2015-02-08

【週俳・2015新年詠を読む】あらタマる  笠井亞子

【週俳・2015新年詠を読む】
あらタマる

笠井亞子


にんげんにふぐりあること初笑   松本てふこ

<ふくらみがあって垂れているものをフクロ・フクリといったのだろう>
「ふぐり」を引いたら広辞苑にまずそうあった。

種(しゅ)を継続させるための大もとである、文字通りの「タネ」を製造・貯蔵するのに、袋入りにせよ外部に露出する形態というのはあまりにも無防備ではあるまいかなどとも思うが、何か生物学的理由があってのことだろう。

このうえなく大事なふたつのタマを維持するための機能のすばらしさ(たとえば温度変化に対応しての伸縮など)について、丁寧な説明を受けたこともあるが・・・。

そりゃあわかりませんよー 身体の中心にこのようなフラジールなものが下がっている感覚など。持たぬ側の作者もわたしも、たのしく想像するだけであります。

にんげんの半分には付いている(のだなあ)「ふぐり」について、年頭から考えさせてくれたこのおおらかな句に初笑い!


新玉のmailのメーも御慶かな   高山れおな

新たな年に届いたメール。干支の鳴き声も入っておチャメーな仕立てだ。

真価が発揮されていないというイミの「あらたま」もふくむし、「玉(ぎょく)」の意味合いもおのずとあるので、メールの出し主が若い女性のような気がしてしまう。とすれば、女性がこれからどんどん磨かれてゆくという「お慶び」かも。


てのひらに遠き手の甲年明くる   山田露結

手の仕事はすべて、てのひら側がやっている。それにひきかえ・・・。そんなことを言いたいわけではないだろう。
たしかに、料理人が手の甲に乗せて味見するなんてこと以外に、手の甲の仕事は思い浮かべられない。

しかし、この「遠さ」はそんな理屈をこえてよくわかる。
なぜだろう。

身体の背と腹のような表裏の感覚とも違う。

両者の間にあるものとは、たとえば東へとことん進んで行けば、やがては西に行きついてしまう、そのような遠さ、あるいは近さなのではないか。
これはもう丸い地球の上ならではの感覚と言っていいのではないだろうか。


太陽(ひ)の貎がきのうのかおと異うのよ   金原まさ子

年明けて見る太陽のようすが去年とはあきらかに異なるという。このようなスケールの感慨。太陽暦世界の中心である大タマを「お隣りのひー嬢」のごとく呼ぶ作者の君臨ぶりがみごとに女王様である。(まさ子句に、まれにあらわれる語尾「だな」が王様的なら、この「のよ」は女王的)

あらゆるものを玩具化し文様化するまさ子ワールドは、今年も絶好調なのだ。


繭玉に夜のマネキン人形が   鴇田智哉

繭玉は豊作祈願の餅花の一種。ほんものの繭を使うと思っていたら、米粉などを丸めてつくるらしい。
その白い玉にマネキン人形がどうした、ともこの句は言っていない。正月飾りをほどこしたウインドウディスプレイの実景にも見えるが、夜である。

繭からつむぎだされた繊維をまとい、人工的な光を浴びた人間のニセもの=マネキンは何を見ているのだろう。
繭玉のさなぎは感応して振動を始めてはいないか?

人形が夜どのようであるかは、そう、誰にもうかがいしれない。


≫2015新年詠
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