2014-09-07

俳句の自然 子規への遡行34 橋本直

俳句の自然 子規への遡行34

橋本 直
初出『若竹』2013年11月号
 (一部改変がある)


前回触れたように、子規は、無季(雑)の句はだいたいつまらないが、「雄壮広大」なものは例外で、ゆえに富士山がよく詠まれており、古句を見ても読むに耐えるものは富士の句である旨を『俳諧大要』で述べていた。

そもそも、子規は富士への思い入れがとても強い。明治二十三を中心に五百木瓢亭と共に編集した「富士のよせ書」(『子規全集』第二十巻)は、例によってその収集趣味をいかんなく発揮し、古典書籍から富士に関するあらゆる記事を抜き書きした大部のものであり、単行本一冊にもなりうるような一大資料集である。

それでは、実際に子規の無季句で富士を詠んだものには、どのようなものがあったのだろうか。

子規が富士を詠んだ句は、和田克司氏の指摘に寄れば四百句ほどあるようだが(増進会出版社『子規と静岡』解説)、今回拾えた限りでは、春に四十六句、夏に七十六句、秋に六十二句、冬に七十二句、新年に十九句、雑に十一句の計二百八十六句であった。以下、そこから雑の句を引用する。

①いつそ皆子供にやれやふしの山  明治二十三年
②西行の顏も見えけり富士の山  同
③日の本の俳諧見せふふしの山  同
④餘の山は皆うつぶきつふじの山  同
⑤灘のくれ日本は富士斗り也  明治二十五年
⑥間違はし初めて不二を見てさへも  同
⑦天と地の支へ柱やふしの山  同
⑧富士の山雲より下の廣さかな  同
⑨あし高は家にかくれてふじの山  同
⑩雲いくへふじと裾野の遠きかな  同
⑪不二がねや雲絶えず起る八合目  同二十九年

率直に言って、これらの句を「雄壮」というのは憚られると思う。おおよそ知に傾いた作りであり、例えば、明治二十三年の句、②「西行の顏も見えけり富士の山」は、「謎句」(「筆任勢」第二編)と題した一文があり、「『富士の事を思へば連感にて西行の顔を見る如く思ふなり』『西行の顔がふじの顔に写るか 又は川にうつるものならん』『富士と西行の間へ我身をおけば可なり』などいふ説は皆あたらず」といい、判じ物のような句に仕立てているようである。

子規は、この句を漱石に向かってなにやら自慢をしたらしい。漱石は同年七月九日の子規あて書簡で、「僕が先頃富士を見て不図口を衝いて出た名吟にはとても不及」と言い、自作「西行も笠ぬいで見るふしの山」を自讃している。この漱石の句から推測するに、おそらく子規は、先の文同様に漱石に謎かけを行い、西行が旅の途次、遙かなる富士の高峰を仰ぐために笠を脱いでその顔をあらわした様を詠んだのだ、とでも話したのであろう。子規の句は頭で作ったものゆえ、漱石はそこを揶揄し、実際に富士を見て即興で作ったほうが良い、ということを述べたのだろうと思う。

その他の句も、初期はことごとく理屈で仕立てた句であるが、後半の⑧「富士の山雲より下の廣さかな」⑨「あし高は家にかくれてふじの山」⑩「雲いくへふじと裾野の遠きかな」⑪「不二がねや雲絶えず起る八合目」がどうにか実景に基づいて詠んでいるように見える。実際には、これらのうち⑤から⑨は伊藤松宇が子規に「富士百句」への評を依頼したのを受け、自身も触発されて松宇あてに詠んで送った百二十句中の無季の句である。なお、⑨は紀行文「旅の旅の旅」初出に所収だが、『増補再版獺祭書屋俳話』に収める際に、蒼虬の句に「あし高は家にかくれてふじの山」があることにより抹消されている。⑩は友人の言を揶揄した句であり実景ではない(抹消句。『子規全集』第十巻「豊島天外勅任官を望む」)。⑪は作句経緯がはっきりしない。つまり、少なくともはっきり実景に基づくと言えるのは⑨のみである。

一旦論旨とそれるが、⑤「灘のくれ日本は富士斗り也」について付言しておく。まず、本句の原型と思われる「灘の夕日本はふじ許り也」が、「案山子集」冬の部末の雑の部に収められている。「案山子集」は、明治二十三~二十五の間に選集作業がおこなわれ、新海非風の筆跡で清書されている他、「案山子集」に対して五百木瓢亭、藤野古白による選稿本があり、本句も選されている。また、子規初の自選句集稿「寒山落木抄」(明治二十七年秋。原本五十丁、九五四句。『子規全集』第二十一巻)には、巻末である明治二十七年の「雑」には、後半の漢字をかなにあらためた「灘の暮日本はふじばかりなり」が、子規自身の〇付で収められている。つまり、この句は特に子規の思い入れがつよく、三段階の改稿を経ているということが確認できよう。非風や古白、松宇の眼を経ているという意味においては、子規の青春が詰まった雑の句であると言えるかも知れない。

さて、文脈を戻すと、近世俳句の収集の中で見出した富士の雑の句の「雄壮」は、どうやら子規自身には再現することができなかったのではないかと思われる。また、先述の漱石の揶揄が効いた訳ではなかろうが、外出が難しくなって以後の子規は、富士に関しての想望句を詠まなかったようである。明治三十一年の連作短歌「われは」には、「富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは」という一首があるが、管見ではいまのところこの明治三十一年以後の子規に、富士の句作を見出せていない。

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