2014-09-28

寿命を与えられたチャーリー・ブラウン或いはスナフキン 野口る理句集『しやりり』の一句 柳本々々

寿命を与えられたチャーリー・ブラウン或いはスナフキン
野口る理句集『しやりり』の一句

柳本々々



ボクがいつかは成熟してちゃんと社会に適応したおとなになれると思う? チャーリー・ブラウン(チャールズ M. シュルツ、谷川俊太郎訳)『ついてないとき心が晴れるスヌーピー』祥伝社新書、p.82

チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

野口る理さんの句集『しやりり』(ふらんす堂、2013年)からの一句です。

チャーリー・ブラウンやブランケットを離さないライナスでよく話題に上がるのはキャラクターの性格もさることながら、その独特な髪型についてでもあるのではないかと思うんです。サザエさんやスーパーサイヤ人もそうだと思うんですがマンガ・アニメ独特のマンガ・アニメリアリズムだからこそできる髪型です。

逆にいえば、マンガ・アニメという、〈記号〉が特権化するジャンルだからこそ、あのような髪型が成立しうる、〈ナチュラル〉たりうるのではないか。記号の髪型、として。

このる理さんの句が面白いのは、そうしたマンガ・アニメでは〈リアリズム〉としてある記号としてのチャーリー・ブラウンの「巻き毛」に「幸せな雪」が降り積もってゆくことで、〈記号〉が〈記号化〉できない〈リアル〉としての〈重さ〉に置換されていくところにあるように思います。

記号的には凹凸のないつるつるした〈視覚記号〉の髪型をあえて「巻き毛」と言語化しなおすことにより、その〈嵩(かさ)〉のぶんだけ、アニメやマンガの記号に回収されえない「巻き毛」の〈質量〉が出ているのではないか。

アニメやマンガでは「雪」もまた〈記号的〉に処理されるため、雪が降ってもいちいち髪に降り積もるということや、それを「幸せ」と感じるまでに「雪の重み」が「巻き毛」に〈重力〉としてかかることも(ほとんど)ない、あるいはもしあったとしてもそれもまた〈記号的〉に処理されてしまうのではないかと思うんですが、しかしこの句における「巻き毛」は「雪」の〈重力〉を「幸せ」として感じられるだけの〈リアル〉としてあるということです。

このとき、チャーリー・ブラウンはこの「巻き毛」に「幸せ」としての「雪」の〈重力〉を感じ(てしまっ)たことで、アニメやマンガの記号化されたリアリズムを越えて、記号化できない〈身体〉を手に入れた、もっといえば〈死=死ぬ身体〉を与えられた、ともいえるのではないでしょうか。

またはこういってもいいかもしれません。

俳句という季感のサイクルのなかで表現される形態のなかで生きざるをえなくなった「チャーリー・ブラウン」は、みずからの〈身体〉で〈季節〉を感じることにより、その季感のサイクルのなかで時間を重ねる身体を手にいれ、寿命を〈俳句〉から与えられたのだと。

以上、る理さんのスヌーピーの俳句をみてみましたが、ほかにもスヌーピーのように原作がアニメ化されかつ〈グローバル〉に展開されているものに〈ムーミン〉があります。

ムーミンもまた短詩型においてうたわれているのですが、それが荻原裕幸さんの連作「ムーミントロール 1990」『デジタル・ビスケット』(沖積舎、2001年)です。

連作から少し抜き出してみます。

政変ははるかなる国この街はねえスニフなんてしづかなんだらう  荻原裕幸

蝶の来る庭のある家八○○○万近郊だけどどうヘムレンさん?  同

スナフキンに逢へる予感の土曜日のひる選挙カーが少しうるさい  同

この荻原さんのムーミンの短歌もまた「政変」「国」「家八○○○万」「選挙カー」といった〈ムーミン谷〉から遠く離れた〈場所〉に、原作の強欲な「スニフ」や蒐集家の「ヘムレンさん」やバガボンドな「スナフキン」を移すことで、〈わたしたち〉が持たざるをえないシステムにおける〈身体〉を描いているように思います。

「国」という超越的な審級から備給される国民的〈身体〉、「八○○○万」という資本主義システムのなかで自らも消費される資本としての〈身体〉、どこまで放浪しようとも「選挙カー」の〈演説〉が強制的に立ち入ってくる〈政治的〉身体。

そのようなシステムの編み目のなかに遍在する〈わたしたち〉の〈小文字〉としての身体を描くことによって、〈ムーミン谷〉においてはめいめいが〈大文字〉の身体をもっていた〈自由〉だったはずの〈身体観〉が抑圧され、〈システム=大文字〉から備給されながらもいずれはそのシステムに殺されることもあるかもしれない〈リアル〉な政治的身体をたちあげていく。

この連作タイトルには「ムーミントロール 1990」と〈1990〉という時間軸が設定されていますが、〈1990〉年が、イラン軍のクウェートへの侵攻、日本では新天皇の即位の礼と大嘗祭が行われ、自衛隊の海外派遣、象徴天皇制の在り方や戦争責任の問題をめぐって議論が巻き起こっていた〈大文字〉の政治を問い直す時期だったことも注意しておきたいと思います。

〈1990〉年という大きなシステムの審級が〈ムーミントロール〉を享受する〈わたしたち〉の小さな身体を規定していた/くからです。

る理さんの〈スヌーピー俳句〉も、荻原さんの〈ムーミン短歌〉も、ここで〈詩〉の〈強度〉としてたちあがっているのは〈記号〉を〈言語化〉するときに、〈死ぬ身体〉をもっている語り手は、わたしたちの側にある〈生のリアル〉とどう向き合うのかということでないかと思います。

アニメやマンガと向かい合ったときに〈わたしたち〉は、アニメ・マンガリアリズムの〈外側〉にどうしても立たざるをえない。

それは〈わたしたち〉はアニメやマンガとはちがって、いずれは〈死ぬ身体〉をもっているから。

では、そのとき、どんなふうに〈わたしたち〉は〈ことば〉を通して、マンガ・アニメと、わたしたちの身体の〈境界〉を〈ことば〉にするのか。

それが、スヌーピーやムーミンを通した短詩にあらわれてくるのではないかと、思うのです。

ムーミン谷〈から遠く離れて〉リアルの谷底をみること。

そこから、チャーリー・ブラウンやスナフキンと〈再会〉すること。

いかに/どうやって、〈から遠く離れて〉を〈隣人〉として〈わたしたち〉は〈ことば〉にしうるのかという問題。

二十五階より見おろせば人ごみもムーミン谷のごとしづかなり  荻原裕幸「Ⅰ 水晶街路」『デジタル・ビスケット』



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