【301号-400号アーカイブ】
Re-ad(読むこと=再‐広告)としてのアーカイブ
「≫読む」のパサージュをぶらつきながら――引用集
福田若之・編
読む。
(第396号 2014年11月23日【2014落選展を読む】■1.その年の事実……堀下翔 ≫読む)
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読む声に山と谷あり歌がるた 柏柳明子
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一年を振り返るにはまだ早いのですが、ちょっとだけ振り返ると、今年は、その必要があったわけではなく、何となくそうしたいと思って、大昔に読んだことのある本を再読したり、大昔に観たことのある映画を再び観ることが多かったです。
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僕は時々夜のコンビニに出かけ、店内をうろうろして、何だかよくわからない雑誌を立ち読みして、気が済むと肉まんか缶コーヒーを買ってからトボトボ帰る。
ふー、寒いなぁ、何やってんだろ、と思いつつコンビニの灯を離れ暗い夜道を歩く。
これが結構楽しくてやめられない。
ふー、寒いなぁ、何やってんだろ、と思いつつコンビニの灯を離れ暗い夜道を歩く。
これが結構楽しくてやめられない。
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彼らは桜庭一樹や小川洋子、伊坂幸太郎などを愛読し、マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』を読みふけったりする。俵万智が好きという生徒、また佐野元春のファンもいれば、K―POPに夢中の生徒もいた。
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うちには今テレビがないから、話題の朝の連続ドラマも観ていないし、きのう読んでいたのは皆に話すには地味な本だし、最近うれしかったのは薄紫のすごくきれいなトルコキキョウを買ったことで、最近びっくりしたのはそのトルコキキョウの花びらに毛虫がひそんでいて、朝起きたらそれがぴったり茎にはりついていたこと。
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ドアを開けてみると、きちんと座って優良図書などを読んでいそうなのが「よい子」である。どこから見ても誰から見ても「よい」ということだ。
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句集を読む習慣のない私ですが、休日にアニメサイトで日がな一日アニメを見たりするとさすがに気分を変えたくなって句集を手に取ることもまったくないわけではない。
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この句集を読み終わるのは大変。頁を捲る度に呆然として、頬杖など付いてしまうから進まないのである。なにしろ唇を舐めてみては、なるほどー、とか、ホントだわー、なんて思っているのだから進まない。7ページから始まる俳句の、ここはまだ11ページ。19ページに、私がひどく痺れた俳句がある。けれど決心して、今夜はこのまま素通りする。
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読みかけの本に指を挟んで家の中をうろうろするのは何も正月に限ったことではない。
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どの作品を読んでも、この作家の細胞からでている分泌液のようなものを感じる。
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どれも作者の身体感覚を潜って言葉になっている。だから、読み手も、躑躅の量感や卵黄のぬめりなどに共に感覚を働かせてしまう。
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俳句を読むとはどういうことだろうか?無理矢理意味に還元する必要のないこの句のような場合、読むこととは作者の提示する映像枠に作者と一緒に入ることではないか。(『日本語は映像的である』熊谷高幸。この本は俳句に示唆的)
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初めに私は、五十句作品をまず「一句一句として読んだ」と書いたが、
私自身は、俳句はまず、一句一句で独立して読まれるべきものだと思っている。
そのうえで、同じ作者の句が複数並んでいたなら、その句群として読まれるべきだとも思っている。
私自身は、俳句はまず、一句一句で独立して読まれるべきものだと思っている。
そのうえで、同じ作者の句が複数並んでいたなら、その句群として読まれるべきだとも思っている。
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知っている人の句集を読むとき、当然その人の姿が脳裏に浮かぶ。
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間村俊一さんは高名な装幀家で、私が8月初めに出版する予定の句集の装丁も間村さんのお仕事。俳人でもあるとお聞きしていたので今回作品を読むことができてうれしかった。
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歌を読んで、実際にあったことか、頭の中で言葉を組み合わせて作ったことかは、かなりの確率で見抜けると思う。一首ではだまされても、歌集一冊なら、ある いは何十首かの連作なら、だまされない。その人の体重が乗っているかどうかは、どうしても分かってしまうんじゃないかと、個人的には思っています。
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ユーミンの歌の歌詞に「目に映るすべてのことはメッセージ」というのがあったが、この句群を読んでいると「目に映るすべてのことはまがいもの」という気がしてくる。
