2014-12-14

今井杏太郎を読む7 句集『通草葛』(3) 鴇田智哉×生駒大祐×村田篠

今井杏太郎を読む7
句集『通草葛』(3) 
                                                                                
鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐×村田篠:

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『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬
 『通草葛』 (1)春 (2)夏

◆長い句、短い句◆

今回は『通草葛』の秋ですね。では、大祐さんからお願いします。

大祐まず僕が挙げたい句は

にはとりの鳴いて玉蜀黍畑

です。

この句集の「秋」の部は比較的屈託のある句が多くて、スッキリした形の句がわりに少ないかな、と思いました。「屈託がある」というのは、仕掛けが見えるというか、ひねりや狙いが透けて見えてしまって、そうした句をいただくのはちょっと違うかな、と。もちろんそれはそれで面白いのですが、杏太郎の句だなあと思わせてくれる、ほんとうに何でもないこの句をいただきました。

智哉衒いがない、ということですかね。

大祐はい。意味においては不思議なところが何もない句です。ただ、鶏が鳴くのは当たり前ですが、庭のような狭い空間で鳴くのではなく、鶏の声から一気に玉蜀黍畑に広がるところが気持ちのいい句だな、と思いました。鶏が畑で飼われている、というのはもちろん実際にあるのでしょうが、鶏の声で目が覚めたというような定型文的なことではないのがいいですね。

智哉まあ、でも、鶏と玉蜀黍畑の位置関係などを考えると、ちょっと不思議な部分もありますよ。
玉蜀黍畑は、背が高くて中が見えないんですね。

大祐そうですね、鶏は見えていなくて声だけが聞こえる、ということかもしれなません。

そのあたりはどうなんでしょう、鶏は玉蜀黍畑の中にいるのでしょうか?

智哉いや、いないでしょう。鶏はその向うの家の方にいるのでは。

大祐むずかしいところですね、情報量が少ないので。放し飼い、というのもあるかもしれません。

智哉実景として考えると、たぶん、玉蜀黍畑の向こう側に家があって、鶏はその家の近くにいる。畑の脇を歩いていると、家のあるあたりから玉蜀黍畑越しに鶏の声が聞こえてきたんじゃないでしょうか。姿が見えなくて声だけが聞こえてきた、ということなのではないかと。

大祐なるほど、「て」の効果を考えると切れがありそうですね。時間的、空間的にそこで断絶がある。玉蜀黍畑の遠景としての声。

鶏の声を詠むときはわりにひねりたくなるし、そういう句も多いのですが、この句はひねっていないですね。真正面から詠んでいます。鶏の句は、杏太郎さんにはそんなに多くなかったような気がしますが、どうでしょうか。

智哉にはとりのすこし飛んだる春の暮〉がありますね。でも、多くはないと思います。句数を数えたわけではありませんが、それより「雀」の句は多いように思います。

大祐あ、そうですね。

智哉カラスの句はあんまりないでしょう。

そうですね、カラスの句はあまり見たことがないですね。嫌いだったのかもしれません。

智哉さん、いかがですか?

智哉僕もこの句集の秋の句を読んでいて、ふつうに見えるけれど実は細かいひねりがある句が多いな、と思いました。例えば〈こすもすの花びらの揺れうごくなり〉。「こすもすの花びら」とはあまり言わないですね。「の花びら」と言ったことで、言わなかった場合と比べて、読者が思い浮かべる画像に差異が生じてくる。

母のため父のため盆用意かな〉ふつうの順序としては「父のため母のため」でしょう。「母」を先にしたことで、ほくそ笑んでいる作者の顔が見えてきます。

くるくるとまはるよひとの秋日傘〉日傘が「くるくるとまわる」という表現は、句会などでよく登場する耳タコの言い方ですが、それをあえて使った上で、「ひとの」という措辞を入れた。ここにひねりを感じますね。しかも「秋」の日傘です。傘を回している所在ない一人の人間がいる。そして、その傍らに作者がいる。

そんな中で、

浮きあがりつつ秋の日の海に入る

という句があるのですが、この句はひねっているようで、ひねっていない。
「やってやったぜ」的な素直さがある句という気がします。

「海に入る」だから日没です。現象としては太陽は下降しているはずなのに、「浮き上がりつつ」と言っているわけだから、逆のことを言っている。これは発見ですよね。俳句を評する際に、よく「発見がある」と言いますが、そういう、いわゆる「発見」を詠んだ句のように見えます。日は沈むはずなのに浮き上がって見えるんだ、おれにはそう見えたんだ、これは発見だ、すごいだろ、みたいな素直な感覚なんです。そういう意味では、あまのじゃくの杏太郎には珍しい句という感じがするんです。オーソドックスなんです。

