2014-12-21

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 2. 何を書きたいか 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
2. 何を書きたいか

依光陽子


≫ 2014落選展


6. パズル(加藤御影)

50句を読みながら作者はどんな人だろうかと想像を巡らせる。「消しゴムに鉛筆の穴」「玩具」「動物パズル」「鬼ごつこ」「いぢわるな顔つき」「絵本の絵」etc. 童話的世界を形作るパズルのピース。

手のつなぎかたのいろいろ木の芽風><なぞなぞの中の兄弟氷水>このようなあどけなさを売りにした句は10年ほど前、俳句誌に頻出したことがあったが、とうに絶滅したものだと思っていた。<星合や鬼ごつこまだ終はらない>星合だから子どもの鬼ごっこではあるまい。男女間の出来事か。<ともだちとはぐれてゐたる花氷>これも今の子どもならばすぐ携帯を鳴らしそうだ。

否、ひらがなが子どもっぽさを醸し出しているだけで、子どもなんてどこにも描かれていない。花氷のある場所から鑑みるに、携帯電話など使わない年配同士の方がむしろしっくりくる。

クリームのやうな寝癖や花の雨><花どきに測る睫毛の長さかな>このあたりは若い女性かな、とも思う。しかし「悪児」という言い方や「函釣」の「函」の字などは、熟年層で若者風に書こうとするタイプにありがちな句とも見えてしまう。こんな憶測はまったくもって大きなお世話だ。

だがある表現形式に全身全霊で打ち込んでいるとき、作者像というものは自然と立ち現れてくるものではなかろうか。

ごちやまぜにされて昔や未草>という句がある。「ごちゃまぜにされて昔や」はぶっきらぼうな言い方だが、わかる。自分自身の記憶であってもいいし、歴史と捉えても成り立つだろう。さてなぜここに「未草」が置かれるのか。未草。睡蓮の咲く時刻、あたりの空気感、睡蓮そのものが持っている幻想的な雰囲気など、いろいろ想を巡らせても「ごちゃまぜにされた昔」とのアンマッチ感が喉に刺さった魚の骨のように取れない。

撫子やもう通らなくなつた道>もそうだ。「もう通らなくなつた道」は切ない。道が見えていて、ある時から年月を経た作者の背中も見える。だかその複雑な内容を背負わせるには撫子は弱い。撫子の手触りがないからであろう。

作者はまだ作句を始めて3年とある。私は俳句を始めた頃、40ほど年上の先輩俳人に「3年間であらゆる俳句を読みなさい。それから自分の句を作りなさい」と助言を頂いた。この作者もそろそろ五七五に季語を取り合わせて「とにかく俳句を作る」という段階から「自分の句を書く」段階へ上がる時期だろう。その萌芽が見えた句を引く。

瞬間を繋いで噴水のかたち 加藤御影
函釣や舗装の下の樹の根つこ

一句目。じっと見ていると目は速度に慣れて来る。作者は噴水をずっと見ていたのだろう。水滴が繋がって上がってゆき、それが噴水のかたちになった。それは水滴そのものでありながら、水滴が噴出した瞬間の繋がりでもあることを摑んだのだ。

二句目。「根つこ」という言い回しはさらりと詠んでいるが、面白いところに目が行っている。神社や寺などの縁日の屋台だろうか、地面の上に函釣の函が置かれていて、中の水に金魚やスーパーボールなどが回っている。函釣の水が地面を濡らしたとき樹木を感じたか、ふと、樹木の根が舗装された所の下まで延びていることに気付いたのだ。

くちびるを叩いてをりぬ焼藷で>も散文調だが面白い。<茄子なりに私の顔を映しけり>も言葉を整理すれば即物的で不思議な句になりそうだ。

一段上がったこの作者の句に期待したいと思う。


7. 脱ぎかけ(栗山麻衣)