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しかし本来、俳句を読むときは作者名に左右されず、まっさらな気持ちで一句一句と向き合っていくべきである。
瀬戸正洋さんだからといって、いつもいつもやくざ映画みたいな俳句を書くとは限らない。
瀬戸正洋さんだからといって、いつもいつもやくざ映画みたいな俳句を書くとは限らない。
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ことは表現の問題であり読みの問題。人体はあらゆる場所のあらゆる時間を動き回る。それを纏めて人間と言う。
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常套を抜け出すためには時代を越え枠を越え縦横に数多く幅広く読むしかない。
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上田 「半年分の近詠から選ぶ」というアイデアが浮かんで、ようやく「あ、できるかも」と思いました。期間を区切れば、すでに名前の出ている人も未知の人も、作品を全部読める。全部読んで判断しましたと胸を張って言える作り方をすれば、自ずと俳句の現在の「鏡」と言えるリストになるんじゃないかと。
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しかしながら、それはただ集める「学」というだけではすまないであろう。昆虫であれば、その構造から生きていた時の様子を色々想像できる。それで不明の部分は現場に出て生態を観察することになるだろう。子規の俳句分類であれば、句が同時代の文脈に置かれたときどう読まれていたか、いまならどう読めるかを考えることにもなるだろう。
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『現代日本文学大系』(筑摩書房)の年譜から引く。秋桜子「大正9年 28歳 一年あまり窪田空穂の指導を受ける」。青畝「大正15年 27歳 このころ万葉語を句に詠みこみはじめた」。誓子「大正9年 19歳 啄木の短歌を愛好」。草田男「昭和2年 26歳 茂吉『朝の蛍』を読み感銘を受けた」。不器男「昭和3年 25歳 『万葉集』を読みかえし、茂吉、赤彦らの歌論に傾倒した」。楸邨「大正10年 16歳 この前後から短歌を作り、啄木、茂吉、白秋、千樫を愛読」。
これらの俳人は多くの近代短歌を愛読しただろう。
これらの俳人は多くの近代短歌を愛読しただろう。
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最近、機会があって、氏の手がけた渡佛日記について調べ、氏がフランス滞在をきっかけに書かれた本を読みなおした。すっと悔いのようなものが消えた。物にも人にもきっと会うべき時には会う。あの時はきっとお会いしなくてもよかったのだなと思う。
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結局、ぼくたちは調べ物もそこそこにして食事してしまったのだったが、いいのかこんなことで。いつもいつも。ヒノコさんは食べ終えて、CASA BRUTUSを読んでいる。いいのかいいのか。ぼくは山頭火を読んでいる。
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後年、岩館真理子『キララのキ』を読んだ時、美しい人形を巡る姉妹たちの愛憎を描いた物語に魅了されつつも、怖くて何処かへしまいこんでしまい、今読みたくても見つけられずに困っている。
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〈引用〉された書名=書物が、そのテクストの内部を参照されながら句に節合されていくのではなくて、むしろ「縛り棄て」「ネット社会」というテクストを取り巻く〈外部〉を参照しながら、そのテクストの〈内部〉が読みかえられていくという、〈引用〉による実践がなされているのではないかと思います。
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「は? 見えざる位相? それ別にアウトローと関係ないし。メルロ=ポンティの『読み』だって不可知なるアソコに狙い定めてヤッてんだけど?」
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「週刊俳句」が第400号。この記念号に合わせ、柳本々々&小津夜景でリーディング・セッションを試みました。
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今回、俳句の評を頼まれましたので、このアナグラムを駆使して句の音韻構造に着目して読んでみたいと思います。意味を解体して音だけの丸裸にしますと、普段とはまた違う面白い風景が見えてきますよ。
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この和歌を、われわれはどう読んでいるのでしょう。ここで「読む」というのは、「解釈する」ではなく、「音にする」という意味です。あなたはどうでしょう。
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実際に披講の上手い選者の読み方を聞くと、だいたい中七と下五の間を詰めて読んでいる。
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かるたの読みとつかず離れず、リズミカルでありながらどことなく憂いを秘めた歌詞からは、古い俗謡のような素朴さが感じられる。
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「ノス」「ソク」「モク」「テキ」「テル」がそれにあたるのだが、これらはつまりそれぞれnos、sok、mok、tek、telとして読み下されたのだと言える。要は、日本語がカナの呪縛を離れてその音律を限りなく英語的なsyllableに近づけて受容されたときにこのような韻律感覚が生まれる。
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俳句を読むときには黙読していても頭の中では声を出しているものである。
