2014-10-26

今井杏太郎を読む6 句集『通草葛』(2) 鴇田智哉×生駒大祐

今井杏太郎を読む6
句集『通草葛』(2) 
                                                                                
鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬
 『通草葛』 (1)春


◆副詞・助詞を絶妙に使う◆

編集部●では始めましょう。今日は第2句集『通草葛』の夏の部を読みます。では生駒さん、宜しくお願い致します。

大祐●はい。夏の部で好きな句は

昼寝などしてをればひと来りけり

です。「など」が入っていて意味がぼやかされていて、前回話題になった〈馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ〉の「揺れたり」と少し似ています。

季語は昼寝ですが、昼寝は真剣にするものではなく、遊んだり、ぼうっとしていたり、そういうものの総体として「昼寝」というものがあって、そうしていると「人が来る」という展開がある。昼寝はプライベートな、個人的な行為ですが、人が来ることによって個人的な時間が終わる、時間の感覚が切り替わるというところが文体によってよく描かれています。

「ひと来りけり」の「ひと」が「妻」とか「友」ではないという、このぼかし方も好きですね。

杏太郎さんはよく「当たり前のことを詠む」とおっしゃっていますが、「当たり前って何なのだろうか」と考え始めるとむずかしい。「昼寝をしていると人が来る」というのは、確率的に言った場合に高いのか低いのかよくわからない、微妙な現象ですが、実感として非常に分かる感じがします。現象的に確率に高いことというよりは、例えば「昼寝」というようなキーワードの伴う感覚の本意を突くことが「当たり前」なんだ、とおっしゃっているのかな、という気がしました。

鴇田さんはこの句をどう思われますか?

智哉●面白いですね。「昼寝というのはこんな感じのものだよ」という、季語の本意を杏太郎なりに捉えて詠んだ句といえます。「など」を使ったフレーズは、杏太郎がたまに使うフレーズです。独特のぼかしになると思いますが、「昼寝などしてをれば」というと、つれづれな感じがしますよね。

リズムの話をすると、杏太郎には、句の前半をゆったりしておいて、句の後半でぱぱぱっと加速するテンポの句がけっこうありますが、この句もそうですね。「昼寝などしてをれば」が割にゆったりしていて、「人来りけり」で少し早くなっています。

この句の場合、この加速が、一種のユーモアに通じると思うんです。「人が来ちゃったんだよ。あはは」みたいな、会話なんかでも、自分で軽く落ちをつけることがあるじゃないですか。そんな雰囲気があります。

この間、私が参加した句会で、一句一章の句だけをつくってきましょう、という会があったのです。

その句会の中で、この昼寝の句のように、途中に「~ば」を使った句が出ました。出した人は「一句一章」として出している訳です。そのときに、これは一句一章ではないだろうという意見がありました。私は後者の意見なのですが、ともかく意見が二つに分かれました。

どうなんでしょう。私はこの昼寝の句も、一句一章ではないと思うのですが。

大祐●「や」や「かな」が入っていなければ一句一章なのか、また逆に「切れ」があったら一句一章ではないのか、ということですよね。一句一章というのは型の問題で、取り合わせはまた別の問題なのかな、と。

智哉●そう、二物とか取り合わせは内容の問題ですよね。この句は一句一章でいいんでしょうか。

大祐●いいと思います。

智哉●「切れ」はありますよね。

大祐●「ば」で軽くきれると思います。しかし「昼寝をしていると人が来る」というのは確率は高くないですが、ひとつのできごとですよね。一句の中に話がひとつのときは一句一章でいいのではないかと思います。でも、一句一章と取り合わせの問題はむずかしいですね。

智哉●そうですね。「~ば」や「~て」の形って、内容以外に、呼吸の問題もあって、さっき「加速」といいましたが、この句、途中で微妙に呼吸が変わるんです。だからやっぱり一句一章ではない、ように思ったりします。

ところで、この「など」は、つれづれな感じだと思ったんですが。

大祐●いたずらに時を過ごしていたら人が来たよ、という感じなんじゃないでしょうか。

智哉●そもそも、昼寝というもの自体が「昼寝など」と言いたい類のものですよね。わざわざ「寝る」というより、もやもやと眠くなって、そのうちに眠っていた、というか。

大祐●杏太郎さんには「など」とか「ほど」を使った句が多いように思えますが、句集を読んでいるととりわけ多いわけではないではないので、取り上げ方の問題かもしれないですね。

智哉●印象としてはたくさんあるような気がしますが、改めて探すとそうでもなかったりします。

大祐●もしかしたら、ここぞというときに使うのかもしれません。

智哉●僕は助詞で注目したい句があって、

あだし野の胡瓜の花も咲いてをり

の「も」ですね。

句会などでもよく、俳句の基本としていわれますが、ほとんどの「も」は「の」に直せて、そう直したほうが俳句としてよくなる場合が多い。でもこの句の「も」は「の」にしても意味は通じるのですが、句としては成立しなくなってしまうような気がするのです。この句では必然的に「も」が選ばれているんだなあ、と思います。

もちろん、理屈では「あだし野」ですからたくさんの人が亡くなったりいろんなことがあって、そのひとつだから、と言えるのですが。

大祐●「胡瓜の花“の”咲いてをり」だと焦点が完全に胡瓜の花に定まってしまって、景色としてあだし野がそんなに生きてこないような気がします。「も」にするとあだし野という場所の意味がより深く出てくる、ということはあるかと思います。

