2014-09-21

死角を待ちながら 又吉直樹(ピース)「人をポエムって言うたお前がポエムや」;『ユリイカ』(2011年10月号)特集《現代俳句の新しい波》を読む 柳本々々

死角を待ちながら
又吉直樹(ピース)「人をポエムって言うたお前がポエムや」;
『ユリイカ』
(2011年10月号)特集《現代俳句の新しい波を読む

柳本々々

中へのみ。それゆえ別の。一つもないが別の場所。ひとたびそこから出るとそこへ戻ることはない。いや。一つのほかに場所はない。一つもないところに一つのほかには一つも。ひとたび中に入るとそこからはけっして。どうにか中に。外側のない。そこからのないそこ。そこへのないそこ。そこからのないそこへのないそこ。
サミュエル・ベケット、長島確訳『いざ最悪の方へ』書肆山田、1999年、p18

幹事の死角に入る
  又吉直樹

又吉さんの連作「人をポエムって言うたお前がポエムや」『ユリイカ 特集 現代俳句の新しい波』(2011年10月、p 122)はうえにあげた句のように〈死角〉がどのように日常のなかに構成されているかという〈死角の組織化〉が多いように思うんです。

で、死角は死角なんですが、大事なことは「幹事の死角」とあるように〈関係的死角〉ということがポイントになることなのではないかと思います。

「幹事」にとっては「死角」があってはならないはずですが、しかし語り手はあえて「死角」を組織化しそこに「入る」ことによって、〈生きられる死角〉をつくっています。つまりここで問われているのは、〈死角〉とは誰かにとっては〈死ぬ〉場所でありながらも、同時にまた誰かにとっては〈生きられる〉場所でもあるという〈生角〉の問題になっているということではないかと思うんです。

前住民宛に届いたカタログが分厚い  同

「前住民」と語り手はなんの係累もないのですが、しかし〈同じ部屋〉に住んでいるというまさにその一点によって生成された〈死角〉です。「前住民」との〈(無)関係〉においてこそ、産出される〈死角〉であり、しかし関係的でありながらも、〈わたし〉だけが感受することのできる〈死角〉です。関係的でありながらも同時に非関係的であることによってしか存在しえない〈死角〉。「カタログ」の「分厚」さには、「前住民」の生の履歴としての〈重さ〉が感じ取れますが、それも関係的非関係においては、生の重みであると同時に、〈どうでもよい重さ〉=〈ただの純粋な余計な重さ〉としか感じられない点も面白い点です。

〈死角〉はときに関係の反転さえも生み出します。

福神漬けと同じ色のカーディガンで来た  同

着ている者は「福神漬け」だとは思っていない。けれども、語り手には「福神漬けと同じ色のカーディガン」にみえている。この意味付け=意味生成の〈すれちがい〉にもまた〈死角〉はあります。

こうやってみてくると、〈死角〉とは、〈意味生成のすれちがい〉のようにも思えてきます。Aの意味生成と、Bの意味生成がすれちがったときに〈死角〉が生じる。だから、死角とはつねに関係的なのですが、しかし死角は死角であるから、Bにしか感受できない。つまり、徹底して非関係的なものである。

まとめれば、〈死角〉とは、意味生成のすれちがいによって生じた関係的非関係性です。いいかえれば、「人をポエムって言うたお前がポエムや」です。

しかし、その「関係的非関係性」に積極的にダイヴすることによって、「非関係的関係性」につくりかえてゆくこともできます。〈死角〉をみずから生きようと、生成しようとするならば。そしてそれが言語表現のちからであるならば。

つまり、〈死角〉を〈共・に〉生き直すものとして、〈再会〉するためのパフォーマンスとして、措定しなおすことによって。多くの文学が築き上げてきた〈《待つ》の系譜〉のなかにみずからも〈死角〉を通して参入することによって、〈ゴドー待ち〉をしているディディとゴゴへの〈希望の絶望〉をあらたな〈絶望の希望〉に書き換えるために、すなわち、いや、すなわちでもなく、〈単に〉それは、

もう会わないというふりだから待て  同





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