名前がいい。のっけから作品に関係ないことだが、名は体を表す。名前の印象は意外に侮れない。

それはさておき、タイトルからして仄かなエロスなどを期待して読み始めたわけだが、最初の5句がどうにもよろしくない。800篇もある作品から選ばれるにはまず冒頭5句で惹きつけなければ。予選をするのも人間だ。くたびれてきたときに読み始めた作品の冒頭で「イマイチだな」と思われたらあっという間に選者の興味はどこかへ行ってしまう。

夏野には呟くやうに石のあり 栗山麻衣

6句目に置かれた句。夏野である。草は長け、日が葉おもてに反射している。風があれば草は蠢くように靡き、大きな生き物の只中にいる心持ちがするし、風がなければ過酷な環境下における生命力を肌で感じる。石は夏草に隠れて在る。冬野の石のように雨風に晒されることもなく、蹴飛ばされることもない。人は時に見えないものの存在を感じ、聴こえない音を聴く。「呟くやうに」はよく目にする措辞だが、この句における価値は、夏野の石の存在を際立たたせる描写になっている点だ。

鉄棒を舐めれば鉄の味晩夏
ゴスペルのごとき熱狂鮭上る

一句目の衝動。子どもの頃、私も鉄棒を舐めたことがある。「晩夏」の季題がノスタルジックな気分に誘う。この句、いいか悪いかではなく、飾り気のない作者の等身大の句として評価したい。上手い句など訓練すればある程度の高みまでは誰でも達することはできる。だから今しか書けない句を、誰かの見方を真似るのではなく自分の目で見て、自分の言葉で書くことが大切だ。

二句目も同じ理由。「ゴスペルのごとき熱狂」なんて圧倒的にベタな直喩だ。しかし季題は「鮭上る」である。一度海へ出て生まれた川に必ず戻って来る鮭。その回帰性を思うとうっかり深読みしそうになるがそこまでの崇高さはないので、こじ付け的な解釈は止めておく。それよりも言った者勝ち的なこの一句よって、産卵のために戻って来た鮭の凄まじいまでの迫力ある姿が頭から離れなくなった。

亀鳴くや書店に並ぶ幸福論

「亀鳴く」は空想の季題。自殺が最も多い季節、書店に商戦として並べられた幸福論は空論にすら見えてくるではないか。

この作者の句にはスピード感がある。小主観、擬人化、比喩暗喩で手っ取り早く句をまとめ上げてしまうのではなく、じっくりと言葉に向き合って欲しい。


8. クレヨン(倉田有希)

船を描くクレヨンの白春の雷 倉田有希

タイトルの語彙を含んだ句が一句目に置かれる。何だかレビューを読みはじめていきなりネタバレされた気分だ。これはあくまで私見だが、タイトルは全体を包括する表徴であり、全句に行き渡らければならないだろう。一句目から出すのはリスキーだ。句から取るのであれば50句の絶妙な位置にあって欲しいと思う。

掲句。白のクレヨンや色鉛筆が残る、という発想はよく見るのだが(今回の落選展にもあった)、クレヨンの白で描いているところがいい。クレヨンは精密には描けない。ざっくりとした船のかたちだからこそ、塗られたクレヨンの厚みも見えてくる。春の雷もクレヨンの罅割れたような表面と呼応していると思う。

クレヨンの折れて冬日の匂ひかな

43句目に置かれた句。ここに来てまたクレヨンを登場させた。私はこちらの句の方を採る。クレヨンの独特の匂いと冬日のしらじらとした光が響きあっている。視覚と嗅覚のコラボ。

白といえば、

どの人も白き喉して初句会

この句もちょっと面白い。「白き喉」が妙に生々しくて、初句会なのにあまり目出度そうでないところが現代的でクール。季題の突き放し具合が丁度いい。季題は効かせなければ意味がないが、凭れ掛かっている句はいただけない。

