」いないこと、すなわち普段とは比較にならないくらい読みやすい表現をとることで、混乱のさまを正しく反詩的に書きつけた作者の、非現実を捉える目の「まともさ」を強調したいのである。

作者は目の前で起こっていることの拙劣さから目をそらすために「詩的カタルシス」や「己の感情のスペクタクル化」へ向かおうとはしなかった。そのかわり彼は「読むに耐えない(illisible)日常」を、とても読みやすい言葉で書いたのである。もちろん彼にとって本来的な詩とは「読むことのできない(illisible)傷」だ。しかしながらそれは「根源的な詩は、微温な解釈学的暴力などはなから寄せつけぬ、日常とは完全異質の言語である」という意味であり、したがってこの場合は逆説的に考えて「読みうる俳句」を書く以外、読者の期待(解釈学的暴力)をかわす案はなかっただろう。なんといっても、運命と主体とを相対させつつ震災を詠めば、震災句は一瞬で素朴でありふれた疎外論的文脈〔注3〕に陥ってしまうのだから。疎外論は、雑念不純の排され澄み切った自我の世界を人に語らせる。しかし「現実界(ありのままの世界)を掴むとは、無心の境地で世界と対面することではなく、むしろ想像界(思い込みの世界)から混沌や不透明を排除せず、いかに世界を未完に保つか、にかかっている」と考える作者にとって、そのような澄み切った観念はある種の危うさとして映るに違いない。

中盤後半は回復に向かわなければならない日常とその困難さとが、比較的落ち着きをとりもどしたかに見える筆致で書かれ「白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな」「春の日や泥からフィギュア出て無傷」「セシウムもその辺にある花見かな」「テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ」といった、この作者の通常に見られるタイプの句も多くなる。そして結末は、文明への問いかけを秘めつつ次のように書かれる。

  十年毎の原発爆ぜる祭かな
  高速増殖炉もんじゅが「こわくない」といふ夏寒
  原子炉を美しく画き床の間に
  プルトニウムと夏空飛ばん塵の吾
  縦横に罅入る家やなめくぢり
  足尾・水俣・福島に山滴れる
  人住みし地は臓腑あり雲の嶺 
  生きて疲れて遺伝子狂ひゆく万緑
  出日本記書かるることなし立葵
  残像のわれが飯買ふ西日かな
  人間は灰作りけり烏瓜


震災後の世界を生きる作者の筆致は、強い感情をあらわさないだけによけい重々しい。またここには日常に遍在する「何か」の影はもはや見られない。そのかわり作者自身が〈私〉であることをやめ「もはや人間ではない何か」として生きはじめたさまがうっすらと暗示されてこの作品は終わる。最後の句で示されるのは深遠なディストピアではない。わたしたちの日常において時に露わになる、ただの拙劣な「読むに耐えない」現実だ。


おわりに

以上、とてつもなく端折りつつ『六十億本の回転する曲がつた棒』の全容を追ってみた。

『六十億本の回転する曲がつた棒』はその全体を通して「歪曲、変質」という時に親和的、時に抗争的な世界との関係を〈私〉との間につくりあげる手法に支えられた句集だった。この手法は、もうひとつの現実から世界を見ることや、またそれによってわれわれの現実がひとつの修辞学から成るにすぎない事実を露見させることなどに適しており、かつ「超越論的な場においては『人間中心主義』を疑う句を書き、経験的な場においては『人間の抑圧』に抗う句を書く」といった関の作風の二面性をすんなり説明しうるものでもあった。さらに「歪曲、変質」の折ごとに生じる「何か」とは、日常のひび割れからその姿をあらわす「現実界=エス」であり、言うなればそれは(ここまでくると書かずもがなかも知れないが)関悦史と日々生活を共にする「オリビア」のような存在でもある。

あと、今回796句を通して読んでみて、関悦史という作家の原風景は何をおいてもSF第一世代の作家たち、とりわけ筒井康隆、小松左京、眉村卓の三者に集約されるという強い印象をもった。筒井の仏国ユーヴォー・ロマン、北米メタ・フィクション、南米マジック・リアリズムをふまえた諸作品は、おのずから関の認識的異化作用を求める基本的態度となり、小松の主体の問題と管理への抵抗という政治的主題はサイバーパンク等を中心とした社会派ロマン——このロマンにドゥルーズ=ガタリを含めても一向に構わない——へとおそらく発展した。そして眉村の日常を基盤とした不条理、異世界、崩壊感、断片性、寂寥感、ベムなどの「何か」に対する友のような親しみ、といったものは、関のきわめて思弁的な性質を涵養したのに違いない。殊に眉村卓については、博覧強記で知られる関悦史ではあるが、彼の帰る場所はここ以外にないというほどの影響を——彼が「オリビア」という友と暮らす理由にすら——認めずにはいられなかった。

