2014-08-24

【珍説温泉あんま芸者】オヤジ成分の文芸的展開 渡辺隆夫川柳句集『六福神』その他 西原天気

珍説温泉あんま芸者】
オヤジ成分の文芸的展開
渡辺隆夫川柳句集『六福神』その他

西原天気


17歳で歌手デビューした郷ひろみも…



…来年は還暦です。

そんなことを思うのは、渡辺隆夫川柳句集『六福神』206句の冒頭を飾るのが…

キミたち曼珠沙華ミャオミャオ  渡辺隆夫(以下同)

ボクたち落玉華バウワウ

この2句なので。

句集をひらいて、のっけからこれでは吃驚する人も多いのではないでしょうか。私はちょっと吃驚しました。「男の子女の子! 1972年! 第14回日本レコード大賞新人賞!」



世に言う「オヤジ」というもの。その3大要素は次のとおりであると考えています。

A ダジャレ(語呂合わせ)、広く言えば「ことば遊び」

B シモネタ・バレネタ

C 政治諷刺・権力大好き(床屋談義)


補足説明をすれば、「シモネタ・バレネタ」は昨今は「シモネタ」で一括りにされることが多いのですが、いちおう〔排泄関係=シモネタ、性的冗談=バレネタ〕と区別しておきます。

政治諷刺は、権力の外にいる人たちの事情なので、権力好きで権力の近くにいる人も含むので、「床屋談義」と括っておきます(ちなみに『六福神』はとりあえず前者の政治諷刺のみです)。



ふつうに暮らしていて、「オヤジ性」に遭遇すること/人によって時によって、みずからバリバリに発揮することは少なくありません。

ことわっておかねばならないのは、「オヤジ性」は、生物的社会的性別や年齢によらない、つまり中高年男性に限定されない、ということです。女子中学生にだって、やんごとなき貴婦人にだって、ハンサムボーイ(言い方が古い!)にだって、オヤジ性にまみれた人がいます。

以上をご承知いただいたうえで、さて。

『六福神』は、「オヤジ」3大要素の溢れかえった句集です。

ぶらぶらの金ン玉だから落ちました  B

君が代を素直に唄う浪花のポチ  C

巨乳とはイタリア産のデカメロン  A+B

まぐわいの後に出てくるまくわうり  A+B

政権など代ってなんぼ塀マンボ  A+C

春の家なま足なま葱なま卵  A+B

沖縄の基地基地バッタどうします  A+C

ほかにもたくさんありますが、こんなところでよろしいでしょうか。枚挙にいとまがないのですよ。句集全体が「オヤジ成分」に満ちている〔*1〕

この句集を自分なりにひとことであらわすと、「オッサンの気骨」。

昔は床屋にこういうひときわ声のでかいオッサン、下品な冗談ばかり言っているが博識のオッサンがひとりやふたりはいたんだろうなあ、と思います。



ことば遊び、シモネタ・バレネタ、政治諷刺は、かつてひとつの文化の中で渾然一体となっていました。

ざっくりいえばカウンターカルチャー。反体制/嫌・体制なスタンスの人々が、オーセンティック(正統的)な言説のカウンターとして冗談(ダジャレ・軽口)を多用し、道徳的禁忌に歯向かうようにシモネタ・バレネタを周囲に放射する。

例えば、エロ本の体裁をとりながら、ページの端々に反骨・反体制の気分がそこはかと(あるいは明白に)流れ、細かいイタズラの仕掛けが施されている、といった媒体。

しかしながら、こうした「ことば」の反体制的坩堝状態はしだいに消え去っていきました。

エロは実用へと傾く(エロ本は動画へと変わり、ロマンポルノのロマンが取り払われる)。場をわきまえないバレネタは「セクシャル・ハラスメント」と断罪される(バレネタを言っていいというのではありませんよ。為念)。