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四ツ谷はアラン・バトリーの記憶モデル「ワーキングメモリ」を参照して、俳句を一度耳で聴いただけではその俳句がどのようなものかイメージするのが難しい、なぜなら、言葉と言葉の切れ目がわかる日本語の記憶は長期記憶になりやすいが、耳で聴いた音が音韻貯蔵庫に入っている時間は1.5~2秒ほどであり、 一度目に俳句を読む場合は反芻する必要があり、記憶のプロセスが異なることを指摘している。
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〈どんみり〉という言葉がわからなかった…。わからないまま読んで、音として〈枇杷の実〉との相性の良さに惹かれた。そして、上五を「どんより」にしてもう一度読んでみると、つまらない。
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「おほかみ」のひらがな表記のやわらかさ、A音のおおらかさと句跨がりが生む独特の韻律が相まって、読後にある神々しさが香った。
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その卑小な昆虫との一瞬の邂逅と別れが作者に如何なる感慨を与えたのか、俳句という形式は黙して語らない。ただ微かな羽音がくぐもった耳鳴りのように長く読者の脳裏に残るだけである。
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深い意味などない、単にそれだけのことを詠んでいるのに、優しくて可愛らしくて透き通っていて、響きのよい小さな楽器をもらったみたいに何回も読んでしまいます。
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大祐●夏は涼しい蒲団だから「夏蒲団」、冬は寒いからあたたかい「蒲団」、というように季語の本意を素直に読むと、僕の中ではこの句の蒲団はあたたかく思えます。
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この句を読んで、そのカップルを思い出した。過去にいろいろある者同士が泥鰌鍋をつつきながら語らっている。燻し銀みたいな二人。
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静謐な広がり、時間、心持ち。でも、「ヤマボウシ」とカタカナ表記を使用することで生じる一定の距離。つかず離れずの世界観が読み手にとって心地よい。
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作者は髪を切って何かを吹っ切ろうとしているに違いない。読み手に句の裏のそんな事情を推測させるドラマチックな一句だ。
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俳句を作る場合も、自身の俳句を読む場合も、私たちにとっては自分自身を知るための行為なのだ。必然的に、過去への旅を希望する。ばったの場合も同じことなのである。過去への旅行を経験したばったは先へ先へと逃げることを止めるのかも知れない。
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双々子のことはよく知らない。じっくり句集を読んだこともない。亡くなった長澤奏子さんは双々子の主宰する「地表」には所属していた。俳句も双々子の影響を受けているだろうが、上記のような双々子の句の感触とは違う印象がある。
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それでも、多くの人が晴子の句に魅了され、俳句が書けなくなると晴子を読むんですと話してくれた俳人もいる。晴子について書かれたものは多数あり、いまも語られる。時代が変わっても梟は啼くのだろう。
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■〈本降りになって出て行く雨宿り〉という古川柳がある。これは他者に対する揶揄。だが 〈桃缶〉となれば話は別。一方で、三鬼の〈中年や遠くみのれる夜の桃〉があり、併せ読めば、それが「缶詰」であるというところに一種の滑稽とそれに伴う哀感さえ覚えるのだが、やや読み過ぎか?(谷口慎也)
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宛名のない荷物は果たして届くのでしょうか。もしかしたら、小さな部落に住んでいて(離島とか)、宛名がなくても差出人の名前などから、どこへの荷物なのか配達人が判断出来る環境にいるのかもしれません(「東京に行ってる息子さんからだよ。ちゃんと宛名書かなきゃねぇ。」とか)。しかし、この句からそこまで読み取るのは難しいと思います。
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郵便受から手紙を取り出したときに、後で読めばいいものと、今すぐ読んでみたいものとを一瞬にして見分けることはよくあることだが、鋏も無しにその場で手紙を破いて読み始めるというのは、今やごく限られた行為だろう。
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想像力やコミュニケーションを全く信用しないのでは、俳句に関わる意味はないだろう。そうでなければ、たとえば震災について詠むことができるのも、それを読むことができるのも被災者のみということになってしまう。
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「黒い浪」は一ページに一句の句集ですので四五日で読み終わるだろうと思いながら開きました。それが、
地鳴り海鳴り春の黒浪猛り来る
の句に差しかかりましたら、もう怖くて読めないのです。
地鳴り海鳴り春の黒浪猛り来る
の句に差しかかりましたら、もう怖くて読めないのです。
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佳世乃さんのリポート、また、昨年作成した作品集も読ませていただきました。また山崎祐子さんから直接話も聞きました。