さて最後に、この書評で一切触れなかった「介護」についてである。作者の実体験(祖母の介護と看取り)を書いたこの作品には別の文脈で思う所があったため、別稿を立てることにした。とはいえ一言も触れないのも奇妙なので、ひとつだけ好きな句をあげておきたい。

  世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ

最初読んだときは好きになれなかった句である。たぶん老人を枯木に置きかえてしまう安易さに、批評を拒絶するたぐいのロマン主義を感じたのだろう。ちなみにこの祖母は、掲句の次の場面では死の姿となっている。作品全体から作者の悲しみが切々と伝わってくるだけに、この「枯木」という表現には気づかなかったことにしよう、とその時の私は思った。

しかし今回、書評のために全句を読み返した折、私はこの句の「ア・リ・ガ・タ・ウ」という書き方にふたたび目を止めることとなった。そして今度は前回と違い、少し我に返ったような心持ちで、一体SF史において、何人のエイリアンがこの台詞をつぶやきながら地球の友の前を去っていったことだろう、と考えた。

おそらく「枯木」は祖母のシンボルではない。関悦史は本質的にシンボルではなくアレゴリーの作家であり、また彼の主たる方法である超虚構とは、日常の準拠枠となる感性の図式を言語によって脱構築することで、作家の個人的な体験を字義的に(絶えず、別の、何か、の姿をとりながら)現前させるものなのだ。

かくしてシンボルは解体された。このとき作者の見たものはまぎれもなく本物の枯木だったに違いない。さらにこの枯木とは、作者とこの世界での時間を共にした「何か」であり、かつ消えんとする今「ア・リ・ガ・タ・ウ」という片言の人語を発するのみとなった、作者の「時空を越えた友」でもあるのだ。おそらく作者は、祖母との別れの際、彼女がこれからも「別の、何か」で在りつづけることを願い、その肉体を歪曲、変質させたのだろう。そして彼女の存在する次元をこの世界の外部へと一気に押し拡げたのだろう。あるいはこうした考え方は、ねぼけた話に聞こえるかもしれない。だが私は本気でそう思っている。なぜなら関悦史の俳句とは、彼自身気づいていないかもしれない〈人間〉への渇望、流れる涙をもつ者であることの証明を、「この世界の異界性」を描くことによって逆説的に希求するのみならず「歪んだ、だが時空を超えうる生命」を描くことによっても希求する性質のものだからだ。

〈了〉



〔注1〕この句を単独で読めば、当然「スペクタクルとある日常」を詠んだ句としてまず理解されるだろう。ただし私はこの場合も「空爆/雑煮」という「非日常/日常」の表象を対立的なものだとはみなさず、日常もまたスペクタクル化された仮想的コンテンツにすぎない、と読みたい。

ドゥボールによれば、スペクタクルとは、生が具体的に転倒した形であらわれる非‐生者の自律的運動であり、したがってそれは人間の生をわれわれに代わって代理=表象=再現する、アンチ・ニューマニズムの終わらないヴィジョンである「スペクタクルとは、現実世界の補足でもその上からかぶせた装飾でもない。それは現実社会の非現実性の核なのだ」(ドゥボール)。このような社会では、圧倒的な「視覚優位主義」と「解読可能なものの支配」によってわれわれの表象空間が埋め尽くされ、戦争のみならず日常の風景までが——いや日常の表象空間こそがまっさきに——植民地化される。そしてそのようなわれわれの仮想的生活空間をあらわしたのがこの句である、という風に私は見ている。

〔注2〕青木の主張である「関悦史とセカイ系との親和性」にはさまざまの問題点がある。青木はその著書『その眼、俳人につき』(邑書林)において、セカイ系の定義を「主人公と数人の友人関係からなる狭く平凡な日常に『世界の危機』が直結し、経緯も理由も曖昧なまま登場人物が巻き込まれるパターンが多い」とする。そして、

①人類に戦争のある=世界の危機・破滅の予兆/または希求
②雑煮かな=日常(①へ飛躍する契機を孕む日常の断片)

とまず整理する。その後、関の作品にはセカイ系に合致する以外に、結果的に『はるかな暴力』(=①)を希求する要素があるとして、

  蚯蚓ゐる近くにフライドチキンの骨

を挙げ、この「作品は『暴力』の予兆を招きよせることでむしろ『私』の安寧を確認していること、それゆえ『暴力=リアル』がはるかなる予感にとどまり、こちらに『到来しえないもの』として到来することになり、それが『私』の充足した空虚感を醸造する」と論を展開し、最終的にはこの句集の特色へとその論旨(充足した空虚)を敷衍する。しかしこれは何重もの誤読である。

