2014-12-21

【2014落選展を読む】 4. 書いているところ 堀下 翔

【2014落選展を読む】
4. 書いているところ

堀下 翔


≫ 2014落選展



ちょっと間が空いてしまったが、まだ読む。

19 仮面(中村清潔)


がつがつ……かなり俗っぽい形容であるにもかかわらずこの擬態語にしか言えない状態はたしかにあるのだ……読ませる面白さがあった。その面白さははじめフレーズが巧みかつ明快であるがためのものである気がしていたのだが、何回か読むたびに、書こうとしていることそれ自体が、ある面では俗っぽくもある、ごりごりとしたところのものであるからかもしれないと感じるようになった。

ただそれは題材を言っているのではなくむしろそれがどういう状態であるのか、ということであり、結局それはフレーズに回収されるんじゃないの、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、しかし作者が書きたいこと/場所がどのあたりにあるのかというのはなんとはなしに察せられるのである。

たとえば50句中には

みづうみの秋は波打際で待て 中村清潔

というごく気持ちのよい句があるが、この句は「詩的な」ものとはすこしちがった書かれ方をしているような気がしている。「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的なものとしては常套の事物(みづうみ、が平仮名であることも含めて)を、それを知らないがごとき手際で並べ立てる。そこで「待つ」というのだからこれはほんらいどうしようもなく甘い一句になるはずだが作者の目的はそこではなく「で待て」というところだった。

待て、というのはきびしい言葉で、もちろんそのきびしさに詩をしかけることもできようが、むしろこの命令形は日常卑近にあふれる約束のことばあるいは広告の用語のごときをとりいだしたものではないか。

助詞「で」は口語であり、文語脈の通底する50句を、そして何より同じ意味においてまさしく文語脈助詞「に」がすでにして現われている一句目〈洞窟の画は初夢に狩りしもの〉をかんがみるに、〈みづうみの秋は波打際で待て〉で作者が書こうとしたのは詩に隣接しうちまじる俗なるものだったと思う。

だからこの一句は俳句らしさ、たとえば格調だかさのようなものがなく、コピーライトのようであり、あるいは「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的な言葉をまじえたコピーライトのパロディですらある。

冬銀河明日は長距離走者かな 

もまた気になる句であった。なにより思われる未来が長距離走者であるということが面白くてしかたがない。面白くてしかたがないと実感をとりあえず書いてみて何が面白いのか考えてみると、ひとつには「長距離走者」ということばに関する違和だろうと思った。

中七下五はほんらいとても軽い感想を言っているにすぎない。「かな」と詠ずることには疑問もある。明日は長距離走者、という発話は省略的であり完結させるのであれば「明日は長距離走者である」だ。かなが名詞につくというのは誤った認識ではないが、省略された発話であるがゆえにこれはきっと「明日は長距離走者なるかな」と言わねば欠落した感じがある。逆に言えばそれは「明日は長距離走者」というフレーズがかなり口語的な、俗なるものであることを指示している。そこに「かな」がとりつけられたせいでこの一句は異様なパースの中に投げ込まれている。

そもそもこの句の情感はとてもわかりやすいところにある。真冬の星々を眺めていて、あすの自分が走っている景を思う。星を見ながらあすの自分の姿を思い浮かべている状況自体がセンチメンタルでわかりやすい。そういったところをこの一句は切り取ろうとし、そしてそのために無理やり「かな」が据えられる。俗なる文脈と俳句的な文脈とを駆使する。そこに生ずる齟齬が一句を読ませる。

なめくぢら塩撒く民にふりむかず〉〈蟻地獄この世の果ては明るしと〉といった句の情感は、句にするまでもない、という気がして疲れてしまう。


20 オムレツ(中塚健太)


卒業をうたう句はあかるい。この50句中にある

卒業歌とどく無人の教室にも 中塚健太

もやはりあかるい。無人の教室はもちろん卒業式に出席している生徒たちが過ごした思い出の教室でもいいが、たまたまその年は通年で使用されなかった教室でもいい。

ところでこの句は50句の特徴をよく体現していると思う。まず無人の教室に届いている歌を聞きとめる作者の立ち位置に思いがいたって、これはそもそも立ち位置がいずこかにあるのではなく、単に作者が視点となる場所を持っていないのだろうと気づく。

お雛さま永久はさびしと微笑みぬ〉なんて、そんなことは実際にはわかりっこないし、〈風船や世界のどこか崩れゐる〉なんて勘だ。〈明易や眠りのなかで泣いてゐる〉も奇妙なところがあって、いったい誰を詠んでいるのか、「ゐる」のが自分であれば眠っていて明易を知らないだろうし、「ゐし」ではないから過去のことでもない。一緒に寝ていた二人の片方が早く目覚め、もう一人を見たら泣いていた、というのであれば「眠りのなか」はおかしい。眠りながら、ではないから。視点がないことの気持ち悪さが50句には付きまとう。

