2015-02-15

【鴇田智哉をよむ 10】しぼりだされるトポスへ 小津夜景

【鴇田智哉をよむ 10】最終回
しぼりだされるトポスへ

小津夜景


テクスト分析とは或る作品を還元し、組み替え、そのオルガニズムを再構築することで、作者の遺伝子を色濃く受け継いだ別の生命、言うなれば〈作者の認知していない非嫡出子〉を出産させる試みです。

この試みにあたって私は、①バレットタイム、②ディアファネース、③アンフラマンスといった三つの原理を鴇田智哉の俳句に持ち込み、その還元と再構築との過程から、あくまで無理のない自然分娩での「産婆術」を行おうと努めてきました。

作品を還元することの利点は、それがテクストの〈余剰〉を必ず取りこぼすことにあります。還元の方法が適切であることを大前提とした上で、なお読解に取りこぼしが多いとなれば、その作品はそれだけ多様な価値との互換性をもつといえる。つまり還元主義的読解は作品の内包する〈還元されえない命〉をより鮮明化するのです。

さて、この【鴇田智哉をよむ】は今回でおしまいです。というわけで、私が『凧と円柱』に対して感じた〈落とし穴〉について最後に述べてみたいと思います。

まずテクスト分析の結果から言って、句集『凧と円柱』は前作『こゑふたつ』と比べ遥かに図式的です。『凧と円柱』は前作より語彙が増えたことや、ことばの観念的嗜好が抑えられたことで、表面的にはカラフル&リーダブルな豊かさを得ることとなりました。とはいえ分析的な読みに抵抗する力、すなわち〈還元されえない命〉といった真の豊かさ関しては以前と比べて減じたと見るべきでしょう。

とても似ているように思える二つの句集。けれども『こゑふたつ』の句はそれぞれが「いきもの」の姿をしていました。各句がそのまま原生動物であり、伸びる糸であり、時空を生み出す奇蹟であったことは、あの句集があからさまに「線を引くこと」を出発点としていたことからも分かります。さらには好き勝手にひょろひょろと泳ぎ、みずからをほどいては新たな現象を編みなおす「いきもの」たちを、作者みずからが追い回して言葉にしてゆく様子も非常に生々しかった。

これに対して『凧と円柱』では、作者自身の居所とパースペクティヴとが、きわめて定位的・図解的に認識できるようになりました——あたかも世界の側からの複雑な語りかけが、作者自身おなじみとなった作句原理のモジュールへと一元的に変換されてゆくに過ぎないかのように。実際、こちらのテクストは還元された段階でかなりの部分が読み終えられてしまい、表現の意図がわからない箇所の諸関係を構造的に読み直す必要性が前作と比べて低い(つまり予想可能なことしか句中で起こっていない)というのが個人的な実感です。

これは批評であり、感想でも評価でもありません。私の感想を言うなら、この句集の美しさを、この先いくど同じ事がくりかえされても構わない純粋な喜びとして享受しましたし、また評価を言うなら、この句集の方法論とその達成度は、それが独自のものであることも含めて最大限に称えられるべきだと思います。そう、前作と比べた時、鴇田はとても巧みに〈世界を作品化する〉ようになったのです。そして私の考えるところそれは、作者の理解しうる範疇で句がコントロールされていること、すなわち作者の与り知らない〈私生児〉の生まれる可能性がきれいに葬り去られてしまったことを暗に意味しているのでした。

しかしながら「見通しの良い作句原理に依拠する」といった態度は、鴇田のような「時空が時空となる以前の〈間〉のひろがり」が重要とされる句の場合、とてつもなく危うい落とし穴となるかもしれません。なぜなら時空以前の〈間〉と関わる以上、作者の居場所は定位的であってはならないのですから。ところが『凧と円柱』は、作者が安定的な原理と居所を保持した上で繊細な事柄を語る(ふりをする)といった態度とほとんと紙一重ではないか、もしかすると鴇田はこのままそのような〈繊細を騙る通俗性〉へ向かうのではないか、と危惧される瞬間がありました。

この完成度の高い句集が、作品から損なわれつつある〈不安定性〉をふたたび回復するためには、おそらく今いる場所からさらに〈ずり落ちて〉ゆく必要があるでしょう。しかしどこへ向かって? それについては、たとえば次のような句が教えてくれるのではないでしょうか。

  つはぶきは夜に考へられてゐる   鴇田智哉

この句に見られる文の屈折。ここには、テクストがテクストそれ自身から〈間と思考〉を搾り出してゆく過程、すなわちことばが自らの肉を切り裂いて新たな生命を出現せしめるプロセスといったものが如実に現れているような気がします。しかもこの句の〈間と思考〉が、まるで物質さながらに夜の中を(つまり光ではなく闇の中を!)曲がりながら伸びてゆくさまも、鴇田のディアファネースのあり方としては異色です。

〈間と思考〉が、闇に〈屈折〉しながら、みずからを引き伸ばしてゆくといった現象。果たしてその闇に搾り出されるものとは、作者自身のいまだ認知していない新しい命そのものではないでしょうか。

そしてもうひとつ、掲句の「つはぶき、夜、考え」といった抑制の効いた思弁的情緒が、三橋鷹女「つはぶきはだんまりの花嫌ひな花」との間で〈磁場の引き合い〉を起こしていることにも注目すべきです。掲句にとって、鷹女の句は単なる「想起されうる重要な句」といったものではありません。鷹女の句は、鴇田の既に自己完結的なレベルに達した作句原理を瓦解させる〈外部〉ないし〈現実〉としてひっそりと、しかし確実に働いている。このような「テクストがその外部との引き合いを甘受する」といった現象は、鴇田の作句において極めて珍しい事例です。

〈言葉が言葉それ自身を搾り出してゆくプロセス〉にまつわるバレットタイム。〈光ではなく闇〉のディアファネース。〈テクストとその外部との間で引き合い、明滅する磁場〉としてのアンフラマンス。鴇田を支える三つの原理の、例えばこのような書き換えが、鴇田の今後の俳句にふたたび〈還元されえない命〉を呼び込むことになるのではないか——あまりに素朴な道筋の付け方ではあるものの、とりあえずの展望としてそのような考えを提出しつつ、私はこの文章を終わりにしたいと思います。

〈了〉

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