2014-12-14

需要と供給 斉田仁句集『黒頭』と望月裕二郎歌集『あそこ』 樋口由紀子

需要と供給
斉田仁句集『黒頭』と望月裕二郎歌集『あそこ』


樋口由紀子

『MANO』第19号(2014年9月15日)より転載

川柳を書くようになって、俳句も短歌も身近に感じるようになった。一つの出会いはいろいろなものを引き合わせてくれる。今回は句集と歌集を一冊ずつ紹介する。

一冊目は斉田仁句集『黒頭』(くろかしら)。斉田仁(さいだ・じん)は一九三七年群馬県高崎市生まれ。俳誌「麦」同人。「塵風」代表。二〇一三年に『異熟』(西田書店)を出版している。「塵風」の句会は毎月一回東京根岸の西念寺で行われていて、一度だけ参加したことがある。斉田の軽妙な司会というか、座のまわし方が座を和ませる。機会があればぜひまた行きたい句会である。『黒頭』は二〇一四年に百句会編集局から出された。

『黒頭』は「くろかしら」と読む。黒の頭で、重々しい雰囲気を一瞬感じるが、その一方、「○○かしら」と疑問を投げかけているような、つい、「そうかしら」と答えてしまいそうにもなる。中身は気さくで、なんともいえないとぼけた味を満載している。

蛇穴を出てつまらんと言いにけり


穴の外は穴の中よりもいい、世界が広く、輝いていると、なんとなく思い込んでいることをさらりとひっくり返す。それも大上段に言うのではなく、「つまらん」の一言。一言が効いている。世間一般に思われていることをその通りなぞるのではなく、「つまらん」とはごもっともである。

大きな大きな葬式饅頭梅が咲き

誰かが亡くなったのだ。その弔いに参列した人に葬式饅頭が配られる。そんなに大きくはないはずであるが、「大きな大きな」と感じて、作者流に死者を偲んでいる。梅はいつもと同じように咲いている。

象のようなおなら建国記念の日


建国記念の日、つまりは紀元節。神武天皇即位の日を設定して祝日としたのである。天皇制の元祖。象のようなおならのような、なにかが臭う、建国記念の日なのか。象のようなおならのような、大きな音で言いたいことがある、建国記念の日なのか。「おなら」とそれも象の「おなら」と「建国記念の日」を並べるなんて、他の人にはなかなか出来ることではない。

仄暗きものに寝釈迦の鼻の穴


寝釈迦、釈尊入滅、つまり亡くなった姿である。鼻の穴はそりゃ暗い。でも、他に仄暗いものなんていっぱいあるに、よりによって寝釈迦の鼻の穴を見つけるとは。でも、確かに仄暗い。

仏壇に散る仏壇で咲いた梅

つぼみの時に切られて仏花としてくくられたのだろう。仏壇に花を供えるときは梅のつぼみはまだ固かったが仏壇で咲いて、仏壇の中で散る。そんな梅の一生もある。

簡易便所に仄々(ほのぼの)と散る桜

こんな桜もある。花見には必要に迫られて、必ず簡易便所が設置されている。だから、選ばれたその場所で咲く桜も当然ある。そこで咲いて散っていく桜。「仄々(ほのぼの)」がいい。作者のまなざしがやさしい。これから簡易便所の桜も気にかけて見ようと思った。

円盤投げしあとのよろめき秋終わる

たくましく、筋肉隆々の、円盤投げの選手が、円盤投げをしたあとでよろめく。いかに円盤投げが過酷な競技なのかをそのよろめきを見て思う。それに等価することがあったのかもしれない。よろめいて、ある秋も終わった。

ランジェリー売場をマスクして過る

「ランジェリー売場」と今でも言うのだろうか。作者の性別と年齢が想像できる。それにそこをマスクして過るなんて、余計にあやしい人になるのに、マスクしなければ進めない。これも作者の性別と年齢を想像できる。今はカップルでランジェリー売場にいく時代なのに、である。

句集なかほどの斉田仁のインタビュー「風の中」がまたオツである。
「上州っていうのはね、小説というよりも、短詩の風土が絶対にあるはずなんだよ。からっ風の国だよね。からっ風をまともに浴びて、あのなかへ立っていると、なんかちょっと気持ちが昂ってくるんだよ。旺然としてくるんだよ。なんか上手いことでも言ってやるべえかと思うわけだねぇ。だけど風のなかだから長いことできないからさ、短い言葉を、はっと吐くんだね。」
からっ風とは縁のないところに住んでいるけれど、なんとなくわかる気がする。仁さんは粋でカッコイイ。

にんじんをやわらかく煮る安楽死

「にんじん」と「安楽死」のアナロジー。

赤紙は季語ではないぞ若い諸君


今の若い人の言動を聞いていると本当にそう言いたくなる、見事な批評性。

古池や俺が飛び込む水のおと

なんといえぬ可笑しさがある、諧謔性。斉田仁は飄々と何食わぬ顔で立っているが、こちらにびんびんと伝わってくるものがある。

時雨るるやぽつんと赤き猿の乳

大根が地中でぬくぬくしていやがる

放蕩の末に海鼠になったのか


書き出したらきりがないほど好きな句がある。



もう一冊は望月裕二郎歌集『あそこ』。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一冊である。新鋭短歌シリーズはどれも優れた個性のある歌集だが、とりわけ、私が気になったのは本書であった。

望月裕二郎(もちづき・ゆうじろう)は一九八六年、東京生まれ。二〇〇七年から二〇一〇年まで早稲田短歌会、二〇〇九年から二〇一一年まで短歌同人誌「町」に参加していた。『あそこ』は二〇一三年にx出版された。

