2014-10-19

造花が、開く 榮猿丸句集『点滅』 関悦史

造花が、開く
榮猿丸句集『点滅

関悦史

『澤』2014年4月号より転載

意外とも思われようが、榮猿丸は本質的にきわめて抒情性が濃く、決して有季定型という枠組みを手放さない俳句作家である。『点滅』には愛おしくもどうでもよいガラクタやファストフードとともに、恋の句、人事句がかなりの量入っている。だがこの両者は制作上の原理においてはきわめて明確に統合されているのだ。この両面を通貫しうる書き方と立ち位置を見いだすことが榮猿丸の句作の意味だったのである。榮猿丸は俳句を「かっこいい」と思っているという。そこで重視されるのは「スピード感」、「作為のない言葉」の新鮮さ、そして「クールな文体」である。

こういう作者が抒情性を表出する際、表し方として、重く、ウェットに「皮膚」を素通りし、深みへ向かう隠喩・象徴へ行くことはない。言葉は、あくまで軽快に、換喩的に表出されなければならない。

炎天のビールケースにバット挿す

ガーベラ挿すコロナビールの空壜に

これらはその辺に実在しながら目に入っていなかった不意の出会いを捉えているが、その真価は現代のリアルを俗悪美として描き出したというだけのことではなく、無機物と自然・生き物とが本来あるべき文脈をはずれた(廃物となった)ことで、極めて美しい友愛的関係に不意に陥ってしまうエロスに触れている点にある。たまたまどちらも「挿す」という直接接触を描いているため猿丸句のなかでも例外的な力強さを得てしまっているのだが、通常猿丸句において直接出会うことができるのは本来の文脈から自在となった物同士の、生命・非生命の別を超えた無心の嬉戯においてのみであり、それ以外の接触は間接的でなければならないのだ(歳時記的自然美を直に目にしてしまった《ベランダに名月を見るふうんと言ふ》の、虚仮にしきるのでもないはぐらかしを見よ)。その規律が恋の句とガラクタの句を同列に置くことを可能にする。またこういう形で規律化されているということは、その連続性が、作者その人の内実とかけ離れた、単なる思いつきの皮肉や悪趣味ではないということを意味している。

愛かなしつめたき目玉舐めたれば

手を入れて汝が髪かたしクリスマス

髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る

など、恋の句において直接接触が生じる場合は目玉や髪に相手が局所化されていなければならず、そこから相手の人格性が立ち上がることはほぼない。そして接した場合も目玉の冷たさ、髪の硬さという物体的違和として描かれなければならないのだ。通常は「シャワーカーテン」などで隔てられていることが多いのである。ただしこの間接性は恋人をキャンベルスープの缶のような大量生産品に還元するために介在しているわけではない。作者やわれわれまで含めてそうした消耗品ではないかという疑惑もないわけではないのだが、それはメインではなく、この間接性・換喩性が、猿丸句に抒情性ともども背後の世界をホログラムのように宿らせる当のものなのである。子供は仲間に「まぜて」という。猿丸句のモチーフたちは液状には混ざらない。個体・固体のまま隣接しあい、寄り添うのである。

この方法は歳時記的自然美と、現在のリアルな美意識との融和にも用いられる。

襞深くサボテンの棘枯れ尽くす

は植物(自然)のみを見ながらも、サボテンを彫り込んでいくような見入り方がメイプルソープの写真のような、メディアを介在させた美を感じさせるし、

桜貝と壜の破片とひかりあふ

の自然と廃物の交歓は天国的とすらいえる。われわれはそもそも

遊園地の異国の街や棕櫚の花

のようなまがいものの中で育ったのであり、安手な贋物は郷愁の対象でもあるのだ。

鶏唐揚に敷いてパスタや夏の暮

の唐揚やパスタも、例えば「初諸子」と比べてどちらがより嘘くさく、悪趣味であろうかという問いを内在させながら、思いのほかアイロニカルではない。告発ではなく、優しいのだ。

榮猿丸の間接性偏愛によるクリアさは、ダンディズム(それは近代の黎明期に、貴族的生活様式、いわば滅びゆく正調の模倣として始まった)に、ある点では接近しつつ、しかし、俗悪な現在を美として優しく掬いとるという形で、かえって伝統を現在に展開させているのである(ときに批判されることもあるカタカナ多用にしても、橋本治によれば、元々漢文という外国語をすらすら読むために使われたものであり、奈良以来の日本の伝統ともいえるのだ)。

さらにいえば、句集『点滅』では、この数十年の日本で、文学においてもサブカルにおいても、ろくに居場所を持たなかった「自然」が思いのほか多く呼び戻され、詠まれてもいる。猿丸句はいわば形骸化せず、みずみずしく現在を生き続ける伝統の尖端として在るのだが、そうした世界構成法が美意識先行の枠への当て嵌めではなく、雑多な素材から帰納的につかみとられていることが悦ばしい。

まるで造花がやわらかに生長していく奇蹟を目にするようではないか。


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