2015-01-25

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし 田島 健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】

思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈第一章〉浮遊することばたちと許されたわたし


田島 健一





01.花束(泉かなえ)

夜空に浮遊する星のいくつがつながって星座がつくられるように、俳句もまた浮遊することばがつながれて〈意味〉や〈イメージ〉を生成する。不思議なのは、この「ことばがつながれて」いる、ということだ。

誰からも見られたい夜百日紅  泉かなえ

この句の「誰からも見られたい夜」と「百日紅」とのあいだに「切れ」があるということは、逆に言えば「誰からも見られたい夜」の部分はつながっている、ということだ。このことにすべての読者は同意してくれるだろうか。

例えばこれを「誰からも見られたい/夜百日紅」「誰からも見られたい夜百日/紅」などと「切る」ことは、馬鹿げたことだろうか。仮にそれを「馬鹿げたことだ」と感じるとすれば、それは、私たちが「誰からも見られたい夜」という「つながり」の中に、それをつなげた「誰か」の声を聞いているからに他ならない。

「誰からも見られたい」のは誰か。

もちろん、その「誰か」というのは、読み手自身が生み出したひとりのキャラクターであるにちがいないのだが、大事なことはその「誰か」が語ることを許されている思想的空間が前提となっているということだ。つまり、それを言う誰かはそれを「言いそうな」誰かである。そして、その思想的空間が「信じられている」ということこそが、この「誰からも見られたい」という「つながり」に〈意味〉を与えている。

かつて中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句よりも前に、志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句があったことはよく知られているが、ここで「明治は遠くなりにけり」という同じことばの「つながり」から、異なる〈意味〉が生成されるのは(上五に置かれた季語のみならず)諸々の情報によって構成されたこの句の思想的空間の差異に他ならない。

ここで与えられる〈意味〉を支えている思想的空間とは、ことばとして書かれた句の文面に「主題化」されたものとしては表れない。それは「泉かなえ」「中村草田男」という作者の署名やプロフィール、「百日紅」「降る雪」という季語、時事性、国民性、血液型…など知りうる情報すべてを足がかりとして構成された〈無意識〉であり、仮に「私は余計な情報に左右されず、そこに書かれたものだけで俳句を読む」と宣言したとしても、そのような宣言にさきがけて思想的空間は「読み」の前提として読み手自身を捕捉するのだ。

つまり、俳句においてことばを「つなげた」誰かの〈声〉とは自分自身の〈声〉だ。俳句を読んで「おどろく」とき、それは、そのとき聞いた自分自身の〈声〉が、まるで別人のように聞こえたときに他ならない。

見逃してはならないことは、詠み手自身も作品を書きながら、そこに自分自身の〈声〉を聞いている、ということだ。

鉛筆を削るにほひや夏座敷  泉かなえ
砂壁をたどる踵や冬に入る
あつち向いて頬の黒子や冬銀河
日向ぼこ何度でも初めての気分
ひこばえや上唇のはうが好きよ
ミントまで食べてしまへよ夏の星

これらの句の「鉛筆を削るにほい」「砂壁をたどる踵」「あつち向いて頬の黒子」「何度でも初めての気分」「上唇のはうが好きよ」「ミントまで食べてしまへよ」といった部分が差し出しているものは、それらが〈意味〉することが許されている思想的空間そのものである。

「にほい」「初めての気分」「見られたい」という感覚表現、「踵」「頬の黒子」「上唇」という身体表現、「好きよ」「食べてしまへよ」という呼びかけ。それらに共通した「身振り」は、これらの作品があるひとつの幅のなかで世界から承認されていることを示している。

それは、そこで〈声〉を聞きとった私自身が生きる世界の広さであり、私自身に許された〈限界〉である。

俳句を書くときに問題になるのは、その〈限界〉に楔をうつことに他ならない。私の〈声〉がひびかせる私以上のもの。それはいったい何なのか。どのようにすれば、私は私を過ぎ越すことが可能なのか。

〈第二章〉へつづく

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