『あそこ』という歌集名が変わっている。このタイトルにするまでにはいろいろとあったらしく、望月は「言葉が『言外の意味』に縛られているということを批判的に提示するために、『あそこ』を選んだのだ。品がない、タイトルを見ただけで読むのをやめる人がいる、と方々から大反対をいただいたが、譲れなかった」とあとがきに書いている。確かに「あそこ」でまずイメージするものは、それほど品のいいものではない。しかし、それがすべてではない。言葉の怖さと深さを思う。

おもうからあるのだそこにわたくしはいないいないばあこれが顔だよ

われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よく生きたいのだがふくらんじゃった


言葉の意味性を見事に逆手に取り、意味を自在にからかっている。それも真剣勝負である。なぜ、『あそこ』が新鋭短歌シリーズの他の十一冊よりも気になったのか、それは意味の関わり方である。このからかいの接し方は川柳が元来武器としていたものである。

頭ひとつぬけだしているわたくしのなんだ頭ってここにあったか

穴があれば入りたいというその口は(おことばですが)穴じゃないのか

(あるいてもあるいても日本人)足が棒になるその棒でいじくる

戸袋にはさまれながら戸になってよかったあいた口をふさげる


「頭一つ抜け出す」「穴があったら入りたい」「足が棒になる」「あいた口を塞げる」の慣用句を下敷きにしている。慣用句は吸引力がある。辞書で引くとこう書いてあった。

慣用句とは独立した単語の複合により、異なった意味を持つようになった定型句であり、それらは通常、独立語、すなわち名詞として扱わない。

慣用句の一般的な意味に捉われていたら、これらの歌のよさはわかりにくい。否応なしに意味に引きずられてしまうことへの警告と抵抗が仁王立ちしているのではなく、意味をくるくるとまわしてひやかしている。

五臓六腑がにえくりかえってぐつぐつのわたしで一風呂あびてかえれよ

手前味噌ですが頭をでっかちにしてわたくしを消化する味噌


「五臓六腑」「手前味噌」の四字熟語。どう転んでも言いたいことを明確に示唆している。しかし、それらをそこそこ利用しながら、ねじ伏せ、ふっきっていく。合点がいくまで時間がかかる。これがあとがきで言う「言外の意味」なのだろう。できないと思っていた表現を可能にしている。

みつめあいながらうなずきあいながらまだあぶらぜみをやっているのか

ともにあるいてゆくつもりはないそのまんまむかれた蟹の脚でいてくれ

あらたな助詞がうまれないよう見はってる蝙蝠でいるのもつかれたな

外堀をうめてわたしは内堀になってあそこに馬をあるかす


飛び方も一風変わっているが、なによりもとんでもない着地の仕方をしている。言葉で見せる世界であり、フィクションだから書けることである。日常は実はとんでもない迷宮なのかもしれなない。




近年、俳句や短歌は多彩な句集や歌集が次々と出版されている。読み応えがある句集や歌集はこの二冊に限ったことではない。それぞれのジャンルの詩型を根に持ち、根をはった大木から、さまざまな枝が伸び、独自の花が咲いている。

『黒頭』も『あそこ』も言葉によって、おかしさや自由さをいかんなく発揮している。この味は川柳が本来持っているものであり、川柳においてこそもっと出てきてもいいものである。このような作品が川柳で生まれても決して不思議ではない。それよりも出てこないことの方がおかしなことである。しかし、残念なことに川柳ではめったにお目にかかれない。なぜだろうか。それはこういう類のものを生み出す道を閉じてしまっているためである。では、どんなものを求めているのか。それは誰にでもすぐにわかり、共感をする句、そこに限定している。

私が川柳を始めた頃、三十年ぐらい前にも、意味の通じない句は難解だと言われていたが、今はその比ではない。ますます、簡単でわかりやすいものを要求する傾向にある。昨今の数百人という集客力のある川柳大会の優秀作品を見れば、現在の川柳の質の低下はあきらかである。似たような、どこかで見たような句ばかりが並んでいる。わかりやすく、安心できて、道徳的で倫理的で、マンネリで、焼き直しをくりかえしている。川柳界の需要は今ここにある。需要はジャンルの器を示すバロメターでもある。川柳の器は日に日に小さくなっている。受け入れるものが偏り、読んですぐにわかるものしか佳しとせず、考えようとも想像しようともしない。それでは器が狭く浅くなっていくのは当然の結果である。みんなで渡ればこわくないなのか、みんなでそろって、川柳を劣化させている。家電の説明書のように、薬の能書きのように、意味が通じなければ、その川柳はおかしい、難解だと決めつけてしまうところでは、いつまでたっても、『黒頭』『あそこ』のような川柳は生まれてこない。

映画監督の是枝裕和の新聞のインタビューでこう語っていた。
 同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですよね。自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱まってしまっている。その結果が映画だと「泣けた」「星四つ」。こんな楽なリアクションはありません。何かと向き合い、それについて言葉をつむぐ訓練が欠けています。これは映画などに限った話ではなく、政治などあらゆる分野でそうなっていると思います。
 昨年公開した「そして父になる」も上映会では、観客から「ラストで彼らはどういう選択をしたのですか?」という質問が多く出ます。はっきりと言葉で説明せずにラストシーンを描いているから、みんなもやもやしているんですね。表では描かれていない部分を自分で想像し、あの家族のこれからを考えるよりも、監督と「答え合わせ」してすっきりしたいんでしょう。
川柳は是枝の指摘する世界の先頭を走っている。

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