昼時の海月と人が浮かぶ海

これも白っぽい世界。「昼時」がそう感じさせるのだろうか。平和ではなくどこかシュール。

作品の中で作者と出会いたいと思いながら何度か繰り返し読んでみた。プロフィールによると写真と俳句のコラボレーションを続けているとのこと、瞬間を捉える瞬発力はある。写真だったら面白いだろうなと思う作品も少なくない。だが俳句は言葉だ。多木浩二の言葉を借りるまでもなく、世界をつかむ方法が違う。だから<夕立のあとの古書店鳩三羽>や<蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり>などの句には魅力を感じなかった。前者は只事で終わっているし、後者はその現場を共有していたら誰もが飛びついて俳句にするだろう。

アンリ・カルティエ=ブレッソンに「写真は…自分自身の叫びでもあり、解放でもあって、オリジナリティーを主張するものではない。生き方なんだ」という言葉がある。私は作者の核に触れたい。先に挙げた句ではそれができた気がする。

他に<すずむしや共食ひのときみなしづか>は生の真実の怖ろしさを直截的に描いていて好きなモチーフなのだが、この「や」も然り、全般的に切字があまり巧く使えていない点は改善の余地あり。この作者は厳しい選者の選を受けたらぐんと伸びるのではないだろうか。<かなかなや今日会ふ河童の碧色>虚構こそリアルに感じさせなければ、主観の壁にぶちあたってしまうのだ。


9. 凛凛(きしゆみこ)

丁寧に粘り強く書いている句、自分で作り上げた物語の世界に酔っている句、言いたいことが溢れてまとまりがついていない句。作者の書きたいもの、書きたい世界にまで行きつけなかった。

緩みをる纜夏の汐に曳く きしゆみこ

纜は船尾にあり船と陸を繋いでおく綱。大荒れの日でない限り纜は常に緩んだり張ったりを繰り返している。これから船を出すところだろうか。夏の汐にたるんと緩んでいた纜を曳いた。曳いて解く。夏独特の汐の香が、強く、けれども心地よく鼻をついてくる。骨格の正しい句だ。

だがこの句のあとに<どんづまりなる川に呉れやる海月>という句が続く。私はここで混乱する。<川に呉れやる>とはどういうことだろう。句姿といい語調といい同じ作者の句とは思えない。<だうありても眉に美しはだれ野は>この<だうありても><眉に美し>もわからない。「たはぶれに美僧をつれて雪解野は 田中裕明」と比べるまでもなく、句絶の「は」は案外難しい手法なのだ。

冴え返るあなたにできることなくて>この格助詞「に」は「私があなたに対して」なのか「あなたは残念だが役に立たない」と言いたいのか不明確だ。

きっと言葉を自分のものにする手前で、感じたことを曖昧なままに俳句の器に盛ってしまうのだろう。だからよく読もうとすればするほど混乱する。目、頭、心が同時につき動かされたとき、その突き動かしたものの正体を摑む注意力が必要だと思った。

窓側が好き寒くても一人でも
細面ばかりが目立ち卒業す
啼くときは月より光る鷹なりし

これらはうまくいった句ではないだろうか。一句目、学校の風景であろう。一人だけぽつんと離れて窓際にいる生徒。寒くても一人でも窓側が好き。そんな強がりを言う後姿を放っておけない。

二句目、卒業生全員を眺めたときの細面ばかりの生徒たち。今どきの生徒だ。

三句目、鷹の声を実際に聴いたことがないので早速YouTubeで聴いてみた。意外に甲高くて細い声なのでイメージとずいぶんと違っていた。掲句からは猛禽類の頂点に立つものの孤高の姿が目に浮かぶ。「啼くときは月より光る」という大胆な断定が、実際の鷹よりもよほど鷹らしく、ほんとうを超えたリアルを生みだすことに成功したのだと思う。


10. 徒然(工藤定治)

抽斗に冬の日を入れてしまつた 工藤定治

この作者も新旧かな遣いの混同をどちらかに統一してもらいたいと切に願うところだが、そのままの表記で引く。

永田耕衣の句に「抽出に佛光りし雪降るか」がある。耕衣の句は抽出(原句そのままの表記)の中に小さな仏像あるいは仏画を入れていたのだろう。抽出を引いたときその佛が光り、空の彼方から落ちて来る雪の気配を瞬時感じたという句。

