2014-11-16

顔パンチされる機関車トーマス 柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句 柳本々々

顔パンチされる機関車トーマス
柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句

柳本々々



 機関車トーマスを正面から殴る  湊圭史

私の権能の領野に組み込まれてはいるが、それ自体としては無限として現前するような存在、このような存在しか暴力は狙うことができない。暴力は顔しか狙うことができないのだ。
(エマニュエル・レヴィナス、合田正人訳『全体性と無限』国文社、1989年、p.344-5)
柳誌『Senryu So Vol.02』(2012年秋、発行 石川街子 妹尾凛 八上桐子)のゲストだった湊圭史さんの「待合室にて」からの一句です。

テレビ番組『きかんしゃトーマス』といえば、なによりも〈顔〉にあると思うんです。

機関車トーマスがもし〈思想的〉であるとするならば、機関車を擬人化することなく、機関車の前面に人の顔=貌をパーツとして《そのまま》取り付けてしまったことにあるのではないか。

つまり、機関車の生態=行動原理のままにただ〈顔〉だけがマテリアルに〈人間〉であるという、《あたかも〈ひと〉であるかのようによそおいながらもその〈ひとであるかのように〉をよそおう》という〈擬・擬人法〉的な。

なぜなら、人の身体をもたずに、しかし比喩として人を擬して主体化させるのが擬人法だからです。

人間のパーツを取り付け〈人化〉するのではなく、あくまでひとになぞらえるというのが〈擬人化〉なのではないかと。

だから「きかんしゃトーマス」は、擬人化し《そこね》ている。

そのように、ある意味においては擬人化しそこねている機関車トーマスに対して、機関車が〈人間〉的な運動形態をもち、歌い、躍動することで擬人化されている例ではウォルト・ディズニー制作のアニメーション『ダンボ』(1941年)のサーカスの動物たちを運ぶ機関車をあげてもいいかもしれません。

そこでは、機関車は《人のように》歌いますがしかし、人の〈顔〉はもっていません。あくまで機関車がマテリアルとしての〈人間〉のパーツはもたずに機関車としての形状を遵守しながら、《人のように・擬人的に》歌っているのです。

そんなふうにみてみると、機関車トーマスの〈不気味さ〉とは、擬人法が未遂におわってしまい、人間の身体のパーツが、もろに〈顔〉として《そのまま》前面に露呈してしまっているところにあるのではないかと思います。

つまり、〈人間〉としての(レヴィナス的な)〈顔〉の露開です〔*1〕

〈顔〉が露開してしまっているということはどういうことか。

そこにはつねに機関車としてではなく、〈人間〉として傷つき、裂かれ、剥がれ、血を噴くことの可傷性=暴力誘発性(ヴァルネラビリティー)が担保されている状態になる、ということになるのではないかと思います。

哲学者エマニュエル・レヴィナスによれば、〈顔〉は殺人の誘惑としても顕れてきます。
顔の顕現が引きおこすのは、殺人への誘惑という無限なものを不可能性として測る可能性である。全面的な破壊への誘惑としてばかりでなく、殺人へのこの誘惑とこころみとを不可能性──しかも純粋に倫理的な不可能性──として測ることの可能性なのである。
(レヴィナス、熊野純彦訳『全体性と無限(下)』岩波文庫、2006年、p.42)
湊さんの掲句において、「正面から殴る」語り手は、いま述べたようなレヴィナス的〈顔〉にひきつけられ、「殺人への誘惑」に駆り立てられ、〈暴力〉を発動しているといえるかもしれません。

機関車トーマスの〈顔〉が〈倫理〉として突きつけてくる「汝、殺すなかれ」という絶対公理を侵犯しようとする衝動です。

しかし同時にその〈暴力〉が発動することで、語り手は期せずして機関車トーマスの前面に展開されている〈倫理〉、この機関車トーマスの隠し設定であるレヴィナス的な〈顔〉のありかたを暴いているともいえるのではないでしょうか。

機関車トーマスを〈殴る〉ことで、逆説的ではあるけれど、はじめてそこに(あらかじめあった)機関車トーマスが〈顔〉としてたたえる〈倫理〉が顕在化してくる。

〈暴く〉装置としての暴力。

社会学者の市野川容孝さんがフランスの社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカの『暴力』を参照しながら、〈暴力〉についてこんなふうに説明しています。
「暴力」というのは、(……)コンフリクトの構造的調整が破綻したときに発現するものだとヴィヴィオルカはいう。つまり、言葉を与えられることも、認知されることも、承認されることもないような、ある意味で純粋なコンフリクトが出現するときに、それが暴力として発現する、ということです。
(市野川容孝『思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題』岩波書店、2009年、p.115)
暴力は構造的な安定や調整の喪失として現れます。

つまりそれまであった構造が「純粋なコンフリクト」としての「暴力」によって後退することにより、いままで現前していたはずの構造を喪失に追い込み、過去のものとして可視化することができるのも、また、装置としての暴力なのではないかと思うんです。

