2015-02-22

ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって) 柳本々々

ぼんやりを読む
ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)

柳本々々



毛布から白いテレビを見てゐたり   鴇田智哉
(「瞼」『句集 凧と円柱』ふらんす堂、2014年)

この句に対して、こんな問いから、始めてみたいと思います。

「白いテレビを見て」いるとはいうものの、この語り手は、ほんとうは《なにも見ていないことをしている》んじゃないかと。

「白いテレビ」とは、なんでしょうか。画面でしょうか、番組でしょうか、それとも白い筐体のテレビそのものなのでしょうか、あるいは語り手の脳内が雪原のようにブランクな状態にあるのでしょうか、もしくはこの世界そのものがこの世ではない〈彼岸〉なのでしょうか。

わかりません。

この〈わからない〉が実は大事なのではないかと思うのです。〈ぼんやり〉した〈見る〉という不分明な状態にあることが大事なのではないかと。

近森高明さんが『無印都市の社会学』において、ベンヤミンの〈気散じ〉という意識の集中の対極にある概念を、〈身散じ〉として身体レベルにまで接続させながらこんなふうに語られています。

どこにでもあるジャンクな消費装置を〈身散じ〉的に享受している私たちは、ある意味でゾンビ的であるだろう。思考のスイッチを切って、漫然と習慣にまかせながら、店内をうろうろする姿。店内空間のアフォーダンスにまるっきり操作され、空間設計者の意図どおりに翻弄されるがままの姿。どこからともなく同じ場所に集まってきて、互いに意志疎通をはかるでもなく、それでいて何となくつかず離れず一緒に空間を共有している姿。
いや、そう考えると「無印都市」にぼんやり浸っている私たちは、まったくゾンビ的である。
(近森高明『無印都市の社会学』法律文化社、2013年、p.18-9)
思考のスイッチを切り、なんとなくぶらぶらと空間を占有するゾンビ的存在。たとえば『スピカ』にてゾンビ小説/ゾンビ俳句の連載をされた石原ユキオさんの『HAIKU OF THE DEAD』(http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-ishiharayukio)においてもこんなふうなゾンビの〈内面〉が語られていました。

「美味しい。世界全部がぼんやりときれい。朝焼けかな。山火事かも。」

「ぼんやりときれい」。おそらくこの言葉は、鴇田さんの句の「白いテレビ」とつながっているのではないかと思うのです。それは〈気散じ〉のままの〈見る〉ということであり、「毛布」をかぶったままのリラックスしたうつろなゾンビのような〈身散じ〉からの〈見る〉という行為です。

石原さんのゾンビ俳句には、〈身散じ〉=〈ぶらぶら〉ならぬ、実際に身体が散っていくようなゾンビ俳句がゾンビ・テクストのなかで語られていきます。

野犬ガクハフル我ガ左手ヤ盛爪  石原ユキオ

下半身ナクテ愛ヅル  〃

鴇田さんの句が観念的〈気散じ〉の様態から世界を見つめることをあらわしている句であるならば、石原さんの句は身体=モノのレベルにおいて〈身散じ〉から世界を見つめている句なのではないかと思うのです。

そしてどちらも自らの主体を散らせつつ、その意味で〈ゾンビ〉でありつつ、「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」の場所に行き着いている。

「見てゐ」ることが、〈なにか〉を見ることにも、〈どう〉見るかも、〈どこ〉を見るかも、問題にはならないような場所で。それは〈見る〉ことがベクトルをもった〈見る〉こととして組織化されない場所です。

むしろ〈見る〉ことがそのまま同語反復的に〈見る〉ことであるような、〈見る〉ことにしかならない、現実も虚構も意味も非意味もない〈触感〉としかいうべきことばをもたないような〈見る〉こと。

けれども、その〈触感〉としての〈実感〉は「毛布から」と鴇田さんの句に語られているように、〈横〉になる身体として、或いは石原さんの奪われ散り喰われていく身体のように、身体が十全であることの機能をやめた状態での〈非-身体〉として〈見る〉ことがたちあげられている。

だから、それは、《ぼんやり》している。強度のある《ぼんやり》であり、ある意味、積極的で戦略的な《ぼんやり》です。

身体が身体であり損ねること。江戸川乱歩の小説の語り手たちが這ったり、腹這いになったり、体育座りをしながら、いびつな世界を語りつづけるように、身体とは、いうまでもなく、〈見る〉ことと強い結びつきがあります〔*〕

近代的な〈見る〉こととは、おそらくは、〈歩く〉ことでした。きちんと目的をもって、姿勢よく立って、目的地までずんずんと歩くことだった。それは小説の語りや描写とも関連しています。〈歩く〉ことが〈見る/語る〉ことであり、〈語る/見る〉ことが、〈歩く〉ことだった。武田信明さんが夏目漱石の『草枕』を例にとりながらこんなふうに指摘しています。
「余」の歩行には、いくつかの意味がある。プロットを排すること、そして歩行の軌跡によって作品を縫い合わせること、そして眼そのものを移動させることである。つまり歩行は観察と不可分の関係にある。見ることには刹那的な時間しか流れないのに、観察者の移動は時間の継続を補填し続けるからである。それゆえ「草枕」において求められたのは、画工が観察することではなく、彼が歩き回って観察し続けることだったのである。
(武田信明「「写生」と「歩行」」『岩波講座 文学7 つくられた自然』岩波書店、2003年、p.238)
けれども、毛布をかぶった観察者は、身体が朽ちていく観察者は、ぼんやりとしたゾンビ観察者は、近代的な〈正しい〉観察者にはなれない。毛布をかぶったままひとは歩かないし、アキレス腱をかじられたあとで、誰も吟行には行こうとはしないだろうから。

