2014-12-21

【A面:鴇田智哉を読む】なにもとどめおかないために あけがたを死せり白炉をとほくして

【A面:鴇田智哉を読む】
なにもとどめおかないために
あけがたを死せり白炉をとほくして

小津夜景



鴇田智哉の句を語るとき、私は「痕跡」という語をしばしば使ってきました。が、そもそも言葉にとって痕跡とは何かという点については全く言及してこなかったことに気づいたので、今回は句には軽く触れる感じにして、この問いをいちど立ち止まって考えてみようと思います。

ジャック・デリダに『火ここになき灰』という薄い本があります。これは「ここに灰がある」という謎の一文を端緒として、死者の灰の痕跡性を恋愛のメタファーに絡めて語った本なのですが(今ネットで調べたら、翻訳はかなり過激です)そこにこんなことが書いてあります(訳は未知のサイトからの孫引き)。

それはまさしく、かつて亡くなった人のことだったのよ。でも今はもう、その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの。だからもう、そこにあるのは、灰を残して消えただれかでさえなく、ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前(ノン)なのよ。それとも、このテクストの署名者と称する者につけられたあだ名と考えたってかまわないわ。そこに灰がある。こうして一つの文は、その文がなすところのもの、文がそうである当のものを述べているのよ。(デリダ『火ここになき灰』)
燃え灰そのものは何の実体でもない。それは言うなれば影のようなもの、すなわち「そこに誰かがいた」という実体の名残にすぎない。だがわたしはそんな名残さえも風の中に失うだろう。そして結局、わたしの元に留まるのは、いまや見え難い幽霊のようにも感じられる名前だけとなるのだ。あるいはこのテクストの作者にしても同じことがいえる。つまり作者は「そこに灰がある」と書きながら暗に「このテクストは灰である」と語り、そして自分も「名前」だけを残して去ったのである。

と、これがデリダの考える灰=痕跡です。

灰という残らざる痕跡と、その痕跡を思慕しつつ、見え難い文字を掴もうとする人。私にはこの「灰と言葉を編む人」の関係が「水鏡と絵を描く人」の関係にとても似ているように思えます。なにしろこの灰は、たんなる燃やされた実体でなく、あるようでないような名前と化した儚い粉のヴェールなのですから。もしかすると、絵を描くこと(絵画的イメージの創出)が実体ならざる水鏡を抱くことであるのと同じように、言葉を編むこと(言語的イメージの創出)もこの遺骸ならざる灰を技芸(アート)によって掬い取ることに繋がるのかもしれません。

  あけがたを死せり白炉をとほくして   鴇田智哉

もっとも「誰か判然としない死」を「ほの白い暁/白くのぼる煙/白くのこる灰」という何層ものヴェールがひっそりと取り囲むこの句を目にした時、私がまず思い出したのはデリダではなく、未生響の次のような回文詩でした。
無題  未生響

むけいがなんぢ
みな これがあれか
やはらかき
なきからはやかれ
あがれこなみぢん
ながいけむ

無形が汝
皆 これがあれか
柔らかき
亡骸は焼かれ
上がれ粉微塵
長い煙〔*1〕
掲句は、まるでこの回文詩に添えられた反歌のようです。

ところで、この詩の「形のないあなた」という冒頭部分、これは十中八九、言葉がみずからの思慕するイメージに対して呼びかけている光景と思われます。未だ生まれざる響きという、どことなく「未生の時空におけるノイジーな白」〔*2〕じみた筆名をもつこの詩人は常に「かたちのないイメージ=遺骸ならざる灰」を言葉で掬い上げようとする作品を書いてきました。

もちろん、かたちのないイメージ=灰は、掬っても散ってしまう。そして散ったあとは記憶もあいまいとなり、うまく喪に服することが叶わない。デリダの言う「ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前」とか「なにもとどめおかないために、とどめおくもの」とか「決して残余しえないもの」とは、そういった出来事です。私たちには、この出来事の空しさから逃れることも、それを充足した意味によって粉飾することも許されていません。
おまえが言葉の骨壺を紙に託したとしても、それはおまえをいっそう燃え立たせるためなのだ(中略)この文の中に見えるのは、墓碑の墓碑だ。それは不可能な墓の記念碑なのだ――それは禁じられた墓で、ちょうど遺骸を納めぬ墓[cénotaphe]の記憶のようなものだ。そこでは忍耐強い喪の作業が拒否されている。(『火ここになき灰』)

もういちど繰り返します。これが「散りゆく痕跡=帰らぬイメージ」を思慕する「言葉の風景」です。

掴もうとすると燃えてしまい、掬おうとすると散じてしまうもの。

遺骸(=実体)を納め得ない、骨壺あるいは墓(=言葉)。

散逸し、喪失した灰のヴェールをめぐる、記憶の旅。

このように「言葉の風景」とは、いつも、永遠に、死者のだれひとりいない墓原です。

そして、あるいは、もしかすると、ディアファネースをめぐる鴇田智哉の営みというのもまた「今そこに、私の思慕するおぼろげな何かが視えたのか?」といった、本人の喪失した「痕跡」とふたたび還り逢うための、終わらない旅なのかもしれません〔*3〕

散りゆくことを運命づけられた、かたちのないイメージ=灰と、それを抱こうとする言葉との終わらない旅。けれども私個人は、少なくともこうした事実を潔く受け入れる者にだけは、灰を抱きしめるという奇跡がいつか訪れるだろう、とぼんやり思っています。

それはなぜか? 

それは、本当のイメージとは、決して存在(présence)の写し(re-présentation)などではなく、わたしの深い、身を揉むような呻きに点火する「焰の光」、すなわちバシュラール風に言うところの新たな創造(création)であるに違いないからです。



〔*1〕未生響の詩は手元に本がなく、記憶からの引用。

〔*2〕【鴇田智哉を読む2】「白」をめぐって、を参照。
http://weekly-haiku.blogspot.fr/2014/11/2.html

〔*3〕実は『火ここになき灰』という本は、デリダがラジオ番組用に書き下ろしたシナリオなのだそう。本当に?と調べてみたらCDも出ていました。朗読はキャロル・ブーケ。

『欲望のあいまいな対象(Cet obscur objet du désir)』の女優がデリダの本をよむという露骨な符号。この企画は「私の思慕するおぼろげな何か(obscur objet du désir)」側から人間への、すなわち〈幽霊〉の側から〈あなた〉への呼びかけだったのでしょう。

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