智哉●そういう風に考えてくると「も」が理屈に見えてきそうなものなのですが、理屈には見えないところが面白いなあ、と思います。

「の」だと、句として格好がつきすぎで大真面目な雰囲気になりますね。読者の方が気恥ずかしくなるというか、困ってしまうところはありますね。

大祐●意味が収束することを避けている、というか。理に落ちている、というのとはまた違うんですね。


◆ふつうに見えてひねりがある◆

智哉●

サングラスして青空のまた遥か

の句の「また」の入り方も面白いですね。内容的には「遙かなり」でいいのでしょうが、ここに「また」を入れることで、ひねりが生まれています。ひねることでほかの作者との差異をつけていますね。

大祐●

櫻桃を七つほど食べ種子七つ

この句も「ほど」が問題になりそうですが、何だろう、この句はむずかしすぎます。

でも、この句は少し論理かな、と思うんです。いくつ食べたかははっきりと分からないけれど、数えてみると種子は七つだった、ということですね。虚子にも〈三つ食へば葉三片や桜餅〉という句がありますが、少し似ています。

智哉●この「ほど」は、先の昼寝の句の「など」に似ていますね。「桜桃を七つほど食べ」は、もやっと、ゆったりとしてるんですよね。それで、「種子七つ」でぱぱぱっと加速する。ぼんやりと食べていたが、気づいたら、あっ、七つだった、みたいな。食べている時間と、種子に気づく時間とが別物なんです。「ほど」は時間をぼかしていますよね。

大祐●こういうぼかしの効果がよく出ている句がこの句集にはいくつかありますね。

智哉●あと

ひまはりの花のちかくに魚市場

も面白いです。魚市場が遠景なんですね。

大祐●魚市場があって、その近くにひまわりが咲いているんじゃないんですよね。ひまわりというある意味でミクロなものが句の中心であって、その近くに魚市場という巨大なものがあるという。

取り上げてちゃんと読んでみると、仕掛けというか、あまのじゃくがにじみ出てくるところがあって、面白いです。


◆固有名詞を楽しんで詠む◆

智哉●すみません、話が少し飛びますが、季語の表記のことです。

梅の木に雀の担桶の二つほど

の「雀の担桶」は、ふつうは「雀の田子」という表記を使うと思うのですが、こういう書き方もありましたっけ。記憶違いかな。「担桶」も「たご」と読みますが、これだと意味が違ってしまうような気がしたんですが……。

編集部●(大歳時記を調べ)季語だと「雀の担桶」の表記を使うようです。

智哉●あ、そうでしたか。

杏太郎は珍しい季語を使うことがけっこう好きで、「白い日曜日」を季語として使った〈野に山に雨降る白き日曜日〉という句もありました。

編集部●この句集の春の部にある〈菜の花の蝶となる日を小田原に〉の句の「菜の花蝶となる」は季語なのでしょうか。わたしの調べた限りでは見つけられなかったのですが。

智哉●「菜の花蝶に化す」は春で、「百合蝶に化す」は夏ですね……ないですか?

大祐●(大歳時記を調べ)あ、ありますね。季語です。

編集部●季語なんですね。ありがとうございます。やっぱり大歳時記はすごいですね。

智哉●地名の入った句で気になったのは

秋近き上九一色村の夏

この句がつくられたのは、オウム事件が起こる前ですよね? まあ、もともとこの句は事件と無関係でしょうが。面白い地名だなあ、と思って使ったんだと思います。

大祐●面白い句ですね。「秋近き」と「夏」が入っていて、一瞬どっちなんだ、と(笑)。

智哉●「秋近き夏」だから、まあ「晩夏」ですよね。季節の間に地名を挟んだだけです。それ以外の内容がまったくない。

大祐●音のことで言うと、「秋近き」と「上九一色村」にカ行が多く、言葉のリズムを感じます。論理では説明できない必然性があるんだろうなあ、と思います。

炎天といふしづかなる日の盛り

この句も、二つの季語の微妙な感覚の違いを詠まれています。この頃こういう挑戦をされていたのでしょうか。ぎりぎりでちゃんと成立しているのがすごい。幻想の方へ行かずに、きちんと意味が通るのに不思議な感じの句になっています。きわきわのところで意味が通じる句というところを狙っておられたような気がします。

智哉●季語を二つ入れて、やってやったぜ、どうだ、みたいな感じがあって、こういう句ばっかり並んでいたら、イヤですけどね(笑)。

大祐●バランスを考えてつくられているんでしょうね。この句もそんなに目立たないです。

水色の日傘をさして菖蒲あや

という句がありますが、この「菖蒲あや」は人名ですか?

智哉●人名です。俳人です。

大祐●「上九一色村」もそうですけれど、この句集はとくに人名、地名の入った句が多いような気がします。たんに固有名詞ということではなくて、言葉に蓄積された背景とか響きの面白さで使われているのでしょうか。

智哉●そうですね。地名にしても、ただそこに行ったからというだけではなくて、字面とか音感とかも含めて、言葉として効果があるものを使っていますね。地名や人名をどうやって句の中に入れるか、というところで楽しんでつくっているような気がします。

大祐●だから、地名が入っていてもあまり旅行詠っぽくなっていないですよね。

智哉●さきほどの句の「小田原」など、割に考えて使っているのではないでしょうか。こんなことをいうと、小田原に悪いですが、小田原は箱根の手前ですよね。この句には、あえて箱根でなく小田原という、ニュアンスがあるのではないかと。〈椎茸のほかに松茸などもあり〉とちょっと似た価値観のような。一番とされるものでない方をうたって、そちらに親しみをもつというか。

でも、ほんとに固有名詞の入った句が多いですね、この句集は。

アンリシャルパンティエのレモン水

とか。店の名前だと思いますが、俳句を始めたばかりの頃この句を読んで、ありゃりゃと感心しました。ああ、こうやってつくるのか、と(笑)。

編集部●では今回はこのへんで。


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