かんたんな例示をとれば、誰かが殴られたときに、はじめて潜在的に抑圧されていた関係性が一気に浮かび上がり、浮上したそのせつな、関係性は過去に追いやられ、関係=構造は新たな生成物として変節を帯び始めるということです〔*2〕

「殴る」という暴力が機関車トーマスの構造を露呈する瞬間。

そしてその露呈によって機関車トーマスの枠組みを〈暴力的〉にあぶりだすこと。

この「機関車トーマス」の句にはそういった一面があるのではないでしょうか。

湊さんの川柳においては、そういった抑圧された構造が暴力によって可視化される。

だからこそ、機関車トーマスがいままさに殴られている「待合室」のおなじ風景のまっただなかにおいては、その殴られているトーマスのかたわらを、ディズニー・キャラクターとしての〈鹿〉が、〈暴力的介在〉を受けたかのように〈引きずられ〉ていくのではないか。「彼方」というレヴィナス的なタームを引きずりながら。

にもかかわらず、愛は「顔のかなたから到来する」といったのもまた、エマニュエル・レヴィナス。

 彼方よりバンビを横に引きずって  湊圭史
言葉を持つということは、集合的主体のなかに入れということでもあると思います。ヴィヴィオルカは、「今日の加害者はしばしば昨日の被害者であるという事実」にも目を向ける。暴力をどうやって言葉でコントロールしていくかということも、重要な課題だけれども、暴力というかたちでしか表現できないものを、どう言葉にしていくか、そういうプロセスを考えなければいけない
(市野川容孝・小森陽一編『壊れゆく世界と時代の課題』岩波書店、2009年、p.131)


【註】

〔*1〕「顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」。〔レヴィナス、熊野純彦訳『全体性と無限(下)』岩波文庫、2006年、p.29〕

〔*2〕〈殴る〉ことによる関係性の可視化については、下記の〈少年マンガ〉における殴る/殴られるシーンが参考になる。このとき殴っているのが読み手である〈わたし〉なのか、殴られているのが読み手である〈わたし〉なのか、〈わたし〉の位置性と物語内部の関係性が交錯するのが〈殴る/殴られる〉瞬間における意味生成なのではないか。

・武論尊/原哲夫『北斗の拳 第5巻』(ジャンプ・コミックス、1985年)の「努拳四連弾!!の巻」においてケンシロウがジャギを「あたたた!! これはシンの分!! 」「ユリアの分だ!!」「最後にこれは…きさまによってすべてを失ったおれの…おれの…このおれの怒りだあ!!」と蹴り・殴るシーン(p.184-193)

・鳥山明『ドラゴンボール 第19巻』(ジャンプ・コミックス、1989年)の「其之二百二十五 ナッパ 手も足も出ず!!」において悟空がナッパを「こいつは天津飯のうらみだ!!/ピッコロのうらみ!!」と拳を打ち下ろし・蹴るシーン(p.130-1)

・井上雄彦『スラムダンク 第8巻』(ジャンプ・コミックス、1992年)の「「2度と来ない」」において桜木花道が鉄男を「7発だぞ/7発」「今のはシオの分」「次はカクの分だ」「これはルカワの分」「そしてこれは…リョータ君の分!!」「そしてこっからはオレの分」「まだだ…次はタバコおしつけたボールと折られたモップの分」と殴るシーン(p.24-42)

・冨樫義博『幽★遊★白書 第13巻』(ジャンプ・コミックス、1993年)の「残る二人の能力!!の巻」において浦飯幽助が自身の仲間を模写(コピー)している柳沢を見破り「……よし殴るヤツは決まったぜ/悪く思うな/それはオメーだ!!」と殴るシーン(p.163)。

・荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 PART6 ストーン オーシャン 第7巻』(ジャンプ・コミックス、2001年)の「愛と復讐のキッス その⑦」においてエルメェス・コステロがスポーツ・マックスを「いいか…この蹴りはグロリアのぶんだ……顔面のどこかの骨がへし折れたようだが/それはグロリアがお前の顔をへし折ったと思え……」「そしてこれもグロリアのぶんだッ!」「そして次のもグロリアのぶんだ/その次の次のも/その次の次の次のも……/その次の次の次の次のも…」「次の! 次も!」「グロリアのぶんだあああ─────ッ/これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも!これも! 」と蹴り・殴るシーン(p58-63)

・尾田栄一郎『ワンピース 第51巻』(ジャンプ・コミックス、2008年)の「第502話 “天竜人の一件”」においてモンキー・D・ルフィが世界貴族(天竜人)のチャルロス聖を無言で殴るシーン(p.224-5)


2 コメント:

週刊俳句 さんのコメント...

柳本々々さん自身による補遺的な記事です↓↓↓
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-430.html

匿名 さんのコメント...

日本ではあまり触れられませんが、きかんしゃトーマスは露骨に労働者と資本家の関係を描いていて、イギリスらしい作品ですね。