2014-11-23

【鴇田智哉をよむ2】「白」をめぐって 小津夜景

【鴇田智哉をよむ2】
「白」をめぐって

小津夜景


毛布から白いテレビを見てゐたり   鴇田智哉

つまり、毛布の中から、白く反射するテレビ(というディアファネース)を見ていたよ、という句です。

白い液晶ディスプレイは「透明でも不透明でもなく深いのか浅いのかもわからないふしぎな光の膜」〔*1〕であり、またモノが現れ、漂い、消えゆく水鏡、すなわち「イメージの原初的様相」〔*2〕にまつわる媒体でもあります。

さらに、掲句の「白」にそこはかとなく漂う「麻痺的・催眠的」気配を考えると、このテレビは単に反射しているだけでなく、実はなにも映っていない空虚、つまり放送終了後の画面なのかも知れません。

と、ここでふと思い出すのが、ホワイトノイズのこと。これはテレビ放送終了後の、画面が砂嵐状態のときに流れている「シャー」と聞こえる雑音のことで、雨音や波音や松風、果ては母胎なども同質のノイズを出しているのだそう。誰でも知っている通り、このノイズには独特の瞑想効果があって、じっと耳を傾けていると、無我にも似た底深い安心に人を誘い込みます。

で、掲句に戻ると、温かい毛布に包まって、眸を白光に浸しながら、ホワイトノイズを聞くといったシチュエーション、これはもう紛れもない母胎回帰、すなわち「未生の時空」の描写とみるのが妥当ではないか。

もう少し丁寧に書くと、掲句は視覚としての半透明性(液晶ディスプレイ)と聴覚としての半透明性(ホワイトノイズ)から成る、バレットタイムとしての間(「麻痺的・催眠的」感覚をともなう「未生の時空」)の現前〔*3〕として読むことができる。というか、こう読むと、景が文句なしに安定する。

それはそうと、この句の話とは別に、鴇田智哉の本には音の織りなす半透明性が多く登場します。「生きながら永眠する日、それから」にも書きましたが、ディアファネースの認識は砂、灰、塵、雲といった微細な粒子が大気中につくりだすヴェールと強い親和性をもちますから、音の粒子が皮膜としての役割を果たすことも実に容易です。

例えば「砂こすれあふ音のして蝶が増ゆ」では極薄の蝶が、砂音の皮膜から剝離するかのように湧出し、「囀の奥へと腕を引つぱらる」では囀の綾なす美しいヴェールを割って、こちらとあちらとが交歓する眩しい一瞬が詠まれる、といった具合。

どちらの句も、たいへん眩暈的です。

さいごに(もうひとつ)余談。ホワイトノイズはなぜホワイトと呼ばれるのか。これは全ての周波数を含んだ光が白色であることから、その表現を借りているのだそうです。

この句にまつわる白い面と白い音。どちらも単にナイーヴ&ピュアな白というのではなく、あらゆる現象的可能性の畳み込まれた大変ノイジーな白だというのが「ふーんなるほど」といった感じですね。


〔*1〕「生きながら永眠する日、それから」より。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
〔*2〕「アートと抱擁」より。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/blog-post_40.html
〔*3〕バレットタイムと作者の句との関係は「生きながら永眠する日」を参照。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/blog-post_98.html

〈了〉

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