2014-09-07

俳句甲子園に期待しない 久留島元

俳句甲子園に期待しない

久留島元


第17回俳句甲子園が無事終了した。

優勝は開成高校(2連覇、8回目の優勝)、準優勝は洛南B。

動画などを確認していないのでわからないけれども、かなりの熱戦であったらしい。

初優勝を目指し修練してきた洛南にとっては悔しい結果になったが、勝負と銘打っている以上勝ち負けがあるわけなので、負けたほうは大いに悔しがればいいと思う。


むろん負けた悔しさは参加校のほとんどが経験することだから悔しがっても無意味だが、考えてみれば、私が俳句を続けることになった動機の半分くらいは「もっと俳句甲子園で活躍したかった」からだった(第4回大会に二年生で出場、翌年は受験のため欠場)。

私の場合は悔しさがそのまま俳句継続につながったが、悔しさのあまり俳句が嫌いになる高校生がいても(残念ながら)仕方ない。勝負に真剣であることは美しいことだと思うし、それだけ打ち込めるのが「青春」なのだろう。

私自身も卒業生として、あるいは若手の俳句関係者として、俳句甲子園を目指す高校生や、それを支え、運営を助ける卒業生や大人たちに接する機会は多い。

実際に高校生たちを見ていると、「俳句甲子園へかける真剣さ」「情熱」は疑うべくべくもなく、キラキラと輝いてまぶしい。

ただ、現実の「俳句甲子園」と「大人の期待」、加えて「俳句界の期待」は、重なりつつも微妙に、しかし決定的にねじれているように見える。


いまさら言うのも恥ずかしいが、俳句甲子園は俳句を使ったゲーム形式のイベントである。ゲーム要素は俳句がもつ重要な性格だが、俳句の全てではない。

従って、これは至極当たり前の話だが、俳句甲子園を通じて俳句甲子園(のゲーム形式)を好きになった人が、すべて「俳句」を好きになるわけではない

むしろ「俳句甲子園」は好きでも「俳句」は嫌い、嫌いと言わぬまでも卒業して続けるほど好きではない、という高校生の方が、圧倒的に多いはずである。

ゲーム形式の勝ち負けにこだわる参加者に俳句の勉強や作法を強要してもすれ違うばかりだろうし、また逆に、「ゲーム形式」の勝利を教え込んで「俳句」を指導したように誤解する指導者の存在も滑稽である。


重要なのは、俳句甲子園は俳人を生み出すためにあるのではないということ。

折に触れて私は強調してきたのだが、俳句甲子園は別に、「ゼロ年代俳人を生み出す場」であったり「俳句界に若者を供給する場」であったり、するわけではない

しかし、残念ながらこの誤解はいまだ根強いものがあるらしい。第17回大会で審査員委員長を務めたマブソン青眼氏は、次のように述べている。

俊才が集まる俳句甲子園は、まさにダイヤモンド原石の山のようだ。大会後も、彼らをもっと大事にすべきだ。たとえば、優勝者には総合誌の連載執筆のチャンスを与えたり、NHK全国俳句大会に出演させたり、結社の入会費を無料にしたり。彼らは、日本の俳壇を救ってくれる新鮮な血液のような賜り物だ。
(「朝日俳壇 うたをよむ」『朝日新聞』2014年9月1日)

ここには決定的な誤解がある。

つまり俳句甲子園の優勝者が、その後も俳句を続ける、俳句を好きになってくれる、という楽観的な誤解である。

くり返し言えば、俳句甲子園を好きな高校生の多くは、仲間と一緒に戦うゲーム形式が好きなのであり、そのツールとして俳句に親しんでいるのである。

季語の愛着や先行俳人へのリスペクトから俳句に親しんでいるのではないから、甲子園が終わったあと、ひとりで「俳句」を続けるほどの情熱は持てない。

「俳句」そのものを好きでない高校生に対して過剰な期待をすることは、おそらく俳句界にとっても高校生にとっても後味の悪い結果しか残らないであろう。

(もちろん参加する高校生のなかには俳句そのものが好きでたまらない、という者もいる。それは歓迎すべきことであり、俳句界は俳句を好きな高校生を見いだす努力をこそすべきなのだが、俳句を好きだから試合で勝てるわけではないのが事実である)


俳句甲子園を卒業したあとで、参加者が「俳句」を好きになってくれるかどうか。

それは高校生たちの問題ではなく、より魅力的な作品を見せつけることができるか、より魅力的な俳句の場を提供できるどうかという、俳句界側の問題である、といえる。


それでは「俳句甲子園とは何のためにあるのか」と見当外れの疑問を抱く「俳人」の方がいらっしゃるかも知れない。

お答えしよう。俳句甲子園とは教育制度の一つである。

そのことは「第17回大会開催要綱 開催趣旨」において、次のように明記されている。
各地から俳句に親しむ高校生が一堂に参集し、俳句を楽しみ、交流することは、本来「座」に集う人々の共同の文芸であった俳句に相応しく、そこから生まれる人間的な交流は、高校生にとって国語教育の一環としてのみならず、新鮮で貴重な社会的経験となり、豊かな人間性を育むであろうと考えます。…(中略)…以上のように<俳句甲子園>は俳句を通じ地域間・世代間の交流と若者の文化活動の活性化に必ず寄与するものと考えます。 (1997 年当時作成)
http://www.haikukoushien.com/list/wp-content/uploads/2014/07/2014kaisai_ver5.pdf