つまりそこには正しい直立の歩行する観察者としての〈写生〉の挫折があり、〈写生〉の挫折からの、〈ぼんやり〉の提唱がある。

〈ぼんやり〉を俳句領域でたちあげること。

それが、鴇田さんや石原さんがゾンビ的ぼんやり身体でなしたことなのではないかと思うのです。

それをたとえばドゥルーズにならって、〈運動イメージ〉から〈時間イメージ〉への転回といってもいいかもしれません。
時間イメージにおいては、登場人物の行動とは全く無関係に空虚な時間がただ流れていく。ここにあるのは、その中で起こることとは無関係に《ただ流れていく時間》を《直接に提示する》イメージである。意味を剥奪された純粋なイメージという意味で、「光学的-音声的なイメージ」とも呼ばれている。
(國分功一郎「思考と主体性」『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013年、p.108)
「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」はドゥルーズ=國分功一郎風に言い換えれば、「意味を剥奪された純粋なイメージ」である。身体の運動や行動が意味をもたず、だからこそ、そこには独特の時間の磁場が生成されていく。そんなふうに、おもうのです。

わたしはいま毛布をかぶりながらこれを書きはじめ、毛布をかぶったままこれを書き終えようとしているのですが、そういえば太宰治というひとがかつて〈女生徒〉というやはり都市を〈気散じ〉=〈身散じ〉のままぶらぶらする語り手をとおしてこんなふうにいっていました。
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢(とし)恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。
(太宰治「女生徒」『走れメロス』新潮文庫、1998年、p.87)
そうなんです。

人間は、毛布をかぶってると、いつもとちがう身体の状況では、ちがうことをかんがえる。ちがうものを、みはじめる。「テレビ」だけじゃない。身体を〈横〉にさせる「毛布」もまたメディアだったのです。安心毛布(セキュリティ・ブランケット)を見出した毛布のスペシャリスト、スヌーピーのライナスも、そういっています。
人生ってのはびっくりすることだらけだっていうね。何もかも見つくしたって思ったちょうどそのときにそうじゃなかったことを思い知らされるのさ  ライナス


【註】
〔*〕たとえばルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(1971)を思い出してみましょう。これは、大ざっぱに要約すれば、アッシェンバッハ教授が想いを寄せる少年をえんえんと〈見つづけ〉る、ただそれだけの映画です。ここで注意したいのが、少年を〈見〉つづけるアッシェンバッハはつねに〈立って・歩行して・ストーキングして〉少年を見つづけていたのであり、アッシェンバッハが座った瞬間、へたりこんだ瞬間、アッシェンバッハはなにも見えなくなる、あるいは〈死〉にむかうという〈見る〉ことと身体の姿態の関係性です。むしろこのときアッシェンバッハは少年をストーキングしつづけている自分自身をみているといっていいかもしれません(座り込み、身体を円環へと近づけたことで)。そしてアッシェンバッハが少年をみることをやめるとき、つまり、座ったままの姿勢をとりつづけるときは、死ぬということなのです。そんなふうに、立つことと、歩くことと、見ることは結びついている。この『ベニスに死す』の逆をいくのが、アッバス・キアロスタミの映画『桜桃の味』(1997)です。カメラは車の内部から固定され、車の外には出ない。主人公である自殺志願の男がえんえんと車を走らせながら、自殺を手伝ってくれる人間を《車から》さがす。ある意味、車の内部が外の風景を、ひとを、えんえんと《見る》映画がこの映画です。『ベニスに死す』の《立》って《見》ていたアッシェンバッハと違い、『桜桃の味』の主人公は車の運転席にたえず《座》って世界を《見》ている。ところがある人間から「桜桃の味」をめぐるエピソードをきいたとき、男にふいに転機が訪れます。男は車から飛び出し、落ちる夕陽をみてしまう。男ははじめて車の外で《立》って世界を《見》たのです。『ベニスに死す』のアッシェンバッハ教授は《座り》ながら死にましたが、『桜桃の味』の無名の男は《立》って生きる決心をしました。おそらく、男は、そのときはじめて〈見る〉ということを知ったのです。その映画を観ていた〈この・わたし〉も。


2 コメント:

俳句飯 さんのコメント...

「ぼんやり読む」楽しく拝見しました。
ぼんやりは結局ぼんやりであってそれ以上ではないけれど、
鴇田さんの句との関係において、リタッチかなという感じがしました。
そういう生体の化学っぽい力、死して死なない現象のようなものが
見えたような気がしました。

小俣瀬 さんのコメント...

病床の正岡子規は歩けなかったはずですが、
動かずに見ることが「写生」の挫折なら、
「写生」には健康が大事ということですよね!