で、そのせいか私は、この句のことをずっと「浮きあがりつつ秋の日の海を出づ」だと勘違いして覚えていたんです。今回改めて見ると、「入る」だったので、あれ、どうしたんだろう、と思ったのです。杏太郎なら、「浮きあがる」に「出づ」をあえて重ねそうなところですよ。でも、この句はそんなひねりをしていない。

大祐僕はこの句は、「浮きあがりつつ」がかなり不思議な気がします。杏太郎さんの句は、ちょっと不思議なことを言っていても意味はすっと入ってくるものが多いのですが、この句は意味も少しとりづらいですね。「浮きあがりつつ入る」って何だろう、と思います。

智哉沈みそうでなかなか沈まない、という感じではないかな。沈んでいくように思って見ているけれど、見つめていると、何だか海から浮き上がっていくようにも見えるという。

大祐この句のような方向へ仮に杏太郎さんが展開していったら、また別の世界があったかもしれませんが、そうはならなかったんですね。この句も、たまたまできてしまったのかもしれないけれど、ちょっと面白いです。

智哉できて、そのままいっちゃったんだろうな、という気がしますね。そういう意味では、若くみずみずしい感じがします。変にひねっていない素直な句なんだと思いますよ。

なんか言い方が凝っていますよね。「浮きあがりつつ」の「つつ」とか。

智哉長いですよ、十七音が。

大祐そうですね、展開があるので長く感じます。

一句の速さ、というものがあって、例えば〈しづかなる海に鯊釣舟はをり〉などは短いですよね。「しづかなる海」と言われてすっとイメージが浮かぶし、海に舟がいる、というのもすっと入ってきますから、短く読めるんです。「浮きあがりつつ」の場合は、それが長い。句の中に展開やひねりが入ると、認識のスピードが読むスピードに追い付かなくなって、自ずと読者が立ち止まる句となります。そのコントロールも狙われたのかもしれません。

それと、「秋の日」というと「秋の太陽」のことだけではなく「秋の一日」のことでもありますから、「何かが秋の日の海に入る」と読まれてしまう怖れもあります。「秋の日が」と書けばはっきりと分かるのですが、杏太郎さんの作句の信条として、そうは書けなかったのでしょうね。


◆人間の存在を感じる「も」の使い方◆

ほかに気になった句はありますか?

智哉篠さんはどうですか?

あ、私は、さきほど智哉さんが挙げられた

こすもすの花びらの揺れうごくなり

が気になりました。「こすもすの花びら」とふつうは言わないことを長々と言って、そのあとの「揺れうごくなり」も「揺れる」ではなく「揺れうごく」で、引き延ばしているんです。そして、「花びらの揺れ」「うごくなり」と句またがりのリズムになっています。これを一句として読み下したとき、コスモスの花の揺れる姿が、句またがりになっている言葉の継ぎ目や、たらたらとしたリズムに添って見えてくるような気がします。それが面白いなあ、と。

智哉コスモスというとふつう「揺れる」とか「風」ということになってきます。そこを分解した。

大祐「コスモスが揺れる」というと「コスモスという種の植物が揺れる」ということになりますが、「こすもすの花びら」と言うと単純に「モノ」になります。イメージの収束というわけではないですが、断定してますよね。

ふつうは「群れ」として連想されるコスモスが、この句の場合はコスモスのひとつの花にフォーカスする感じになっていて、それが少し珍しい気がするのかもしれません。

智哉「こすもす」というひらがなは、可愛いですね。

大祐この句を読んで、芝不器男の〈白藤や揺りやみしかばうすみどり〉という句を思い出しました。これも花が揺れている句です。

不思議に思ったのは、「揺りやみしかばうすみどり」は色を限定していて、しかも少し作者の観念の入っている句だと思うのですが、この杏太郎さんの「こすもすの花びら」の句の方が即物的であるにも関わらず、より作者独自の視点と感じるというか、作者が確かに見ているんだという実感があります。「うすみどり」の方は神の視線というか、他から見つめているような印象がありますが、この句は人間が見ているんだな、と僕の中では分かる句です。