俳句甲子園という場は「国語教育の一環」としての意義を持ち、文部科学省を筆頭として愛媛県、松山市などの行政団体から後援されているイベントである。

つまり俳句甲子園において教育的な言説が聞かれるのは当然なのだが、そのことが参加者を縛り、優等生的な、まとまった「俳句」しか評価されないのだとすれば残念だ。

俳句甲子園は高校生のためにある大会であり、俳句エリート養成道場ではなく、また結社の青田刈り場でもない。関係各位はそのことを常に留意すべきである。


ところで、しばしば言われる言説だが、俳句甲子園で評価される句が、俳句界として評価される句とは限らない

しかしゲームである以上、審査員の評価は絶対である。その評価基準の是非をただすならば、そもそも俳句甲子園というゲーム自体が成り立たなくなってしまう。

たとえば第15回大会の最優秀句「未来もう来ているのかも蝸牛 菅千華子」について「今が約束された輝かしい未来であるという実感を持てないでいる高校生の、切実なつぶやき」(高柳克弘氏)と評するか、「若いくせに、嘆かわしい!」(八木忠栄氏)と評するか。

結局のところ一句の審査においては、「教育的」であるかどうかよりも審査員それぞれの見識、選句眼が問われている。

従って勝負の審査については甘んじて受け、個々の「高校生らしさ」が云々、「定型」が云々、といったたぐいの評価については、個別の鑑賞と割り切って聞くのがベターである。作品は読者のものであるが、同時に、評価は決して絶対ではないのだから。


では、高校生たちは俳句甲子園の場で何を学ぶのか。

歴代審査委員長の顔ぶれを見れば、それが画一的な俳句観の押しつけや、季語や雅語を通じた美しい伝統文化の継承・・・・・・などを志向するものでないことは察せられる。

むしろそれは、俳句というジャンルも超え、詩歌文芸に通底する「ことば」への関心を高めることであり、学校教育における国語力に資する能力、と把握される。


私を含めた多くの卒業生たちが指摘しつづけていることだが、俳句甲子園が生み出したものは、神野紗希や佐藤文香、山口優夢のような少数の俳句作家ではない。

ボランティアスタッフとして運営を助ける卒業生たち、地方大会や松山大街道や自宅のテレビ前で試合を応援してくれる友人知人、保護者、地元の人たち。

結社に入っているわけでもなく、作家として活動するわけでもない人たちが、俳句甲子園を通じて「俳句」に関心を持ち、応援してくれる。そうした土壌を作ったことこそが、俳句甲子園の手柄なのであり、その土壌は必ず将来、俳句界によい影響を及ぼすだろう。

ところが、今の俳句界はストイックに「作家」だけを求めすぎている。作家として上達を目指すことだけが「俳句」との関わりではないはずだ。

今の俳句界における理想的な「若手」像、たとえば結社に入り、句会で研鑽し、俳句史を学び、酒席で俳句論を戦わせ、賞を狙って吟行に励む。そんな若者は、いつの時代だってごく少数である(俳句界は、優勝者ではなく本気の若者をこそ大事にしてほしい)。

「俳句」に関わって、しかし「俳句」から離れていく若者たちは、むしろこれから自分たち自身の新しいスタイルを確立していく必要がある。


ひとつのモデルたりうるのは、かつての新聞の詩歌文芸投稿欄である。

詩人、歌人、俳人として活躍する高橋睦郎氏は、自身の原点を「投稿少年」時代に求め、俳句短歌作文漫画、あらゆるジャンルに投稿した経験を語っている。

かつての「投稿少年」の多くは、詩歌を生業とすることなく、しかし現在でもジャンルを超えて活躍し、交流しあう人たちもいるようだ。

参考エッセイ「植田実のエッセイ本との関係3 高橋睦郎の「友達」」(http://www.tokinowasuremono.com/nv05-essay/essay_ueda/ueda007.html

そろそろこの駄文をまとめよう。

俳句甲子園は17年というキャリアを積み重ねてきた。愛媛県内の大会に始まり、現在まで地道な活動を継続されてきた、夏井いつき氏や松山青年会議所、実行委員会諸氏の努力に心より敬意を表する。

俳句甲子園というイベントを入り口に入ってきた若者たちを、異分子として排除するのではなく、スターのように熱狂するのでもなく。ただ「俳句」という広い沃野へ足を踏み入れた仲間として扱うこと。

そして、「作家」としてだけでなく、多種多様な俳句との関わり方を模索し、それを認めていくこと。(ありのままに・・・・・・?/失礼)


俳句甲子園に過剰な期待をしない。

俳句甲子園の現在を受け止めて、正当に評価する。

俳句甲子園は、すでにそれだけの安定感を備えた大会となりつつあると思う。



【参考】
「主体は変容するのか 橋本直」
http://hw02.blogspot.jp/2010/08/12.html
http://hw02.blogspot.jp/2010/08/22.html

「俳句甲子園を安全に語る方法 西原天気」
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html

「【対談】堀下×池原「最優秀句を読む」」
http://kyokutoubungei.grupo.jp/blog/489272

「第16回俳句甲子園公式作品集  小池正博」
http://daenizumi.blogspot.jp/2013/11/16.html

「【俳句時評】たまたま俳句を与えられた  堀下翔」
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/jijyo1.html

「「いい俳句」という言葉の個人的な用途と、それとは別に、「いい句」について 福田若之」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/04/ku1.html


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