「卒業歌」に戻れば第二にはこの句は「も」が要らない。破調であることもそうであるけれど、そもそも「卒業歌とどく無人の教室に」と言った時点でこの句の気持ちよさは充分にあきらかになっているではないか。というかよく考えたらこの「も」はなんなんだ。卒業式場(おおかた体育館か講堂である)の外にも、ということかと思えばこれは動詞「とどく」に関わっている「も」で、卒業式場で歌っているものはその場所にあるのだから「とどく」とは言わない。それから「有人の教室」もいちおう想定されるがふつう卒業式のあいだは全校生徒が集合しているので「有人の教室」があるとは結局考えられない。とすればこの「も」は意味不明ということになってしまうけれど、おそらくこれは無人の教室に作者が感情移入した結果なのだ。無人の教室も卒業式の一部だ、と。

かりに「卒業歌聞こゆ無人の教室にも」であったとすればこれは正しかった。しかしこの句の抒情は「とどく」という動詞を置いた作者の心のやさしさにある。そしてそのうえで作者は勢い余って「も」とすら書いてしまった。書かぬではいられなかった。

そんな作者の像はたとえば〈行き先を決めず出掛けし桜かな〉のあかるさにもでているしあるいは〈料峭の空のさざ波身を浸す〉〈春の夜に寄り添ふやうにラジオの声〉といったところの主観に引き寄せられた把握にも見受けられる。


21 ゐません(ハードエッジ)


一句一句は一気に詠みあげられ、かつそれらは次々と生まれていった、そんな印象を受ける。

その作り方においてうたわれるのはほとんどがただごとであり、だから読んでいて気持ちはよい。軽さはたとえば石田郷子ラインであるとかライトバースであるとかをいうときのそれではなく、むしろたしかな写生句がリアリティを獲得していながらもそのじつ重大な内容は書いていないことに似ている。

こと〈お涅槃を過ぎて仏生会も近し〉は具体的なことを何一つ言っていないにも関わらず、そのまぎれもない事実がこのように単純に言挙げされることによってリアリティへと転じている。ほか〈池に雨松の手入も済みたるよ〉〈雪折れのところに雪のなかりけり〉などやはり何も言っていない句に気持ちが引っ掛かる。

詠みくだされた感じには一句が生まれるいぶきがあり、そのいぶきは意味に邪魔されないからこそ感ぜられる。かといって〈とある日の神と佛と仔猫かな〉は無意味というよりは意味不明であり、詠みくだされたものというよりはでっちあげられたものといった印象が強い。


22 弔ひ(三島ちとせ)


いわゆる中二病を思わせる句がたびたび挿入されいずれも素材は似ている。

冒頭〈弔ひの儀式狼から倣ふ〉は正直に言ってどういうことなのか全くわからなかった。どこかで何らかの抜けてはならない助詞が抜けていると思うがどういうことを言いたいのか想像がつかないので指摘すらできない。

それに引き続く第二句〈大寒の花束火葬する決まり〉もまたどういうことなのかはっきりしないので困ってしまう。花束「を」火葬するということなのか、それにしては花束に対して火葬という動詞はおかしい。なおおそらく作者は助詞「の」にこだわりを持っていて、この後に出てくる〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もそうだと思うのであるが、「や」とほぼ同じはたらきをしつつ切れている感じを出さないものとして「の」を使っている。

これは人によって考え方が違うのだけれど助動詞「ぬ」を大きな切れ字とするひともいて(筆者もその一人だ)その場合には「や」「ぬ」の重なりを避ける。〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もおそらくはそのために「紅梅の」とされているのであるが時期時候の言葉ならばともかく具体的な植物に「の」が付いているのではまるで修飾関係にあるようで意味不明になってしまう。あ、もちろん寓話だから擬人化された「紅梅」さんがエピソードの中で嘘をついているかもしれないのだけど、です。

といったふうに言葉の不適切さが原因で意味が通じない句がいくつかあったことはまず指摘せねばならなかった。力が入りすぎているのではないか、という気がした。もっと身近なことを身近にうたった句のほうにむしろ心惹かれた。

春草の冠電話越しに編む 三島ちとせ

「電話越しに」とはまるで電話の向こうの春草を編んでいるようで、あるいはたとえば電話の向こうの人間のための冠を「いま編んでるよ」などと電話しながら編んでいるのであれば分からないでもないが、それらはやはり無理がある気がして、「電話しながら」ということを書いた方がよかったのではないかとは思う。

だが、とまれこの句は、電話の相手とのよい関係が見えてきて気分がいい。草の冠を編む時間は心が安らぐ。その安らいだ状態でかける誰かへの電話は非常に幸福感があるし、電話の相手にそれが共有されているようでもある。

春の空庭の果てまで漁網干す〉は、普段はもっと広い場所でひろげられるであろう漁網を庭に干したらその端いっぱいにまでなったという描写に家庭のさほど大きくない庭がよく見える。


≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム



1 comments:

ハードエッジ さんのコメント...

  とある日の神と佛と仔猫かな  ハードエッジ

制作後、半年ほどして、
もしかして状況が判りにくいんではと気が付きました
(作者には充分判ってるんですがね、、、)
バグフィックス版です

  とある日の神と佛と捨て仔猫  ハードエッジ 2014.11

うわあ、、、と自分でも思うくらいに、
ベタな句ではありますが、
本人、結構気に入ってたりします

  捨て仔猫少女去りもうあてもなし  加藤楸邨