2014-11-30

【2014落選展を読む】2.嘘と事実 堀下翔

【2014落選展を読む】
2.嘘と事実

堀下翔


≫ 1.その年の事実
≫ 2014落選展


また読む。

9 凛凛(きしゆみこ)


この50句は何かを明言しようとしていない。

「こと」が多い。〈冴え返るあなたにできることなくて〉〈天辺でなくも佳きこと囀れる〉〈馬肥ゆる尾を梳くことの手入れから〉〈ほんたうのことは伏せたる狂ひ花〉〈オリオンを映すことある川の凪〉。こと、というのは、かなりむずかしい言葉だ。具象性はないし、それ自体は意味を持たない。ある事実のあとに「こと」がつく。ある事実そのものと、「こと」が付いたあとのそれとの間には、どんな差異があるのだろう。「尾を梳く」と「尾を梳くこと」とは、何のために分かたれているのだろう。「尾を梳く」という記述だけで事実は明言されているのだとすれば「こと」は現実のある一部分からの決別かもしれない。

続編がすぐに始まる猫の恋 きしゆみこ

恋猫の季節であれば、漫画かテレビドラマか分からないが、新シリーズが始まるのは自然だ。ここに「猫の恋」がくるのは、よく分かる。猫の恋なんて言葉は、口にするだけでも楽しくなってしまうような、変な季語であるから、続編の気分も分かる。それでもこの句は、いったい何なんだ、と、気になって仕方がない。きっとこの「すぐに」が嘘だからだ。どんなに早くても、続編が始まるのは、〈第一シリーズ・最終話〉の一週間後くらいだろう。「すぐに」は作者の無意識だ。この句はじつは何も描いていない。

そういえば表題にある凛凛という言葉は、50句には含まれていない。勇ましいさまであったり、よく響くさまであったり、厳しく寒いさまであったりをいうこの言葉は、いずれにせよ、なにか実体のあるものは指していない。50句は作者によって予言されていた。


10 徒然 工藤定治


そうだろうな、と思う。〈霜柱あとかたもなく崩れけり〉きっとあとかたもなく崩れるだろう。〈年の暮吊り輪を握る手に力〉きっと力が入るだろう。〈雪合戦混戦したる放物線〉たしかにあれは混戦だろう。〈破れ網じつとしたまま蜘蛛がいる〉うん、じっとしているだろうな。

事実を書くことは、とても大事だ。だけれどもこれらの句は、リアルというよりは、きっと、誰もが思っていることである。一句が背負う事実は、どこかにはあるが、ここにはないものではないか。

木曽川の土手を枯草続きけり 工藤定治

リアルな句と思う。木曽川は誰もが行く場所じゃないからリアルなんだ、ということではない。こんな土手がたしかにあるのだ、という気がする。自分の知らないところに。


11 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉 片岡義順


ごめん、突っ込む。「舞ふて」ちゃう。「舞うて」や。露結氏も先週、タイトルで突っ込んでいたけれど、筆者も突っ込む。「舞ひて」のウ音便化で、音便は音のまま表記です。

本稿は基本的に文法ミスに関しては突っ込まない方向で書いている。んなもん、辞書引けば分かるんだから。せいぜい50句分だ。辞書ぐらい引いたほうがいい。「舞ふて」以前にも以後にも、文法・仮名遣いミスは山のようにあって、いちいち解説しつつ指摘していくのは骨が折れるので、そういうスタンスでスルーしている。

それでも今回スルーできなかったのは、一句目以前、タイトルで大々的に誤っていて、あんまりずっこけたためである。よく角川賞に関して、一句目は自信作を置くこと、といったノウハウが語られているし、それは大切だと思う。いわんやタイトルで、しかもこの場合、50句に含まれていない、51句目と呼ぶべき句をおきて破りにおいているのに、そこでミスってるとなると、これは言わずにはいられない。かなり損をしている。50句を読み始めるまえに捨てられても文句は言えないかもしれない。

まあ、とは言っても、田中裕明がいる。第28回受賞者である田中の50句『童子の夢』はこの句で始まる。

春昼の壺盗人の酔ふてゐる 田中裕明

間違ってるやん!