この句と少し近いのですが、

草むらがうごいて秋もふかまりぬ

も好きな句で、助詞が頑張っている感じがします。「草むらが」の「が」、「うごいて」の「て」、「秋も」の「も」といろいろ工夫されているのですが、意味としてはすっと入ってきます。

智哉「秋も」で人間つまり作者が入ってくる。「秋の」だと純粋な自然現象になるという意味で。

大祐一瞬ためる、というような効果もあります。

智哉強調、みたいなことですね。

大祐並列の「も」ではなくて、読者内の時間を制御するというような方向に助詞が使われているような気がします。

智哉ほんとうに何もない句だから(笑)。草むらがうごいて、一瞬考えて「あ、秋も深まった」ということですね。

大祐はい、因果関係はまったくないです。

智哉確かにこの句は「も」がないと少しきついかもしれません。俳句ではふつう、「も」は「の」に直せるという場合が多く、「も」というのはなかなか使う機会が無いように思いますが、杏太郎には割と「も」を使っている句がある。この句はまあ、計算して「も」にしているんだと思います。「〈も〉を使うんなら、こう使うんだよ」という句なんだと思います。

杏太郎の助詞の直し方には、句会でいつも感服していました。ほかに気になる句はありますか?

智哉

籾殻の焼かるる日向ありにけり

は「焼かるる」と受け身になっています。籾殻の状態そのものを詠むのなら「焼けゐる」とか「燃えゐる」にしてもいいのだけれど、「焼かるる」とすることで一工夫されている。受け身形になっていることで、背景に人間がいるということが醸し出される。農家が見えてくるような感じになっているのかな、と思います。

受け身は杏太郎には珍しいです。だからなおさら、考えてそうしたんだろうな、と思えますね。

大祐確かに受け身は珍しいですね。僕はこの句の「日向」でちょっと驚きます。空間把握として、籾殻が焼かれるのは土の上ですが、「日向」は光が中心になりますから、そういう地面感がないんですよね。あまり当たり前の言葉のチョイスではないな、という感じがします。「日向」は日の当たっている地面だよ、ということを読者が把握する必要があって、そこに工夫がありますね。


◆病院俳句の変な感じ◆

智哉あと気になったのが

麻酔科のベッドの上に秋ひとつ

です。読者はそれぞれ、この句をどういうふうに読むのかな、と思います。「麻酔科」という言葉が、それぞれの読者に何を醸し出すのかな、と。

大祐確かにちょっと異様な感じがありますね。「秋ひとつ」は、即物的に読むと「秋の果物が置かれている」とか、もう少し知性に委ねると「秋の日が当たっている」とか、そういうふうに読みとれるのかもしれませんが。

智哉麻酔科のベッドって何でしょうか? 麻酔科って治療をするんですか? 手術のときに麻酔をかけるのが仕事なわけだから、麻酔科独自の診療とか、治療って無いですよね。いや、どうなんだろう。専用のベッドってあるのかな? 医者の仮眠用ベッドなんでしょうかね。

そのふたつ前に〈医師ひとり看護婦ふたり露けしや〉という句があるから、もしかしたらこの一連はこの日の勤務の句、夜勤の句かもしれませんね。杏太郎は医師でしたから。それにしても「秋ひとつ」って何でしょうか。自分が寝ているということじゃないでしょうね(笑)。

智哉麻酔科のお医者さん自身が「秋ひとつ」だったりして(笑)。わからないですが、案外そんなことかもしれなくて、そこから発想して「秋ひとつ」になったのかもしれませんね。「麻酔科」という言葉があるので、ちょっと「何だろう」ということになります。

大祐前書きを付ける人なら、この一連の句には付けるでしょうね。この句も変ですが、その三句前の

秋の夜の氷枕がうごきをり

も変です。「うごきけり」ならまだ分かりますが、「うごきをり」というのは。

氷がゴロゴロしているわけですよね。

大祐瞬間を見ているわけではなくて、長いんです。

智哉確かに「うごきをり」は気持ち悪いよね。

一句前の〈ひとの辺にしばらくゐたるすいとかな〉の「ひとの辺に」も、ちょっと何か変なものを感じます。そう読んでくると「秋ひとつ」もなにか……この夜に病院で人が亡くなるとか、なにかあったのかもしれないという気がしてきます。

智哉人が不在な感じがしますね。

ほんとにそうです。何となく不穏な終わり方になりますが(笑)、今日はこのへんで。


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