2014-11-16

【週俳10月の俳句を読む】 リマインドする 西村遼


【週俳10月の俳句を読む】
リマインドする

西村遼



団地の芝生がざりがに臭い秋の風 福田若之

隣の芝生は青く見えるというが、団地で生まれ育った私にとって団地の芝生は失敗や鬱屈で染まっているように見える。子供の頃、私は一体どれほどの生き物を徒らに死なせてきただろうか。セミや蟻、カミキリムシ、多分ざりがにもいっぺんくらい死なせた気がする。鬼哭秋風という言葉があるが、この句からもざりがにの哭く声がするようだ。しかしながら、団地は墓場ではなく人の暮らす場所なので、その声も臭いも毎日の生活の中にすぐに溶け込んでいく。そこに住む私たちは日々、小さいものたちの死の臭いを吸って吐いて吸って吐いて、自身の体臭としていく。

実は実は秋の重さよ実は実は 二村典子

先週号のトオイダイスケ氏の「じつはみは」「みはじつは」とする読みを読んで、なるほど、とぽんと膝を打った(自分がこう書く場合、ほんとに膝を打つ動作をします) 。上五と下五が線対称になるような読み方をすることで、中央にある「秋の重さ」がぐっと質量を伴い、しかも中心性を持ったことで祝福されたような感じになる。私は最初、「じつはじつは」と全部の「実」を「じつ」と読んだ。これは自分でもずれた読みだと思うが、この場合は「秋の重さ」をとんでもない秘事のように言いたくてたまらない人が思い浮かぶ。急き立てられたように「じつはじつは」と言うが、その内実はぜんぜん理解できず、ただその人の中で「秋の重さ」という観念が黒々と育っていることだけが伝わってくるのだ。

あ。秋。海。雨。ワイパーの、変な音。 佐山哲郎

ワイパーの音は誰がなんといっても変な音だ。数秒ごとに雨とともに時間を拭き取ってしまう、会話もそのついでに。それでいて、そこには変な安心感もある。それは淀んだ時間の堆積をあらかじめ遠ざけ、一時的な、雨に直接濡れることのない、個人的な空間の中に留まるための言い訳を与え続けてくれるからだ。 秋。海。雨。甘くまるっこい響きの言葉がぽつぽつと音楽のように流れてくる。ここから出て行きたくないと誰かが眠そうに言う。そんな光景が浮かんでくる。

秋。遺影。イエイ。を。叫ぶ。だれですか。 佐山哲郎

通夜や葬儀の場で、イエイと叫びそうなのは誰か。それは遺影である。遺影はいつも、すぐそこに冷たい無表情の遺骸のほんものがあるというのにも関わらず、不謹慎にも健康そうな笑顔を浮かべている。死者を悼むべき場で、遺影だけが誰のことも悼んでいない顔をしている。一人ずつ順番に前に出て、抹香をつまむ。その時見上げた遺影は、こっちに向かって「だれですか」ととぼけた問いを発しているように思われる。いやまあ確かにこっちもあなたのことをよく分かってはいなかったのですが。結局、あなたは誰だったのですか。遺影は答えない。そこにあるのはもう何も答えないで済むという永遠の気楽さの彼方に飛び去った者の顔だ。生きているうちにそんな顔をしたことがあったのか。あなたの人生は、そんな人生じゃあなかったんじゃないのか。
いくら反駁してやりたくても、遺影は笑っているのである。

月の土手自転車漕いでライト点く 大西朋


最近はCATEYEの小さくて明るいライトが一般的になりつつあるが、私が高校生の頃に使っていた自転車のライトはペダルを漕ぐとその回転で電力を生み出すダイナモ式だった。車輪に摩擦を起こすローラーを噛ませるので点けると重くなるが、その重さがかえって自分がエネルギーを生み出しているという実感を与えてくれるので好ましかった。漕ぐことで車輪が回転し前進する力が生まれ、加えて電力まで生み出す私という運動。受験勉強で遅くなった帰り道で、自分の肉体がそれだけのエネルギーを持っていると毎夜実感させてくれたことは、どれほど励みになったことだろう。この句の素直な形の中には、そういう因果の喜びがこもっているように感じた。

煎餅の気泡を噛み砕きて秋 塩見明子

確かに言われてみれば、煎餅にあるあれは気泡だ。多分あれこそが煎餅のパリッとした歯ごたえを生み出す煎餅屋さんの秘伝なのだ。しかし「ドーナツに穴がある」と言われても少し釈然としないように(あれは「輪」じゃない?)、「気泡を噛み砕く」というのも何か釈然としない。釈然とはしないが、しかしそこにあるのは決してふわふわした空気ではなく、歴とした「気泡の歯ごたえ」だ。虚に見えて実、実に見えて虚。そういうのはやはり秋の季感にこそふさわしいように思う。

ひとを待つすすきと自動販売機 越智友亮

すすきと自動販売機、それぞれの「ひとを待つ」経歴は長い。
まず自動販売機はその誕生の時から、人を待つために生まれてきた。国道沿いの、車しか通過しない空の下、なんのためにどこからやってくるのさえ分からない歩行者を、それは毎日毎夜待ち続けているのである。しまいには人と人とが待ち合わせるための場所にさえなったりする。もちろんイナカの話だが、恋人を待つ人と自動販売機の組み合わせが遠目には蛍のように見える土地もあるのである。
一方、すすきもずっと待っていた。文学の中で人や月を待っているすすきの歴史はおそらくかなり古い気がする。人が隠れるのにちょうど良い背の高さが、逢いびきに適しているのだろうし、それ以上にすすきそのものの風に揺れる姿が人を待つときの頼りない気持ちに近しいのだろう。
しかし無情なことに、人は待ち人が来ればどこかへ行ってしまう。その後はすすきと自動販売機が残されるだけである。もちろんこの二者はお互いを待ったりはしない。隣り合って長い時間を過ごしながら、存在さえ干渉し合わないのだ。この二つのモノたちを、「と」という助詞がファンタスティックにつないだ。「待つ」という行為は、「待たれている」ともう一方の当事者が思わなければただの行き違いに終わる。この句は、私たちがすすきや自動販売機をずっと待たせていることをリマインドさせてくれた。




第389号 2014年10月5日
福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日

二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
塩見明子 改札 10句 ≫読む

越智友亮 暗 10句 ≫読む

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