これを示して文法が間違っていても中身がよければいいんだと申し上げる気はない。ただのネタですから。指摘しなかった選考委員が悪いと思う。句集収録時には訂正されている。誰かが指摘したんだろうな。

本題。

面白いことが書かれ過ぎている。〈春暁や卑弥呼のお告げスカイツリー〉なんなんだそれは。〈シクラメン残し帰らぬテロリスト〉テロリストが。〈二畳半すする新茶の思慮ふかき〉思慮がふかいのか。ほんとうにそうなの、と疑問に思う箇所は多い。乱歩、遼太郎、久女、北斎、ゴッホ、由紀夫……と人名が多いのは趣味だろうか。

どよめきを耳に花火師ピザ喰らふ 片岡義順

面白過ぎるけど、ばかばかしくて好きだ。自分の花火に興じる人々のどよめき。それに対する満足感を「ピザ喰らふ」に象徴させる手があったのか。ちょっとしゃれている。


12 ふらんど さわだかずや



自動破滅俳句製造機とでも呼ぶのだろうか。

韮やはらかし人妻はさりげなし さわだかずや
やい鬱め春あけぼのを知りをるか
復職はしますが春の夢ですが 

人妻のさり気なさだなんて、こんなことを書いても仕方がないじゃないか。それでも書いてしまう作者のなさけなさがたのしい。「やい鬱め」は江國滋のパロディだが、この形で口をついて出たかのごとき口唱性があって、そうかこれはレトリックではなく、江國もさわだも「おい~め」と言わぬではいられなかったのか、と気づく。三句目もするするとこの姿で生まれてきたような雰囲気を持っている。

眼鏡からビーム出したしご開帳

ガキか。

ひたすらなさけない。この情けなさをせめて助けているのがばかばかしさである。

虚子の忌の回転寿司の皿詰まる
草餅の平安朝のつまみ方
メッセージ性なき風船も飛んでをり

一句目、虚子の下にあれだけ多くの弟子がいたことの比喩。もちろん、そこにつながるわれわれも含めて。二句目、平安貴族は平安貴族らしい草餅のつまみ方をするだろう。そんなことを言挙げすることの無意味さが面白い。三句目、そうか風船はメッセージと結びつくのか。あるだけではなく「飛んで」いるのが、理屈っぽくなくて、いい。

偶然にルイ十六世と青き踏む

ルイ十六世が、たとえばフランス革命時に在位していた王である、といった内容はもはやこの句の必要とするところではない。これが仮に十五世でも十四世でも(彼らが誰であったか筆者は知らないが)、あるいは中臣鎌足であってもほしのあきであっても、この句は成り立っている筈だ。その人物のキャラクター性は読みを面白くするかもしれないが、補助線とはならない。とにかく、出会うはずのない人物がそこにいると言い張り、さらにはそれが偶然だと開陳する。0%でしかありえないその登場を、「偶然に」とあくまで起こりうることとして隠す嘘が、理不尽で、たまらなくおかしい。



12 コメント:

ハードエッジ さんのコメント...

絶頂や鳥下を舞ふて秋の空  子規

鳶舞ふてきのふもけふも霞哉  子規

泥に酔ふて赤子のまねを鳴く蛙  子規

桜々帰りは酔ふて白拍子  子規

油買ふて炭買ふことを忘れたり  子規

酒買ふて酒屋の菊をもらひけり  子規

こういうのはダメなんでしょうか?

http://sikihaku.lesp.co.jp/community/search/index.php

片岡義順 さんのコメント...

堀下 翔さん、ご指摘ありがとう・・古語は難しい!・・勉強しなければ・・「堀下 翔の名を検索してみました・・若さに似ない厚みのある作風です・・大事なものをお持ちです
一人づつ雪のはう向く自習かな
きさらぎを過ぎたる亀の重きこと
あめんぼの知らない水の浅さかな
若さだけの感覚に頼っていない・・Good!・・片岡義順

堀下翔 さんのコメント...

ハードエッジさま
はい、誤用となります。ハ行四段活用動詞「舞ふ」が接続助詞「て」に接続するときには、連用形「舞ひ」になり、これ以外の活用形(「舞は」「舞ふ」「舞へ」)では接続しません。この「舞ひて」がウ音便化したものが「舞うて」です。音便は発話から生まれたものなので音のまま表記されます。なまじ「舞ふ」ともとの基本形がハ行なので紛らわしいのですが、たとえば「書きて」が「書ひて」ではなく「書いて」となることを思えば納得いただけるかもしれません。

病人に結うてやりけり菖蒲髪 高浜虚子(『六百句』所収。初出はホ/S17・5)

片岡義順さま
恐れ入ります。

ハードエッジ さんのコメント...

とはいえ、
  「舞ひて」「舞うて」より「舞ふて」
  「酔ひて」「酔うて」より「酔ふて」の方が、
文字としての、
舞いっぷり、
酔いっぷりが、
様になってるように思います

音便が耳からなら、
字面からの方便もアリかなと、
私は思います

正岡さんに忠告する術のないのは残念

狩野川に沿ふてのぼるや虫送 虚子
河豚くふて尚生きてゐる汝かな 虚子
(共に原典未確認で申し訳ないです)

片岡義順 さんのコメント...

