2015-02-08

【鴇田智哉をよむ 9】宙にあそぶものたち 小津夜景

【鴇田智哉をよむ 9】
宙にあそぶものたち

小津夜景

 
  息をのむエレベーターといふあそび   鴇田智哉

この句、どことなく阿部青鞋の香りがします。たぶん「息をのむ」という言葉の使い方に、身体に対する奇特な親愛が感じられるせいでしょう。

実際のところ青鞋の句にみられる身体性は、関悦史が解析しているように「鏡像段階以前の統一されない多幸的な身体感覚」への偏愛
〔*1〕に基づいているので、鴇田智哉のそれとは違う。いや違うどころか、実は今回とりあげる句は、彼独自の作句法がオーケストレーションを成していると言ってもいいくらい、作家その人らしい作品です。

この句を分析すると、まず「エレベーター」というのが、作者を包みこむ皮膜ならびに自己と世界との界域を担う〈ディアファネース〉の役割をしています。そして作者は、そんなディアファネースの内部で上下する〈線的運動〉を体験し、ドキッとして楽しいな、と思う。こういった内容です。

ここでの「息をのむ」体感については、ふたつの文脈が考えられます。ひとつはエレベーターが静止と運動との境界をまたぐ際の〈アンフラマンス感覚〉で、もうひとつはエレベーターが階移動する際の〈バレットタイム感覚〉です。

エレベーターが動き出そうとしているときや、止まろうとしているときって、なんともいえない緊張を覚えますよね。まさに息をのむといった感じの。他人と一緒に乗っていたりなんかすると、なおさら居心地が悪い。はっきり動くか止まるかしてくれれば割と平気なのに、身体のマッピングが微妙な状態に置かれた途端、他者との距離感までが恐ろしく不安定になる。あれ、どうしてなのでしょうか。あるかなきかの虚薄、〈アンフラマンス感覚〉をめぐる謎です。

で、もうひとつの〈バレットタイム感覚〉ですが、エレベーターというのは上昇する時、体に重力がかかるのが分かります。逆に下降する時は、内蔵がふわっと浮く感じになる。つまりどちらの場合も、移動の向きとは反対の方へ身体が引っぱられている。ここから読者に分かるのは、エレベーター内に生じる線的運動がまさに〈生ける間において引き裂かれる身体〉をリテラルに引き起こしている、といったことです。

この〈生ける間において引き裂かれる身体〉について、これまで私はいくども言及を重ねてきました。例えば「こなごなに凍てながら日は水底へ」や「ゆふぞらをつらぬく胼の体かな」といった句を、

伸びゆく線からうまれる〈生ける間〉が、現在性を無限に引き裂くことによって成り立つがために、それ自体の亀裂を同時に引き起こす原理(「生きながら永眠する日、それから」)

として見たり、また「風船になつてゐる間も目をつむり」の句について、

風船という皮膜になった作者。それは膨らめば膨らむほど、意識の浮揚感を増してゆくことでしょう。またそのときゴムの膜は薄くなってゆくので、身体は八つ裂き感を強めることになります。つまり風船という〈半透明の皮膜〉は、私と世界とが未分化の場所で引き伸ばされると同時に引き裂かれてゆくという〈生きながら/死んでいる/ことを知る〉時空の原理そのままを、目に見える境地に実現したすごいアイテムだったのです。(同上)

と考えてみたり。こうした境地を実現するアイテムとして、エレベーターをすら発見してしまう鴇田という人は、やはり自分の価値観に対してどこまでも保守的にふるまう作家だ、と断言できるでしょう。

ところで、エレベーターで想定しうる最大の「息をのむ」事態といえば、どう考えてもロープが切れて落下することに決まっています(少なくともわたしは、自宅マンションのエレベーターに乗るたび「切れたら、やだな」と毎回息をのんでいます)。この時、すなわちロープが切れてエレベーターが落下した場合、身体は上下に引き伸ばされる感覚を通り越して宙に浮いてしまう、というのはアインシュタインの「エレベーター思考実験」としても有名な話ですが、二冊の句集を眺めるかぎり、鴇田は〈重さなく宙に浮く〉現象というのが相当好きなようで、そこら中にこの手の描写が出てきます。この〈重さなく宙に浮く〉現象、俗にいう無重力状態は、エレベーターのような垂直落下のみならず、放物線を描くように物体を放り投げたときにもその物体内部に生じますが、私はこうした状態にまつわる句全般を、鴇田の「空虚な衝撃」或いは「フローモーション」への嗜好に関係するとみなして次のように書いたことがあります。

水面から剝がれてゆきし揚羽かな
川面からはなびらの吹きあがりけり
障子から風の離るる音のあり
落ちてくる鳥にひろがる秋の空


水面、川面、障子、秋の空といった語は、その薄さや表面性から、時空が時空となる手前の位相を演出するのに大変便利だが、そのような位相から揚羽、はなびら、風の音、鳥などが剥離するとき読者の心を占めるのは、剥離のイメージにまつわる詩性よりも、むしろひらりとめくれるものの線から生じる時空の契機/継起の、その空虚な衝撃そのものである。あるいはこの空虚な衝撃を〈運動によって逆に静止を膨張させる、バレットタイムのような間〉特有の潜勢力と言ってもよい。また次のようなフローモーションでも、作者の知覚の鋭さが逆説的に時間を引きのばし、線のうごきが永遠の継起に留まりつづける〈間〉が描かれている。

ぶらんこをはづれて浮かぶ子供かな
万緑の体育館に浮くボール


(「生きながら永眠する日」)

今、書きながら気づいたのですが、上の「ぶらんこをはづれて浮かぶ子供かな」の句、これ観念でも誇張でもなんでもなく、自由落下による無重力状態のベスト・ショット写生そのものですね。まるで子供が放物線飛行しているみたい。あるいは、私が飛行と感じるのは、たまたま無重力空間での物理現象を研究している人の話を聞いたことがあるからかもしれませんが。

ちなみにその研究者が実験するときは、やはり無重力空間で行うらしい。で、どうやってその空間をつくりだすかというと、仏空軍のパイロットに飛行機を斜め上方に向けて飛ばしてもらい、高度一万メートルまで昇ったら今度は空中でエンジンを停止し、ふわっと空から〈舞い/降りる〉かのように落下してもらう。サ—カスの空中ブランコ乗りみたいに。すると飛行機が地面に落ちてくるまで(ほんの数十秒)の間は機内の重力が消失して、実験が可能になるのだそうです。

という訳で「エレベーターであそぶ作者」のありさまを書くはずが、いつのまにか「
ぶらんこであそぶ子供」の話になってしまいました(どちらも〈宙に遊ぶ〉句だから、ま、いっか)。ともあれ、無重力の世界を舞い遊ぶこの子供、とてもキラキラしつつ、それでいて全然俗っぽくない。鴇田智哉の子供の句って、安易なセンチメンタリズムと断絶した〈異界の天使性〉を秘めていてどれも素敵ですけれど、中でもこの句には異色の天使性や脱俗感があって、幸せな気分になります。


〔*1〕関悦史「青鞋的身体」
http://etushinoheya.web.fc2.com/seia.html





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