ことば遊びは、政治(広い意味)という泥臭い分野から離れて、洗練へと向かう。

政治諷刺はかろうじて残っていますが…たまに目にする政治諷刺コントのあのアナクロ感、『アエラ』の車内吊り広告のダジャレ(ことば遊びと諷刺、A+Cですね)のあのアナクロ感…、もっとスマートっぽい手段が好まれるようになりました〔一例としてインターネット上の意見集約〕。

「権力がキライなオッサン」は、かつてのカウンターカルチャーの中で確実に存在感をもっていた。でも、その手のオッサンは、絶滅に近いようにも思います。今は60代となって「全共闘の思い出」を語るのを、「生息」しているとは言い難い。種としては、やはり絶滅です。ただ、そうした気分、気持ち、例えば「お上の言うことをそのまま鵜呑みにはしねえよ」 という気骨は、まだまだ残ってもいるのです。



さて、句集『六福神』に見られるダジャレ、シモネタ・バレネタ、政治諷刺は、川柳の世界では、それほどめずらしいものではないようです〔*2〕

好例が川柳にあらわれる「オスプレイ」です。

≫夢精するオスプレイ―滋野さちの川柳
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

オスプレイからダジャレとして「オス」「メス」が導き出され、性的冗談へと展開し、全体として政治色を帯びる。こうした操作は、はじめに挙げた「オヤジ」におけるABC三要素をすべて兼ね備えているという点で好例なのです。

川柳における「オスプレイ」=ダジャレ、バレネタ、政治諷刺の交差点。

俳句では、どうなのか。同じオスプレイを、豊里友行の作品で見てみましょう。
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/01/haikuworks3.html

ここにダジャレや性的冗談の要素はありません。豊里友行の目の前の現実としてある「オスプレイ」は、米国製の垂直離着陸機であり、Osprey(発音はアスプリーに近い?)であります。

この違いは、豊里友行が沖縄に住むということ以外に、俳人であることにも起因しているようも思います。



句集『六福神』が川柳の世界でどのような位置にあるのか、不案内な私にはわかりませんが、川柳というのは、「オヤジのABC要素」がなんらかに絡んでくる分野のように思います。その絡み方は、俳句と比して大きく。

ところで、私は、ここまで、良いとか悪いとかをいっさい言っていません。良い悪いの話ではないので。

川柳や俳句人たちは選句に慣れすぎて(歌人も?)、良いのか悪いのかをはっきりさせないと気が済まない読み方をすることが多いようです。

でも、良い悪い、あるいは好悪ではない話がたくさんあるのですよ。

閑話休題。川柳における「オヤジのABC要素」の話でした。それがかつてのカウンターカルチャーのしっぽを引きずるものなのか、新しく更新されたエロ、ダジャレ、諷刺なのか。それはどちらでもかまわないと思いますが、どちらかといえば(ここで良否・好悪を少し出します)、後者、すなわち、少しでも更新のある扱い方のほうが、読者としてはうれしいというところがあります。

たとえていえば、政治諷刺なら、朝日新聞の横山泰三と同じ地点にいるのか、そこから現在へと突き進んだ何かがあるのか。これは大きな違いだと思います。 エロならエロで、更新されたエロがあるはず(と信じたい。そうでなければ昔のものを読んでいればいいわけですから)。ダジャレにもモードの変遷があるでしょう。

50年前のオッサンから、21世紀のオッサンへ。心意気は同じでも、装うものは新しく。

エールを送る気持ちでいっぱいです。「反骨」は、川柳に限らず、俳句にもだいじなことだと、ほんと、思ってますので。「反骨・オヤジバージョン」の句集がもっとあっていいと思いますので。



〔*1〕句集名『六福神』は七福神から弁天様が抜けて「六」という意味も色濃い。

〔*2〕俳句にもダジャレ、シモネタは多い。政治諷刺はやや少ないと思う。《姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ・攝津幸彦》はダジャレ(攝津幸彦は周知のようにダジャレの宝庫)。《逝く春を交尾の人と惜しみける・佐山哲郎》はダジャレとバレネタ。ダジャレはむしろ川柳よりも俳句のほうが多いかもしれません。


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