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もっともテキストに即せば、震災と関連しての解釈から離れての読みも成立する。上揚句の前後に震災関連句が並ぶのでどうしても引きずられるが、役に立たなくなったクレーンの即物的な表情と見るのも味わいがある。
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そんな、「勝手に」自然・四季の存在しているような場所での風景を切り取ったものとして、今泉礼奈の「くるぶし」を読み、勝手に故郷の風景に懐かしさを覚えた。
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外山一機『上毛かるたのうた』は、自身のルーツに対する痛烈な皮肉と郷土愛が入り混じっているように感じられたが、意図するところがわたしには、まだ読みきることができていないように思う。
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全編を通して昔話の童謡のような気持ちで読んでいたが、〈わたしをすきいにつれてつて〉なども入るので現代的(バブル的)な部分がおかしみも感じさせる。
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私の俳句の読み方は、器を観る、選ぶときの感じと似ているかもしれない。かたち、色合いもさることながら、とりわけ手にしたときの「手触り」を大切にしている点でそう思う。
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読み解くことの愉しみ、味わうことのここちよさ、その微妙な差異のようなものを感じた。
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作者も読者も無意識的に感覚をはたらかせて、俳句をつくり、読んでいるのだけれど、エクリチュールとしての俳句は、ひとりでに、その感覚を自由に操作しているようにもみえます。
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しかし、両者は切り離して読むのではなく、全体を一つの作品として読み味わうもののようである。
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実は、今回初めて拝読しました。
週刊俳句がこんなに濃い内容で面白いとは始めて知りました。
週刊俳句がこんなに濃い内容で面白いとは始めて知りました。
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今年も多士済々、本格派・古典派から“どこへ行くんだ派”まで読んでいて飽きない。
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ふらここに関する疑問が生じた際は、とりあえずこちらの(I)FAQ集をお読みの上、それでも解決しない場合は窓口 furakoko.819〈at〉gmail.com (〈at〉をアットマーク@にご変更ください)までお問い合わせください。
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私は俳句を作り/読み始める前に、枡野浩一さんや穂村弘さんの本で現代短歌に興味を持ち、その流れで当時書店に終刊号が置かれていた「短歌ヴァーサス」を 読んで、荻原さんのしている仕事が、(「週刊俳句」も似たような性格を持つ)オルタナティブなメディアを作ることであるように感じていました。その荻原さんが「週刊俳句」に登場したのを見て、おお、重なった、と自分の中で勝手に思いました。
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俳句での読みがどういう方向へ向かってなされるか、ということがよくわからない。川柳では、とりあえず句の「意味」を読み取ろうとするが、大方の川柳人、とくに伝統系と呼ばれる人々にとって句群は「難解」と映るだろう。
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なにくそ!と思って歳時記を買って「俳句、はじめました」というエッセイを読んで、むかえた2回目に句会。
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十月の作品群を読んで、「嗚呼、秋だ」という実感に満たされた。
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無時間をたゆたうような、読むことのぜいたくを味わえる十句である。
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一読、読み下すと滝壺をめがけて落ちゆく滝の姿が轟音、飛沫とともに立ち上がってくる。
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異界冥界を行き来しながらこの世に向けて打ち上げられた真昼の大花火、読者は只その燃えカスを全身で受けるしかないのである。
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中七までの流れだけで読むと、非常に重い句であるように思わせる。しかし、下五に「雪の弾」ときたことで、思わず「おっとととっ」躓く様な展開で句を落ち着かせているように思う。
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炎天下で働く労働者や練習に励むスポーツ選手の日焼けに比べれば、「桃色」の日焼けなど可愛いもの。わざわざ見せに来ているところからも、それが子供の行動であると読み取れる。
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実際には守らねばならないほどの風と花びらの量だったのかもしれないが、読まされる側からはこの大げさ加減が何とも楽しく、色彩を感じられる一句だ。
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一読即共鳴の句であった。
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一読、「ペンギン鳥」とは何か悩んでしまった。ここでは、「こどもひとり来て/ペンギン/鳥にあざけらる」と読むべきか。人間の子供とペンギンと空を飛べる鳥と、三者の様子を詠んだものだろう。
