2014-07-13

【八田木枯の一句】盆唄はゆるく節目のささくれし 太田うさぎ

【八田木枯の一句】
盆唄はゆるく節目のささくれし

太田うさぎ


先日家に帰ると玄関の隅に苧殻の束が立てかけてあった。そうか、もうすぐお盆だ。東京でお盆と言えば八月ではなく七月だ。

いつかの今頃、仕事帰りに銀座を歩いていて木枯さんに出くわしたことがある。これから盆踊を見にゆくという。佃島の盆踊を好んで毎年通っているとは耳にしていた。数分の立ち話にも気もそぞろに見えたのは、あれは遅れているというよりは浮き足だっていたのではないだろうか。

それから数年のちに私も盆踊吟行に参加する機会を得た。足を運んでみると、よくある町内会のそれとは全く姿の異なるものだった。隅田川を背に無縁仏のための精霊棚が設けられ、参加する人は見物客も含めまずお参りをする。佃島の盆踊りは水死者のための供養の念仏踊りなのだ。東京音頭も炭坑節もない。ついでに言えば夜店も立たない。張り巡らされた白地の提灯がかえって周囲の暗さを際立たせるといった具合。広めの通りに小さな櫓が立ち、音頭取りがここで太鼓を叩きながら自ら唄う。踊り手は櫓を囲み唄に合わせて踊り続け、祖先や無縁仏たちの霊を慰める。

地味で暗い盆踊りには違いないが寂び寂びした風情があり、闇や死を作品のなかで多く扱ってきた木枯さんが毎年通うほど惹きつけられたのも頷ける。ゆるやかな踊り唄は江戸時代から伝わるものらしく独特の節回しで、今の耳、それも音痴の耳にはかなしいかな巧拙の判断がつかない。

盆唄はゆるく節目のささくれし  八田木枯

この句が収められている『鏡騒』に先立つ句集『夜さり』には「盆唄は舟唄にして嗄れし」があり、佃島の盆踊りを訪れたことのある人ならば唄い手の特徴をよく捉えているとも思うかもしれないし、一般的な句として鑑賞しても「嗄れし」のあしらいが「盆」に相応しい佳句ではあるけれど、こちらは更に唄に耳を傾けている印象がある。長年使い込んだと思しい喉が操る調べの節目とは、息継ぎのことだろうか。或いは踊り手が唄の合間に「コラ、ヤートセエーエ、ヨーイトナ、コラショ」と囃すくだりだろうか。ささくれという引っかかるもの、流れに棹をさすようなものが唄の節目節目に散りばめられているというのだ。それは唄を越えて生者と死者の間に横たわるものの象徴にも見える。ささくれは生きていることの証かもしれない。この句は然しながらむしろ死者の方に寄り添って詠まれているようだ。生きていることが負い目でもあるかのように。そんなささくれを持ちながら盆唄は三日間佃島に流れるのだ。

歌といえば、木枯さんも裏声なんぞ使う不思議な歌唱テクニックを持っていた。もう一度聞きたいなあ、「港町ブルース」。


※佃島盆踊の様子はこちら

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