2014-11-30

【鴇田智哉をよむ3】ちかちかした体験 小津夜景

【鴇田智哉をよむ3】
ちかちかした体験

小津夜景


近い日傘と遠い日傘とちかちかす   鴇田智哉

この句の「ちかちか」には、およそ二つの意味が考えられます。ひとつは近い日傘と遠い日傘との距離的差異が、作者の目にブレのような眩暈を引き起こしたということ。もうひとつは、日傘に照り映える光が、作者の目にまばゆく明滅して見えたということです。

ひとつめの意味においては、この句の「近い/遠い」といった景の把握が、なにやら空気遠近法風の写生をよそおいつつも実はその逆、すなわち「遠近感覚の喪失」を作図するための仕掛けだった、というのが印象的です。またこの句の醸し出す触視感も「ズームアップ/ズームバック」の景がひとまず提示された上で、それらの差異を作者が無効化したことに深く関係する、と私は感じました。

ところで、ズームアップとズームバックが同列に起こるとは一体どういうことなのか。これは当然、まなざしのベクトルが遠近といった相反する方向に常に引き裂かれるわけですから、時間の感覚が相対的になり、また「図」と「地」とが歪み、結果的にバレットタイムに突入した時のシチュエーションが生み出される。つまり見ることが死ぬことを含むようになるわけです。もう少し踏み込んで言えば、ズームアップとズームバックの同列性は、遠近ばかりでなく時空それ自体の破棄、生きながら死んでいる〈間〉の創出につながり、またそのとき作者が感じる眩暈は死のメタファーだ、ということになります(こういうの、写真では割に見る手法です)。

ふたつめの意味においては、ごくすんなりと「視線と対象とのあいだにあって『見ること』を可能にする(半)透明な領域」との戯れ、すなわち作者のディアファネースへの愛を読みとることができるでしょう。また同時に、光が主体となった景(日傘)や、モチーフ配置の並列性(と~と)や、作者の受ける印象(ちかちか)などには、印象派的手法との親和性を認めることができ、そこからこの句が絵画的文脈においても、いわゆる「遠近感の破棄」や「表面性の復活」などと関連しうることがわかります。

かくしてこの句の「近→遠」や「まばゆさ」は、句中の風景に厚みをもたらすことも、作者の内面の深みを立像することもありません。この作者の試みは、制度的風景に担保されたフィクショナルな内面(奥行きとしての意識)にでは決してなく「見ることの成立」ないし「意識の可能性」そのもの、言うなれば文字通りとっても「ちかちか」しちゃうような体験にあるのです。

〈了〉

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