1点目。青木によるセカイ系の説明は、分析のパラメータとしては不十分で、特に象徴界の欠如に触れていない点が致命的である(このパラメータを欠くと、セカイ系に合致する作品が飽和状態となり、データとして使えない)。セカイ系とは、私の(悪)夢が社会の文脈を透過することなく世界史として展開されるといった作品群を指し、より厳密には、主人公が想像界と現実界との間をつなぐ中間項である象徴界(言語・社会・法といった記号領域)を無視したまま世界(の危機)に立ち向かう、といった物語展開を意味する。

2点目。しかしながら、関の俳句が象徴界を無視するどころかそれとの執拗な戯れから成ることは、この句に限らず句集全体の特徴であり、かつ最重要項目である。空爆句についてはさしあたり(1)対立《人類に空爆があり/日常に雑煮がある》(2)同質《空爆=スペクタクル=雑煮》(3)変質《人類に、空爆の在る(潜在する)雑煮がある》という三つの図式解釈が可能だが、このようにゆるぎない「読むことのアレゴリー」が成立する訳は、この句の《人類に空爆のある雑煮》といった措辞に、みずからの意味を脱構築する作用があらかじめ伏在しているためである。

3点目。また関の戯れは、最もありふれた手法としては超虚構として顕現するが、この超虚構理論は、社会のスペクタクル性や疑似イベント性が取りざたされるようになった社会状況と連動して勃興したものであり、関の感性もそうした政治性を背景に受け継いでいる。関の変質志向は「この世界を別の世界から見ること」が根底におかれ、いわゆる虚構性の強い句のみならず日常風景を詠んだ句にまで敷衍されるが、その際社会問題に対する関の視線には、空爆にせよ、地震にせよ、原子力にせよ、管理社会にせよ、倫理的審級に対するしごくまっとうな参照意識がみられ、またその意識をあからさまに反映した句も数多く存在する(つまり関は「セカイ系の想像力」の構図に追いつけないでいる)。

4点目。さらに「日本景」や句集全体にも関係してくる事柄だが、関の句群の特色を、暴力=リアルの予感による〈私〉の充足した空虚感とみなし「通常の「日本」美からかけ離れた光景を(…)慈しむとともに、その荒廃をただ見つめるだけの主体であることに充溢を感じている」とする見方も無理がある。その根拠は本文に書かれている通りなので繰り返さないが、つまり青木の言っているのは「象徴界を働かせないせいで信じている妄想を、さらなる思い込みによってますます美しく昇華する」という話なのである。いくら極言(だと思いたい)とはいえ、この句集をその手の動物的感性の話にスライドしてしまうのは、意味不明と言わざるを得ない。そもそも《動物的感性から眺めた世界の終わり》といった、日常表象空間をはなから信じきったスペクタクルでメロウなドラマは、この句集から最も遠いところにある話題である。

5点目。したがって私は、青木がこの句集を「『私』の欲動に貫かれた句群」と述べ、その私性を「『ねじまき鳥クロニクル』が示すような平成的な『私』に——全てが〈私〉の中で溶けあい、留まるため、物語に進展がない——近似している」と言い、また作者を「このよるべなき『日本』(中略)混迷とジャンクのただ中で『既にそこにあるもの』を身近に感じ、慈しみ、昂りとともに謳いえた平成俳人」「はからずも平成の抒情に祝福された俳人」と呼ぶ見方に関しても異議を唱えたい。これも詳しくは繰り返さないが、現在のところ関悦史とは《超越論的な場においては「人間中心主義」を深く疑い、経験的な場においては「人間の抑圧」に強く抗う》といった《主体の二重性》を保持する、20世紀においてごく典型的な知識人的主体であり、ゆえにきわめて反平成的な作家である、というのが私の考えである。

〔注3〕この点について外山一機は、震災を物語化する読者の欲望を次のように語っている。
「『萬の翅』に対する華々しい評価を見ているうちに、何か恐ろしいような気さえしてくるのは僕だけだろうか。僕は何だか、僕たちが心のどこかでこのような消費の衝動を引き受けてくれる何かがやってくるのを今か今かと待ち構えていたような気がしてならない。それは、「震災」を「棄民」の「物語」へと収斂させることで―さらにいえば、「高野ムツオ」という固有名詞へと収斂させることで―自らを慰めようとする僕たちの心性の現れであろう。震災前から「我も捨蚕」と詠んでいた高野なら「始めより我らは棄民」と詠むのは当然のことなのだというような、安易で傲慢な解釈に僕たちは与してはこなかっただろうか」(外山一機「僕たちは『高野ムツオ』で感動したい http://sengohaiku.blogspot.fr/2014/05/jihyo.html



〔参考文献〕
『日本SF論争史』巽孝之(勁草書房)
『日本SF論争史解題』山形誠二(http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/features/ronso/kaidai.html

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