なるほど!これは目から鱗でした・・卓見です・・
本来、詩とりわけ575の短型詩にあっては、言葉は
作り手の自由=受け取り手の自由・・
「酔うて」より「酔ふて」の方が、ふらついている様がリアルに
イメージできる・・字面からくる言葉の不思議でしょうか・・
言葉は言霊!・・とらわれない=自由な心に一献です
片岡義順

大江進 さんのコメント...

以前、句会でいっしょだった僧侶の方で、仏典をはじめとする古文書をすらすら読める方ですが、「言葉は時代や地域によって、あるいは人によってもいろいろで、これが正しい唯一の文法などというものはない」とおっしゃってました。
 文法が先にあって言葉が作られたわけではなく、先に言葉があって文法は後追いで整理しただけなので、例外・変則みたいなものがたくさん出てきます。まして俳句のような文芸では一般法則にあてはまらないものがあっても何らおかしいことではないと思います。
 ただ「う」がいいのか「ふ」がいいのかも、当人が上記のことを明確に意識しての使用なのか、単に「誤用」なのかは峻別するべきでしょうね。

meratade さんのコメント...

> 続編がすぐに始まる猫の恋
これは、猫の恋は終わってもまたすぐ次に続く、の意味に取りました。

倉田有希 さんのコメント...

おじゃまします、興味深い話なので。
一年ほど前に現代仮名から旧仮名へシフトしたところで、いまは旧仮名の面白さと、いろいろ難しさも感じながら詠んでいます。

>言葉は時代や地域によって、
>あるいは人によってもいろいろで、
>これが正しい唯一の文法などというものはない」とおっしゃってました

これは(ある程度)突きつめて言うならその通りだと思います。ただ、言葉って流動的でありながら、言葉を介して他者と関わりあう以上、客観性の要素も大きいと思います。
旧仮名で詠んでいる自分としては、「笑ふて」は語感のことより、やはり誤用の印象のほうが強い気がします。たとえば個人的な日記を書くなら「こんばんわ」や「うる覚え」も有りでしょうけど、いまの時点では誤用だと思う(数十年後に国語辞典にも載っている可能性はありますが)。意図的に誤用を用いた表現については、それと判るような工夫も必要なのではないか、と思います。

漢字の誤字の問題とも似てるかも知れない。「完壁」や「掃事」と表記しているのを見て、それをどう思うか、ということかなと。

大江進 さんのコメント...

もちろん一般的な文章の場合は無用な誤解を避けるためにも、現時点における最大公約数としての「正しい」表記に従ったほうがいいでしょうね。倉田さんが例にあげているような「こんばんわ」「うる覚え」「完壁」「掃事」は私は使いません。
 ただ俳句などの文芸の世界では、作者としての独創性と読者としての可読性との間でものすごく悩むんじゃないでしょうか。どこに接点をみいだすかです。結果としてそのオリジナルな表現が、ほとんどの読者に単なるまちがいと「誤読」されたとしたら、作者の意図はまあ失敗したといっていいでしょうね。
 しかし私としては失敗をおそれず、かつ自己満足に陥ることなく、いろいろトライしてみたほうが面白いなあとは思います。

匿名 さんのコメント...

遅レス失礼します。

ハードエッジさんは……

とはいえ、
「舞ひて」「舞うて」より「舞ふて」
「酔ひて」「酔うて」より「酔ふて」の方が、
文字としての、
舞いっぷり、
酔いっぷりが、
様になってるように思います

…とお書きですが、それならば、引用されている

酒買ふて酒屋の菊をもらひけり  子規

は、文字としての「買いっぷり」が様になっているのでしょうか。


ハードエッジ さんのコメント...

私が書いたのは、
あくまで、
「舞ふて」「酔ふて」限定の話です

舞ったり酔ったりした時の感じは
「う」の字より「ふ」の字に通じるように思うのです
個人の感想です (^_^;;;
買いっぷりまでまで強弁するつもりはありません



  油買ふて炭買ふことを忘れたり  子規

なお、別件ですが、
この句を「買うて」にすべし、
と主張する人には私は諸手を上げて、降参です

ハードエッジ さんのコメント...

シャレです

音便というのは変化であり、
変化には時間がかかったと思われます

さすれば、
音便が多数派となる過程では当然、
「この頃の若い奴らは」の
幸兵衛さんが存在したのかなと思うと微笑ましいです

また、
オレのは誤用じゃないんだ、
音便以前の古格に戻るんだ、復古調なんだ、
とか言うとカッコいいかもです

おっと、本気じゃないですから
シャレですシャレ