掲句はもともと引いてあった抽斗を閉めるときに中の何かに映っていた冬日もろとも閉めた、ということか。或いは、冬の日を冬の一日と捉えると心象的な句になる。「しまつた」に僅かだが失敗の心理が含まれているからか、「日」が何か実体を持ってくる。前者の解釈であれば、抽斗を閉めた後の、暮れ落ちた部屋の暗さ、静けさが伝わってくるし、後者の解釈であれば、何か見られたくない自分、思い出したくない出来事、と少しネガティブな思いが「冬」から感じ取ることができる。案外この「冬」は取り替えの効かない詩語となっている。

毛糸玉こんがらがつたままそのまま

毛糸大好き人間としては、この句はどうしても捨て置けなかった。こんがらがってそのままの状態は「毛糸」ではあるが「毛糸玉」とは決して言わない。どこの句会でも必ず聞くフレーズに「だって本当にあったんです」があるが、これは絶対にない。と文句を言うためだけに掲句を挙げたわけではない。「玉」が消化不良なだけで、「こんがらがつたままそのまま」のくどいほどの平仮名が、毛糸がこんがらがってしまったときの苛々感にピッタリだし、推敲次第では整理のつかない心持ちをモノに乗せることができるかも、と思ったからだ。

作者は俳句歴3年目(この方で二人目?)。無所属新、といったところ。結社に所属することの可否は一概には言えないが、やはり賞を狙うくらいの気持ちがあるならば句会に参加して選を受けることだ。仲良しグループやサロン的な場ではなく真摯な議論が交わされるような場。そうすれば“絶対に成功しない素材”上位にランキングされる「クレーン車」で句を作ろうなどとは思わなくなるだろう。

私の勝手なランキングである。


11. 舞ふて舞ふて舞ふてまだまだ枯一葉(片岡義順)

タイトルからして音便の誤用、どこまで舞うかと心配になりつつ50句読んだ。
春夏秋冬の章分けはさぞや予選をされた編集部の癇に障っただろうなぁ、と思いつつ。よく句会で季題の横にご丁寧にルビを振る人がいるが、あれを見た瞬間、俳句書きが季題を読めないと思っているのか、と腹の底で沸々と怒りが湧いてくる。

それに比べればまあ季節の章立てくらい、作者が俳句歴1年半ということなので大目に見ておこう。

草摘むや衣一枚薄くして 片岡義順
読みすすむ史書の厚みや花の雨

一句目は春になって草摘みに出たのだが、思いのほか汗ばむほどのよい日和だったので着ていたものを一枚脱いだ、という句。「衣一枚薄くして」と雅な言い方になっている。山本健吉『基本季語500選』では摘草の項目に『万葉集』冒頭の雄略天皇の歌を引いているが、季題が持つ歴史を感じた一句。

二句目。史書であるからさぞ分厚い本なのだろう。内容の重さと共に、一層厚く感じられる。外は明るい花の雨。花の雨はムードだが悪くない季題斡旋。整った句である。

それにしても<春暁や卑弥呼のお告げスカイツリー>や<シクラメン残し帰らぬテロリスト>、<パリの虹モディリアーニはぬれ鼠><エーゲ海拗ねた男のサングラス>、挙げ句の果てに<葱洗ふ嫁の依怙地や手の白き>など困った句が多すぎる。

「サッカーは年齢ではない」はG大阪・遠藤選手の言葉だが、俳句の新人賞も年齢ではない。歳を重ねた方には敵わないと思わず唸ってしまうモノの見方だってある。103歳の俳人・金原まさ子さんに比べたら作者はまだまだこれから。加齢を武器にして、等身大の句で勝負してもらいたいと思う。文法の勉強も同時に行いたいものだ。


 
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≫1. ノーベル賞の裏側で 依光陽子



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