2014-12-14

【鴇田智哉をよむ4】キラリ的トポス 小津夜景

【鴇田智哉をよむ4】
キラリ的トポス

小津夜景


鴇田智哉の「色の名称」の使い方には、ある決まったパターンがあります。ひとつは触知性への偏向、もうひとつはディアファネースの存在感を強調する役割です。

「触知性への偏向」とは、例えば「毛布から白いテレビを見てゐたり」「はだいろのとけこんでゐる竹の春」「春の夜を青い袋がとんでゆく」「星空をもどれば白き襖かな」といった風に、色の名称のもたらす作用が、それによって作品の実景をヴィジュアルに編集したり、作者の心象をヴァーチャルに組織したりすることよりも、むしろ色そのものの純然たる物質感や生々しい感触を前景化することに偏っている、という意味です。

もうひとつの「ディアファネースの強調」とは、二冊の句集を通じて、皮膜性を担うものと色の名称とが必ずセットで使われていることを指しています。ここで岡田温司の研究からひとつ余談を引くと、現代社会において半透明性に関連づけられている物の代表格は、実はゴミ袋なのだそう。とすると上掲「春の夜」の句、目に纏わりつくかのごとき感触でとぶ「青い袋」などは、さしずめ純粋直観の激写したリアル・ライフと言えるかもしれません。いずれにせよ、どこにいてもディアファネースを離れることのない作者の心性が、ここにはセンセーショナルなほど明快に現れています。

むかしには黄色い凧を浮べたる  鴇田智哉

鴇田の句における「凧」とは、原初的時空および生命のメタファーを恒常的に担うキーワードです。その由来はもちろん凧の、あの糸や尾を伴う形状に関係しているのですが〔*1〕、あまりにも安定したこの語の使われ方を見るに私は、恐らく原生動物、特に鞭毛虫のイメージもこの意味づけの補強に貢献しているに違いない、と踏んでいます。いわゆる「原型」つながりという訳です。また鞭毛虫にはひょろひょろした鞭毛(=糸)があり、それを使って運動(=時空を〈間〉として差延化)し、皮膜的なすがたや全体のかたちも凧とそっくり。このように考えてゆくと、凧を「時空および生命のアルケーの物象化」として捉えることが、しごくまっとうな感性の働きに思えてくるほどです。

では「むかし」という語はどこから出てきたのか? これについては「単細胞生物が浮くのに一番似合う場所って、やっぱり古代とかそういう感じかな。アルケーだし」といった、おおらかな気分からではないかというのが私の予想。

それならば、この凧はどうして「黄色」なのか? 

この黄色は、凧の色の「単純かつ任意の形容」では多分ありえない。純然たる物質感、生々しい感触、ディアファネースの強調といった、この作者の色にまつわる基本パターンを元に想像して、わたしはこの黄を凧の照り映え、すなわち光の色を暗示しているのだろうと解釈しました。

光が黄色によって表現されたのは、絵画におけるハイライトやポワンティエといった技法とおそらく同じ発想でしょう。ハイライトとは画中の最も明るくなる部分に軽い色をのせ、またポワンティエは物質の表面に描かれる光の点描のこと。実際の光は無色ですが、それがヴェールのようにものを覆っているとき、その輝きは白か黄の絵の具を使い、きわめて物質的かつ触知的に表現されるのです〔*2〕

そんな訳で、私はこの句を「アルケーとしての『昔』に、原生動物さながらに漂う生命の原型であり、世界を差延化してゆく運動の原点であり、そして〈わたしと世界との出会い〉を媒介するディアファネースでもある『凧』を、作者が高く掲げてみせた光景である。またこの凧が『黄色』という光のメタファーと結びついたことで、昔の天空の印象はいっそうまばゆく美しいものとなった。作者の理想主義的な資質が、シンプルな設定の中にうまく畳み込まれた作品だ」なんて風に読むに至ったのでした。句集『凧と円柱』は星のごとき光が宙にまたたく、こうした太古のキラリ☆としたトポスから始まるのです。


〔*1〕糸(線的なもの)が時空や生命を生み出すパターンについては『こゑふたつ』を扱った「生きながら永眠する日」の方に詳しく書きました。また『凧と円柱』には「いきものは凧からのびてくる糸か」という句が存在しますが、当然こうした句も「糸をもつ凧」が生命や時空との相関関係において捉えられていることの実例となります。
〔*2〕こうした技法を駆使した代表的作品に、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』があります。ここではパンやパン籠などに反射する光が、白と黄の絵の具によって物質的かつ触知的に描かれています(画像は「サルヴァスタイル美術館」より拝借)。






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