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「鍋釜に把手やさしき」までで切って読んでみたい。「鍋釜」の「把手」が人にやさしいのではなく、「把手」が「鍋釜」にやさしいのである。
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幾つもの意味で読めて、想像が膨らむ。
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どの読みを採るにせよ、掲句を読むたびに中国の古俗から生まれた「ふらここ」という季語がロココ絵画と出会ったことにより、21世紀のきっと何て事の無い公園のぶらんこが持つ無限の可能性を描きうることになった不思議さをしみじみと感じ、楽しくなってしまう。
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心惹かれる句は誤読を恐れず深読みしたいと思う今日この頃。
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しかし私は敢えて「誤読」を試みたい。
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なるほどそれならば苦労して地方から出てきていまや世界的なアーティストとなったきゃりーの内に秘めたるふるさとへの思いを読み込んだ句として解釈できるかもしれない…と思ったが、調べてみると彼女の出身地は、「東京都」。あえなく撃沈。
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なんでしょう、この読後感。覚え書のようなスケッチのような。
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僕はこうした俳句を読んだことがありませんでしたから、面白いと思いつつも、どうしたらよいものか戸惑っていました。
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この作者の、動物俳句シリーズをもっと読みたくなってきている。
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読んだ者にはいかにも春らしいのんびりとした空気感が伝わり、愉しい気分になる。俳句ってずるいなぁと思うのだ。
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放哉の句を読むと、これほどまで命を懸けて死の淵までに自身を追い込み、心身とも劣悪な状況に置いて、真摯に精進しなければ純化された「詩」は生まれないのかとの怖れすら感じられる。
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それは行為の反復が永遠に続くことへの恐ろしさというより、この柚子の数を数えなおすという行為が私の内部に読む前から既にあったということに読んだ後に気づかされることへの恐怖である。
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震災の記憶が生々しいどころではなく、猛烈な余震が続く最中に書かれたものなので、今となっては忘れていることの方が多いかとも思ったが、読み返してみると意外と大体覚えていた。
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『萬の翅』を再度読んだ際には、また別の感じを持った。
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だが、何度か読み返していると「いや、これでいいのだ」と思うこともある。
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ええ、ええ、そうですよ。どうせ教養ありませんよと諦めかけたのですが、何度か読み返すうちに、もしかしてこの作者の根底にあるのは言葉に対する愛と疑いではないかと思い至りました。
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ゆるやかな動きとその印象が、読むたびに少しずつ像になってゆく。
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その癖ちらちらと拾い読みをし,結局のところ,全句を堪能した。
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「金秋」(秋の異名)はなかなか使われない季語なので、読者としては得した気分。
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どんなに美しい言葉も、読まれ、書かれなければそれは化石でしかない。
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金原 どんどん書き換えて、読み換えていけばいい。露結さんは、人間以外のものの言葉なら金原まさ子だろうとツイッタで書いてくださったのよね。
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他にも読み手によって異なった解釈があると思うが、俳句の多義性を興趣として感じられる一句であった。
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俳句は読者を「引き込む」文学ではなく、読者の中に「入り込む」文学なのだから。
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作品は読者のものであるが、同時に、評価は決して絶対ではないのだから。
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変態についての見識の如何は、読者が句をもって判断されればよいことです。
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