2014-07-13

NO TISSUE, NO LIFE 丸山進句集『アルバトロス』の一句 柳本々々

【句集を読む】
NO TISSUE, NO LIFE
丸山進句集『アルバトロス』の一句

柳本々々



生きてればティッシュを呉れる人がいる
  丸山進

ティッシュっていうのは不思議な記号性をもっているように思うんです。

丸山さんの上の句は、「じぶんが生きていること/生き抜いていくこと」と他者から「ティッシュをもらうこと」が等価になっている句だと思うんですが、考えてみたいのは、じゃあなんで生がティッシュと等価になるんだろうということです。

で、ひとつのてがかりとして穂村弘さんのティッシュの短歌をみてみたいと思います。

真夜中に抜き取るものは総務課の名久井直子の机のティッシュ  穂村弘「自画像」『短歌四季』2004/6

穂村さんのこの短歌をみると、「総務課の名久井直子の机の」と「ティッシュ」に〈所有〉の格助詞「の」が重ねがけされていくように、ティッシュというのは実はそのティッシュを所持しているひとの属性や固有名とわかちがたく結びついている、ということがわかってきます。この短歌のおもしろさは、そうした所持者と所持されるティッシュのわかちがたさが「真夜中」という夜の奥で非所持者によってひとしれず「抜き取」られ、〈分断〉されてしまうぶきみさにあるんじゃないかと思うんです。ひらたくいうと、じぶんの知らない場所でじぶん的なものが使用され流通していってしまうぶきみさです。

で、丸山さんの句にかえってみます。もちろん、ティッシュをもらうという行為は街頭などの広告的なティッシュ配りなどでもよくみられる行為であり、そのひとの属性や固有名とは無縁の非人称のティッシュを語り手は受け取っているのかもしれません。

ただ私はこの句の場合は、あえて語り手が「呉れる」と漢字表記をしたように、「呉れる/くれる」と二層仕立てになるような少し深みのある〈くれる〉だと思うんです。さらっとオートマティックにティッシュを〈もらっ〉たわけではなくて、語り手があえて〈呉れる〉といろんな〈くれる〉を差異化してもらったティッシュだったということがいえるのではないでしょうか。

だからこそ、語り手が手にうけとったティッシュには、ティッシュのみならず、ティッシュの所持者の属性や固有名の〈分配〉として、いままで「生きて」きた語り手と同じく生きてきたティッシュの所持者の〈生〉の〈分有〉が行われていたのではないかと思うのです(あなたのことがわかるよ、といった暴力的理解の〈共有〉ではなく、あなたのことをわかるとはいえないけれどわたしにはあなたのことをわからないかたちでわかりたいというきもちがある、という〈分有〉として)。

また上五の『生きてれば』の音律としてはいいにくい5音にも注意したいとおもいます。ここには〈いいにくさ〉として表現された〈生きにくさ〉が定型によってあらわれていると思うからです。しかし、それでも〈生き〉ていくことのさきに〈生〉を〈分有〉できるような〈他者〉が待っていてくれるということ。そのときこの句の「呉れる人が」の〈が〉という格助詞がある力強さをもって強くこれからの生への跳躍点をうがつのではないかと思います。

絶望の結果見たくて生きている
  丸山進



丸山進句集『アルバトロス』風媒社・2005年9月

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